5-2
王と王妃は二人で何かを話し合っていた。ジグリットは二人の話に割り込まず、黒板を脇に抱えたまま、王妃の横で待っていた。ふと王妃が気付いて、怪訝な顔でジグリットを見上げた。「何か用なの?」鋭く冷ややかな声だった。ジグリットは失礼のないよう、一歩下がって頷いた。
王もジグリットに気付き、驚いた様子で持っていた杯を置いた。「ジグリット、一瞬、ジューヌかと思ったぞ」王は王妃と違い、ジグリットに好意的な笑顔を向けた。
ジグリットは微笑もうと思ったが、緊張の余り、口の端を引き攣らせただけだった。王妃に黒板を差し出す。
「何なの?」と王妃エスナが受け取ると、王が奥から言った。「ジグリットが会話に使う黒板だよ」王妃は手元に黒板を寄せ、それを見て一瞬、驚いたようにジグリットを見上げた。王も同様の反応を示した。
王妃はジグリットではなく、王に顔を向けた。「わたくし、この子を影武者として育てていると聞きましたけど?」
「その通りだよ、エスナ」王はにこりと笑った。
「だったらなぜ、このような曲芸師紛いの事を言うのかしら? それとも、タザリアの教育係はそのような事まで教えるの?」
ジグリットは王妃が黒板に書いた案に不賛成なのを知り、大きなショックを受けていた。実行させてもらえなければ、計画に支障をきたすだけではなく、皆ががっかりするだろう。しかし、王はジグリットの味方だった。
「いいじゃないか、王宮の者達が君を祝いたいと言っているんだ。どんな見世物か、わたしはぜひ見たいね」
事実上、王が賛成を示したので、王妃は溜め息をついた。
「わかりました。でも、どうせ大したことないわ」
「それは見てみないとわからないさ」
ジグリットは王妃に黒板を返してもらい、二人の席の前に回った。そして近い場所に座っているギィエラの視線を感じつつ、居並ぶ兵士に向かって大きく両手を打ち鳴らした。
皆が話をやめて、こちらを見る。ジグリットの心臓が、どくどくと激しく内側から胸を叩き始めた。うまくいくかどうかは、彼らにかかっている。そう、皆に。
ジグリットは黒板を足元に置き、右手を胸衣嚢に入れた。そしてそこから出した手を拳にして高々と突き上げる。
兵士だけでなく、走り回って皿を回収していた給仕も、炎帝騎士団の騎士達も、そして右側の壁沿いに座っている近衛隊の隊員一同も、ジグリットを見つめていた。もちろん、その中には疎ましい目つきでこちらを睨むギィエラの姿もあった。
ジグリットは右手の拳を今度は、まっすぐ前に出し、ゆっくりと指先を開いた。そこには、翠玉グリーンに輝くタザリア王家の至宝、ヴェールマランがあった。
ほうっと言う溜め息混じりの感嘆の声が兵士の席から上がる。ギィエラの眸が見開き、ジグリットは彼が手の中の魔道具を熱く見つめるのを感じた。しかし誰も騒ぎ立てたりはしなかった。
ジグリットは左手を挙げ、席のずっと後ろの方で待機していた数十人の兵士見習いの少年達に合図を送った。彼らは一斉に立ち上がり、そして覚えた言葉を練習通りに、一字一句ずれることもなく詠唱した。
「クラプシアリア・ナガラジャファハイファ・アンダルセアンダラマギオ」
ジグリットの眸は、ギィエラがぎょっとしたように後ろを振り返るのを捉えていた。
「サッカバアン・ラビナ・ユガロマビオ・・・・・・」
王妃が背後で「古代言語!?」と呟くのが聴こえた。ジグリットはにやりと笑みを浮かべた。ジグリットはギィエラが一度唱えた古代言語をすべて記憶していたのだ。ヴェールマランの起動条件は古代言語による呪文の詠唱。しかし声の出ないジグリット自身がそれを行うことは適わない。だからこそ、これを余興にしなければならなかった。
「・・・・・・ナギリア・ヴァダシイララナン」
