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白帝月71日、その日、湿った雪が舞い散る中、長い馬車の隊列が王宮を出発した。総勢五十人。王子と王女がいるにしては少ない数だったが、それも仕方がなかった。兵士はまだ北の国境に取られていたのだ。炎帝騎士団の騎士がグーヴァーを含め四人、近衛隊からは二人、そしてタザリアの兵士が三十人と、王子と王女の世話をする侍従と侍女がそれぞれ五人ずつ。ジグリットは一人、自分の栗毛の牡馬に乗っていたが、ジューヌとリネアは肢の太い輓馬が曳く屋根付き馬車に乗っていた。こんなに長い行列を見たのは、ジグリットも初めてだった。馬車だけでも十二台、それに前方でタザリアの黒き炎の旗印が騎手によって常に掲げられていた。ジグリットは最初は後尾を炎帝騎士団の騎士と進んでいたが、やがて馬の足を速め、前方にいるグーヴァーに追いついていた。
「あまり飛ばすと、すぐにバテちまうぞ」とグーヴァーが注意すると、ジグリットはにこやかに笑った。
まだ陽射しは消え入りそうなほど頼りなく、止まないぼたん雪のせいで外衣と頭巾は濡れ、重くなっていた。冷たい風がアンバー湖の水面を幾度も駆け抜け、群青色の小波が棘のように逆立っている。湖岸を行く彼らを、チョザの郊外で働く農民や通りすがりの旅人、それに商人が興味深そうに足を停め見つめた。
彼らは緊迫状態にある北のナフタバンナ国内を通過するつもりはなかった。教会が身の安全を保障しているとは言っても、安全策を講じるのは身分ある者として当然のことだった。しかし、北からテュランノスの山々を周る以外に、道は南しかなかった。アンバー湖沿いに南下し、テュランノスの南玄関、ウァッリス公国のアプロン峠を通るのだ。ウァッリスとの関係は、良いとは言えなかったが、ナフタバンナよりも格段に手堅いものだった。
そこを過ぎれば、ウァッリス公国のお膝元となる。テュランノス山脈と平行するオーバード山脈、そのバルダの裂け目と呼ばれる渓谷を通り抜け、オーバード山脈をも南より迂回する。そこからはアルケナシュ公国の領土であり、さらに領内にまた別の国が存在する。レイモーン王国だ。この国はタザリアほどの領地がすべて草原でできている。どの国も干渉を赦されない聖なる草原パスハリッツァだ。バスカニオン教の頂点に立つ少女神はここで生まれる。よって、教会にとってはフランチェサイズよりも重要な地である。その広い草原を抜ければ、もうフランチェサイズは見えたも同然だ。
問題はウァッリス公国を無事に抜けられるかどうかだけだった。ジグリットは最初から全く心配していなかったし、何より彼らには炎帝騎士団の騎士長グーヴァーが付いていた。妙な杞憂はするだけ無駄だとジグリットは思っていた。だが、ジューヌは違った。王子は長い旅の間、絶対に屋根付き馬車から出ないと決めているらしく、たまにリネアでさえ空気を吸いに外へ顔を出すというのに、彼に至ってはもう、いるのかいないのかわからないような有様だった。
ジューヌ曰く「王位継承者には敵がいっぱいいて、いつか簒奪者がやって来る。そしたらぼくは殺されるんだ」と言うことらしかった。しかも、侍女のヤーヤに彼が泣きながら「王位なんかいらないんだ」と駄々をこねているのをジグリットは偶然、馬車の横を通りかかった時に聞いてしまった。あまりの醜態にリネアは出発した翌日には弟とは別の馬車に移動していた。
出発して十日余りが経った頃、一行はテュランノスの南玄関、アプロン峠の入口に差しかかった。アプロンとは、片道という意味だ。昔は入れば二度と出て来れない恐ろしい険路だったと言われている。しかし、今は砂礫と岩壁にさえ気をつければ、馬車でも通れるように整地されていた。
ジグリットは騎乗したまま、楽に山道を登り始めていた。十二台の馬車は、それぞれ兵士が尻を押す必要があったが、それでも途中までは問題もなく上がることができていた。だが、登るにつれて残雪が目立つようになり、馬車が滑りやすくなって来ると、さすがの侍女や侍従も馬車から降りなければならなかった。リネアも馬車から出て、あまり見ない乗馬服に厚手の黒の外套、そして綿を詰めた平たい帽子を被って、黙々と馬を駆った。唯一、崖下に転げ落ちそうな馬車に残ったのはジューヌと侍女のヤーヤだけだった。ジグリットは、馬車に残る方が勇気がいるし、よっぽど怖いだろうにと思った。
峠の頂上にあるグイサラーの町に着く頃には、景色は一面、真っ白に雪で覆われていた。見回しても見えるのは、続く峰と低い雲、それだけだった。町は小さく、ジグリットの故郷であるエスタークよりも寂れていた。それも当然で、そこは標高二千五百ヤールの高地だった。空気は薄く、ジグリットは少し馬で揺られただけでも、胸が苦しくなった。
