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王宮での侍従の服は、厚手の木綿の上衣の上に白帝月用の毛編、そしてその上に品の良い丈の短い上着を着る。下衣は羊毛で、なかなかに温かかった。しかし、ジグリットはできるだけジューヌと同じ物を着せられていたので、彼らよりもさらに良い服を与えられていた。それが幸いした、とジグリットは自室の姿見の前で、じっくりと自分を見やった。
緞子の上着に、絹織の下衣、そして分厚い狐の毛皮に裏打ちされた黒革の外衣は足先まで垂れ、一切風を通さないようにできていた。ジグリットは冷たい水で濡らした手で、自分の髪を押さえたり分けたりしながら、ジューヌに似せるため、眠そうな顔やうんざりした表情を作って、鏡で確認した。
――これなら、なんとかなるか。
王やリネアを騙せるかと問われれば、それは無理だろうが、相手は衛兵だ。あまり王子と関わり合いにならないから、顔をはっきりとは覚えていないはず。ジグリットは鏡の前に立つ贋王子に向かって頷いた。贋者もまた確信を持って頷いたように見えた。
宝物庫がある場所は、前もってそれとなくマネスラーに訊いておいたが、ジグリットが立ち入ったことのない場所だった。それはマウー城にあった。滅多に会うこともない王妃エスナの住まいだ。
エスナ王妃は、西北にあるベトゥラ共和国のシェイド公国、三番目の王女だった。ベトゥラ共和国は他国とは違い、数年前までは小僭主がそれぞれの地方を治世する小国分立の国の集まりだった。僭主は各々の領土を持ち、その数は二十以上と言われたが、今は三家の貴族が分割して統治している。それが、シェイド・ノイモント・ベトゥラの三家である。それぞれ家紋も違い、シェイドは雪華を、ノイモントは狐を、そしてベトゥラは樺の枝葉と太陽を掲げていた。そのため、ベトゥラ共和国の旗は常に三本あった。エスナ王妃は、その雪華を紋章とするシェイド家出身で、ここタザリアへ政略結婚で嫁いできたのだ。
西北の極寒の地で生まれ育った王妃は、ここタザリアの湿気を含んだ暑い蛍藍月が耐え難く、ほとんど外へは出なかった。しかし、白帝月の時期は違った。
ジグリットは、王妃に出くわさない事を願っていた。午後の冬将の騎士との授業の後しか、空いた時間はない。夕餉前のその時間に、マウー城へ忍び込み、宝物庫へ近づくのだ。だが、王妃に見つかったら、さすがに母親だ。ジグリットとジューヌの違いなどすぐに見抜いてしまうだろう。
ジグリットは自室から出て、そっと音を立てないよう扉を閉めた。ジューヌは部屋にいるようだ。侍女にまたぐずっているのが聴こえた。階段を降りて、中庭を通りマウー城へ入っても良かったが、ジグリットは四階の渡り廊下からアイギオン城を経由して行こうと決めていた。
中庭を通れば、小姓や侍女の眸につくし、場合によっては衛兵にもいらぬ詮索をされる心配がある。ジグリットは早足で渡り廊下からアイギオン城の西塔へ、そして長い柱廊の並ぶ四階の様々な部屋の前を素通りして、東塔へと向かった。途中、幾人かの侍従や侍女とすれ違ったが、彼らは王子と勘違いしているのか、ジグリットに向かって立ち止まり、彼が通り過ぎるまで頭を下げていた。
――きっと大丈夫だ。
ジグリットはそれで勢いづいて、スタスタとアイギオン城の東塔から渡り廊下を通ってマウー城の南塔へと入った。そこはどの城よりもひんやりとしていた。空気が澄んでいる。頬に触れる空気が刺すように冷たかった。その理由はすぐにわかった。城の窓の鎧戸の幾つかが開け放たれていたのだ。ソレシ城やアイギオン城では考えられないことだった。特にソレシ城では、一つでも窓が開いていようものなら、リネアに撲たれるか、ジューヌに泣きながら文句を言われるかのどちらかだ。