古代言語の詠唱が終わった瞬間、広間のすべての明かりが消えた。壁の松明も、長机に載った燭台もだ。真っ暗になった広間の中、驚いた人々がざわめき始める。そしてすぐに小姓達によって、広間の外から火が齎された。次々と三枝の燭台の蝋燭、それに壁の松脂にも火が灯され、広間がまた煌々と明かりに包まれると、ジグリットは広間中が赤や黄色、それに橙色といった様々な色の花に満たされているのを見た。それは兵士達の足元を埋め尽くし、ジグリットの立っている一段高い場所の際までせまっていた。広間はいまや大きな花畑と化していた。
「素晴らしい!」と王が立ち上がり叫んだ。しかし王妃を含め、三人のタザリアの女子供は無言だった。王が背後で拍手を始める。つられたように王妃も、そして渋々リネアがそれに倣って、ジューヌがという風に、タザリア家の拍手はやがて花と共に広間を覆い尽くした。ジグリットは振り返り、にこやかに微笑んだ。賞賛や快哉の声を欲しているわけではない。
――うまくいった。後は・・・・・・ヤツが動くかどうかだ。
ジグリットがそう思った直後だった。兵士の列席する中で、ギィエラが自らの眼帯に手をかけたのが、ジグリットには見えた。
――さぁ、動け! 確かめてみろ。
ギィエラはそこに手を入れたまま、眉根を寄せ考え込んでいる。ジグリットは右手にヴェールマランを持ったまま、兵士達の席に歩いて行った。
ギィエラの眸が上がり、二人は見つめ合った。ジグリットは居並ぶ兵士を掻き分け、するすると細い躰で席の間を抜けて行く。ギィエラが立ち上がった。しかし、ジグリットはその時、すでに彼に手が届く距離に達していた。
兵士達の不思議そうな顔の中、ジグリットはギィエラの眼帯に差し入れた手をがしっと強く掴んだ。
「何をするっ!」ギィエラの面食らったような声に、ジグリットは無視して彼の腕を強引に表に出した。
二つの翠玉の魔道具が広間に現れ、さすがに兵士の間からどよめきが起こった。ジグリットはその場で兵士の長椅子の上に立ち、ヴェールマランが皆に見えるように、両手を頭上に掲げる。
「なんで二つもあるんだ!?」「こんな事は聞いてないぜ」「おれも聞いちゃいない」「どうなってんだ?」兵士達が騒ぎ立てると、ギィエラは真っ青になり、ジグリットから離れようとしたが、すでに遅かった。
王は最前席で眸を眇めて、事の成り行きを見守っていたが、やがて騒ぐ兵士に一喝した。「静粛に!」そして立ち上がると、ギィエラではなく、ジグリットに問いかけた。「この芝居は筋書き通りなのか、それともジグリット、おまえの単独行動なのか?」
ジグリットはようやくギィエラから手を離した。魔道具使いは忌々しそうにヴェールマランを手にしたまま、一歩退いた。ジグリットが王の問いに答える必要はなかった。代わりに、左の壁際に並んで座っていた炎帝騎士団の騎士の一人が立ち上がった。
「陛下、恐れながら申し上げます」それは正装の場であっても、黒ずくめの格好をした冬将の騎士、ファン・ダルタだった。彼は手に白い紙を持ち、それを開きながら王に告げた。「ジグリットの代わりにこの不肖、ファン・ダルタが彼の手紙を朗誦することをお赦しください」
王は渋い表情のまま、騎士に頷いた。「よろしい、聞かせてもらおうか」
ジグリットは、冬将の騎士でも王でもなく、ただ一人、魔道具使いギィエラに全神経を集中させていた。彼がまた何かやらかさないとも限らないと思っていたからだ。しかし、ギィエラはすっかり意気消沈し、その場で茫然と立っていた。
ファン・ダルタは手紙を読み上げた。そこには、王を驚愕させることが書かれてあった。
「わたくし、ジグリットのこのような非礼をまず、陛下とタザリアの黒き炎を司る一族にお詫び致します」そこで冬将の騎士はジグリットの方を見た。王もギィエラの横で警戒を怠らない少年の厳しい顔を眸にした。「この度、王妃様のお誕生の愛餐の場において、わたくしが起案しました一連の芝居は、王妃エスナ様が花を愛でることを好まれていると知ったからに他なりません。タザリアの黒き炎に忠誠を誓いし王宮のすべての者、一同、この余興を用意させていただきました」