グイサラーの町に一泊すると、一行はすぐに峠を降り始めた。それは、リネアの具合が悪くなってきたからだった。幾人かの兵士も躰の不調を訴え、町にたった一人の医師は早く下山することを勧めた。ジグリットは、もう少しここに居たいと思った。グイサラーの町は小さく、物資もほとんどなかったが、景色だけは素晴らしかった。夜は手の届きそうな所にまで星が煌めき、朝靄は午前中、赤みを帯びた黄色に輝いていた。
峠を下山するのは、登ってくる以上に大変だった。地面の雪は融け始めていた上、夜の間に再び凍りついてアイスバーンになっている箇所も多かった。彼らは二台の馬車を失うはめになったが、それでもジューヌは馬車に篭もっていた。
峠を抜けると、すぐに大きな街があった。リネアの体調を整えるため、そこで二日休みを取った。ウァッリス公国の二大都市の一つ、ヴァジッシュだ。北には首都になっているフェアアーラがあり、そこにはバルダ全土から集まった頭脳明晰な人達が学ぶ学士院と最大級の国立書廟が建造されていた。
ジグリット達がヴァジッシュに着いたとき、ちょうど年が明け、白帝月から紫暁月に移り変わる最初で最後の一日、数えない日に当たり、街はお祭り騒ぎの只中だった。ジグリットはグーヴァーとヴァジッシュの街を散策し、ウァッリス公国の人々の暮らしを目の当たりにした。彼らのほとんどは字を読むことができ、簡単な計算ならジグリットより幼い子供でもこなした。そういう時、ジグリットはエスタークで失ったかつての仲間を思い出し、越えてきたテュランノス山脈の稜線を寂しげに見上げるのだった。
そこからは比較的、道行は緩やかだった。一行は十台の馬車を引き連れて、ウァッリス公国の中央を流れるアバルラバン河の辺にある水櫓へと向かった。河には馬車用の舗装された水路があり、水に浮かべた馬車を岸から馬で曳き、速さを調整できるように造られていた。ジグリットはあえて馬で陸を進んだ。グーヴァーや他の騎士、それに幾人かの兵士と共に、河伝いに駆けるのは気持ちが良いものだった。チョザの王宮を出立してから、すでに二十日が過ぎていた。季節は紫暁月に移り、陽射しは外衣を通して暖かく、風は頬を優しく愛撫する。栗毛の馬もそれを感じているのか、水路の横を駆ける肢に力が漲っていた。
水煙を上げて進む十台の馬車は、途中から杉の聳えるパトスの森に入り、兵士達は陽気に歌を歌った。ジグリットもグーヴァーと馬上で黒板を使い、様々な話をした。しかし、ジューヌだけはやはり馬車から出て来ようとしなかった。
森の終わりが水路の終点でもあった。彼らは馬車を引き上げ、また馬に繋いだ。どこまでも続く曠野が見えた。長い翼を広げた鷹が飛び交い、その暗褐色の躰には大きすぎる獲物を鉤爪にぶら下げていた。
南へと進んでいた一行は、そこから西へ向きを変え、レイモーン王国の草原を目指した。ジグリットは草原地帯を見るのは初めてだった。それは突如、緑の絨毯として出現した。何の前触れもなしに。馬車はより一層、軽快に走っていた。それもそのはずで、馬達は曠野のしょぼくれた枯草に満足していなかった。草原は馬にとっても御馳走の絨毯だったのだ。
レイモーン王国に入って五日目、ジグリット達は首都のイムーヌに着いた。そこは見たことのない円蓋天幕の集落で、人々は草で染めた渋い色合いの長衣を身に纏っていた。
国の統治者は王とは呼ばれず、民長として、家畜を飼う少数の遊牧民達を取り仕切っていた。ジグリットの知らない種類の山羊や羊が草原の至る所に点在していた。家畜はどれも恐るべき大食漢で、一月の間に辺り一帯を丸坊主にしてしまうと民長は言った。彼は山々を越えてきた遠い国の王子と王女に儀礼を払って、一番良い部屋を与え、出来得る限りの最高の料理を振る舞ったが、ジューヌとリネアはそれらを臭いがキツイ、虫が寝台に潜んでいたなどと言って、貶してばかりいた。
ジグリットは緑に覆われた丘陵や、遊牧民の慎ましい生活にひたすら感心し、興味を抱いた。彼らはタザリアやウァッリスの民よりも、バスカニオン教を強く信奉していた。彼らの天幕には、必ず絵画風の刺繍の入った織物があり、就寝前と出かける前は礼拝を怠らなかった。
イムーヌを過ぎると、フランチェサイズまであっという間だった。草原を抜け、アルケナシュ公国の舗装された街道を見た時、ジグリットは文化の違いを眸にした。タザリアの街中でしか見ないような、煉瓦の舗道が辺鄙な曠野にまで敷かれていたのだ。すべての煉瓦に、アルケナシュ公国の王家の家紋である、角の生えた鹿が刻まれていた。
そのおかげで馬車は円滑に進み、チョザを出て四十四日目、彼らはようやくフランチェサイズへ辿り着くこととなった。ジグリットは旅の間に一つ歳を取り、十四歳になっていた。彼は騎士長のグーヴァーと並んで都市へ入り、アルケナシュ公国と教会の拠点となっているその地に、ただただ驚き入るばかりだった。