――王妃様が寒い国の出身だって言うのは本当らしいな。
厚い外衣を着たジグリットも思わず、身震いした。
――早く済ませて出て行こう。
宝物庫は確か、マウー城の中央にあるはずだ。マネスラーはそう詳しくは話さなかったが、ジグリットは、マウー城をソレシ城と同じような造りだと思っていた。しかし、南塔から城へ入ったジグリットは、マウー城がとてつもなく広い中庭を有する四角い環のようになっているのを知った。
通廊の両側に窓があり、左手が城外なら、常に右手が中庭の吹き抜けが見えるようになっている。四階の開いている窓の一つから、ジグリットが一階の中庭を覗き込むと、そこには外と同じように雪が積もっていた。そして衛兵の格好をした男が一人、小さな正方形の石綿板屋根の前に立っているのが見えた。
――城の中に外があるなんて、しかも小屋みたいなのまであるぞ。
ジグリットは驚いて隅々までじっくり眺めた。平屋の周りには数本の葉の枯れた大木の他、道を作るかのように、低木がこんもりと雪を乗せ連なっていた。そして、その中庭に通じる扉は見た限り一階の東西南北すべての壁の隅に付いていた。
ジグリットは、そこが宝物庫だろうと検討は付いたが、これはこれで困った事になったぞと顔をしかめた。
衛兵が一人はいるだろうと予想はしていたが、中庭に別の建物として存在しているとは思わなかった。今、自分が見ているように、あの平屋へ近づくなら、四方の窓から人に見られることになるだろう。もし、王妃が気付いて声を掛けてきたら・・・・・・。ジグリットは窓際から廊下へ戻って、その場にしゃがんだ。
――静かに、そして迅速に済ませないといけないな。
ここまで来て、帰るつもりはなかった。自分の命が懸かっているのだ。そう簡単には諦められない。立ち上がり、ジグリットは階段を下りて行った。
なんて寒い所だろうと、リネアもまた薄黄色の上着に掛けた毛皮の肩掛けの前を引き合わせていた。彼女はジグリットが部屋を出た時から、ずっと彼と一定の間隔を保って付いて来ていた。ジグリットがマウー城へ来るまで、リネアは彼の目的さえ知らなかった。しかし、今はちゃんと理解していた。マウー城の中庭に彼が驚いた様子も、それでも強い眼差しで階下の小屋を眺めていたのも、リネアは黙って見ていたのだ。
――それにしても、宝物庫に何の用があるって言うの?
ジグリットが王家の至宝である三つの魔道具を盗もうとしているとは、考えられなかった。幾ら元盗人で、生まれの知れない穢らわしい孤児の少年だとは言え、そこまで愚かではないだろう。
――それとも、わたしの見込み違い? 本当の正体は、やはりどこまでいっても薄汚い泥棒だと言うの?
リネアは階段を降りて行くジグリットに、足音を忍ばせ寒さに震えながら付いて行く。
――お母様も、よくこんな環境に住めること。北の女は皮膚が鞭のようだと聞いたことがあるけれど、それは本当みたいだわ。
実の母親を莫迦にしたように、リネアは蔑みを持って笑った。彼女は王妃エスナを、田舎者の下っ端貴族の一員とみなしていた。ベトゥラ共和国の噂は、嫌と言うほど聞いたものだが、貴族が寄り集まってできた国など、彼女にとっては所詮、掲げる王さえ選出できない私利私欲に冒された愚かな僭主共の共同体に過ぎなかった。どんなに領土を広げても、決して一番の権力者ではないのだ。やがては、些細な争いから、国内が分裂する危機が訪れるだろう。そうなれば、王妃のシェイド家もどうなるか知れたものではない。
ジグリットが一階に着く頃には、リネアも階段を降りていた。しかし、足音がどうしても立ってしまう。
――あの子、どうやってあんなに早く、静かに降りたのかしら?