王は顎髭を撫でながら、続きを促すように何度も頷いた。騎士は声高に読み上げる。「しかし、唯一終幕だけはわたくししか知らないものとなっておりました。それは、ここにいる陛下の親近であらせられます魔道具使いギィエラが国賊であると――」そこでファン・ダルタでさえ言葉に詰まった。広間は一瞬にして張り詰めた。「――知ったからであります」
騎士は手紙を食い入るように見つめ、自らも先を恐れながら読み続けた。「数日前、わたくしは偶然にもソレシ城の古文書庫にて、ここにいる魔道具使いギィエラが他国の密偵と内通している様を目の当たりにしました」
そこに書かれていたことに、ジグリットと当の売国奴ギィエラ以外の全員が耳を疑った。元々、これがジグリットの発案であることを知らなかった兵士も多数いた。王妃の誕生日にヴェールマランの贋物を使って、広間を花で埋め尽くすという突飛もない贈り物を、この少年が考えたとは、普通なら思いもよらないことだ。彼らは王妃様のお誕生の祝いのためにと、炎帝騎士団の騎士や、侍従、侍女、それに兵士見習いの仲間内から話を伝え聞き、この芝居に荷担したのだった。
ジグリットというジューヌ王子の影武者の少年が、王の前でヴェールマランの贋物を掲げた時、明かりがすべて消える。その数秒の間に、長椅子の下やテーブルの床下から用意しておいた花という花を足元に並べて花畑を作る。彼らが聞いていたのはそれだけだった。
しかし、今ここで語られている事は、それだけに留まらなかった。ジグリットは、宝物庫で見たヴェールマランが贋物であると知った後、さらにその贋物の贋物を作ることにしたのだ。そして、王家に仕える人々の協力で、一瞬にして広間を植物で埋め、いかにもヴェールマランの本物を使ったかのように見せかけた。そうすれば、ギィエラは必ず尻尾を出すとジグリットは踏んでいた。
手紙には、ギィエラが持っているヴェールマランこそが本物で、彼がタザリアを裏切っている証拠は、その手に握られている、と締め括られていた。
冬将の騎士がジグリットの手紙を読み終えると、広間の緊迫した空気の中で王の唇がわなわなと震えているのが、前方の席にいる兵士達にも見てとれた。その眸は血走ったように怒りに滾っていた。
「バッサカス・ギィエラ」王の冷酷な声は広間を凍りつかせた。「何か釈明する余地があるか」
ギィエラは蒼白を通り越し、どす黒い顔で首を振った。「へ、陛下・・・・・・わたくしを疑うのですか!? このような、どこの生まれかもわからぬ卑しい身分の者を信用なさると言うのですか!?」
しかし、王が答えるより早く、ギィエラの後ろに立っていた兵士がその手からヴェールマランを奪い取った。ジグリットは、それが近衛隊の隊長フツだと言う事に、その時初めて気付いた。いつの間に近寄っていたのだろう。しかもフツの背後には二人の隊員が腰の剣を抜いて、恐ろしい形相で待ち構えていた。
「わ、わたくしはこの小僧に填められたのです! クレイトス様!!」
「真偽はすぐにわかるだろう」と王は言った。「フツよ、おまえの眸で見て、そのヴェールマラン、本物か・・・・・・それとも、」
隊長のフツはしれっと答えた。「これは本物ですよ、陛下」
「わ、わたしは売国奴などではない!」
ギィエラの掲げた両腕を、フツの後ろにいた近衛隊の隊員二人が取り押さえた。ジグリットは王が至って冷静な眸で場を見ていることに気付いた。誰の謀略かなど、王にとっては湖に石を投げ入れるような些細な事なのだ。ただし、波紋が広がらなければだが。
「ギィエラの部屋を捜索せよ」王に命じられ、フツは敬礼した。そして近衛隊全員が右側の壁沿いの席から立ち上がると、広間をぞろぞろと出て行った。ギィエラも続いて腕を抱えられたまま連れられて行く。
ジグリットがその場に立ち尽くしていると、王はようやく溜め息をつき、彼を呼んだ。「ジグリット、こちらへ来なさい」ジグリットは兵士達の間から抜け、王とテーブルを挟んで向かい合った。隣りで王妃が胡散臭い眼差しでジグリットを見上げている。
「あやつが怪しい動きをしている事は、こちらでも把握していたのだ」
ジグリットは驚いた。だったらなぜ放置していたのか、しかもタザリアの至宝まで彼に奪い取られていたのに。王はやる瀬ないような顔で首を振った。
「しかし、何も証拠がなかった。我が王家の魔道具にまで手を出していたとは。おまえにはまたもや助けられた。感謝するぞ」
ジグリットはその言葉を一礼して受け取った。王の感謝に多大なる礼儀と忠節を表したのだ。王は微笑んだ。「褒美を取らせる。何でも言ってみろ。もっと歳がいっていれば、女を用意するなり、屋敷を与えるなりしたが・・・・・・おまえの歳ではそれも魅力にはならんだろう」王の言葉は、ジグリットには過ぎたものに思えた。そこまで寛大な言葉を貰えるほどの事はしていない。自分の命を守るためにしたことなのだ。そのとき、先ほどの芝居のために王と王妃のテーブル横に置いていった黒板があるのが眸に入った。ジグリットは黒板を手に取り、王の前で白墨を使い、すらすらと文字を書いた。
[今宵は王妃様のお誕生日のお祝いですので、それに対しての褒美は戴くわけにはいきません]
王に見せると、彼はさらに破顔した。
「おまえほど敬虔で慎み深い少年もそうそういまい。だが、それではわたしの気が済まないのだという事を知ってくれ」
ジグリットは首を傾げ、一瞬逡巡するように眸を動かした。そして黒板にまた白墨を走らせた。
[あの魔道具使いを捕らえたのは、もちろん陛下と黒き炎の一族のためですが、それと同時にわたし自身の命を救うためでもあったのです]
王は期待していたものとは違った返事に困惑したが、ジグリットは構わず丁寧に文字を書き続けた。
[ギィエラは国賊であることがバレたその日、わたしを殺そうとしたのです。いつでも機会があれば、彼はわたしを殺そうとしたでしょう。ですから陛下、わたしはわたしの命を救うためにこうしなければならなかったのです。わたしがわたしの命を救ったからといって、陛下に褒美を戴くのはこれも道理が通りません]
ジグリットの黒板の長文を読んだ王は、静かな錆色の眸でジグリットを見つめ言った。
「おまえがしたことはそれだけのことではないんだよ、ジグリット。その歳ではまだわからないかもしれないが、ただこれだけは言わせてくれ。おまえはジューヌの身代わりとしてここへ来たが、もしおまえがこれからあの子と似ても似つかない姿になったとしても、おまえのその勇気と知性が黒き炎には必要だ」
王はジグリットのすべてに感銘を受け、我が子のジューヌにさえ言ったことのないような言葉をかけた。それは、ジグリットが王の信頼を勝ち得た瞬間だった。
左の席に座ってそれを見ていたジューヌは、初めてリネアが今まで吹き込んできた言葉を信じる気持ちになっていた。
「ジグリットは、いずれジューヌから王位を奪い取るのよ」
「誰もが賢い者を好む。王として統治者として、より優れた者を。それはジューヌじゃない。ジグリットなのよ」
――お父様も、そうなんだ。
ジューヌはジグリットを畏怖する気持ちが膨らんでいくのを感じていた。自分だったら、ギィエラを訴えるようなことはできなかっただろう。そして、リネアなら嫉妬という炎に変えるその感情も、彼にとってはさらなる恐慌にしかならなかった。小心者の王子は、厚い壁で自らを隠すことでしか自身の心を守る術を知らなかった。