実はジグリットは靴を手に持って裸足で降りたのだが、リネアは気付くこともなかった。もしそうだと知っても、実践はしなかっただろう。凍った御影石の上を素足で歩くのは、火傷のような痛みに耐えなければならなかったからだ。
リネアがようやく階段を降り切った時には、すでにジグリットは中庭に出ていた。扉をそっと開けてリネアが見たとき、彼の背筋はピンと伸び、真の王子のように衛兵の前に立っていた。衛兵が彼に声をかけるのが聴こえた。
「これはジューヌ様、王妃様にお目通りですか?」
リネアは、ジグリットがどうするのだろうかと、扉の隙間から覗いていた。しかし、ジグリットは黙っている。衛兵が首を傾げるのが見えた。
「ジューヌ様? それとも、宝物庫に御用でしょうか?」
ジグリットが俯き、困ったように首を振る。リネアは眸を瞬いた。
――まさか、何の対策も立てないで来たのだろうか。
リネアは驚いていたが、ジグリットも同様だった。実は、彼は衛兵とはちゃんと声を出して話をするつもりでいたのだ。しかし、いざ声を出そうとしても、咽喉からは掠れ声すら出せなかった。今までの数年間、声を殺して生活してきたため、本当に声が出なくなっていたのだ。
焦ったジグリットは、顔を真っ赤にして声を出そうと頑張ったが、どうにも無理だ。衛兵はいよいよ怪しんだ様子で、ジグリットを険しい表情で見据えている。その時、背後から声がした。
「ジューヌ、勝手に一人で行ってはダメよ」
振り返ったジグリットはリネアが上履きのまま、雪の上を歩いて来るのを見た。彼女は寒いのか、肩を丸めて近づいて来ると、衛兵とジグリットの間に割って入った。
「宝物庫の中を少し見せて欲しいのだけれど」とリネアは細い顎を上げ、命令するような仕草で衛兵を促した。
「王女様・・・・・・そ、それは困ります。どうぞ陛下に許可をお取りになって下さい」
ジグリットは衛兵が自分ではなく、リネアに注意を移したことを知った。
「許可を取るほどの事ではないわ」リネアは勝手に衛兵の横を通ろうとした。「我がタザリアの至宝、三つの魔道具を少し見せていただければいいのよ」
「お、お願いです、王女様」衛兵は彼女を止めようとしていたが、触れることはしなかった。それが懸命だとジグリットも思った。彼女は身分の低い者に触れられると、相手を罵倒し、暴力を振るうのが常なのだ。しかも今は宥め役の侍女も侍従もいない。ジグリットでは火に油を注ぐようなものだ。
「あなたもわたくし達が見るだけだということを、ちゃんと監視していればわかるでしょう」リネアは建物の両開きの扉の取っ手を掴んでいた。「さぁ、鍵を」強い口調のリネアに、衛兵は大きく溜め息をつき、肩を落とした。
「わかりました。では、数分ですよ。これが知れたら、わたしは首です」
「そんな事にはならないわ。わたくしが我儘を言っただけですもの」
衛兵はもう口を閉ざして、上着の胸の衣嚢から銀色の鍵を取り出すと、宝物庫の扉を開いた。
「ジューヌ、さっさと来なさいよ」リネアに促され、ジグリットも入って行く。彼女がジグリットと自分の弟を見間違えるとは、予想外のことだとジグリットは思った。毎日二人に接しているのに、間違えるなんて・・・・・・。それほどジューヌと自分は似ているのだろうか、とジグリットは嬉しいような嫌悪したいような、複雑な気持ちになった。
宝物庫の中は、外より少し暖かかったが、それでも置かれている箱は、どれも触れるとアイギオン城の地下にある貯蔵庫の塩漬け肉のように、かちかちに冷え切っていた。その中から、リネアはすぐに一番立派な金糸に縁取られた黄金の箱を見つけ出した。
横幅が一ヤールほどもある長方形の箱には鍵がかかっておらず、彼女が開けると真紅の天鵝絨の布を張った箱の中には、三つの陥没があり、その穴にぴたりと三種の魔道具が納まっていた。
教書の絵で見たとおりの物だった。しかし、ジグリットが注視したのは、たった一つ。ヴェールマランだ。その緑の球体は、確かにそこに所蔵されていた。ギィエラの義眼とまったく同じ物だ。
――おかしい、世界に一つしかないはずの魔道具がなぜ二つあるんだ!?
ジグリットが困惑していると、衛兵が外から声をかけてきた。
「お二方、そろそろよろしいですか?」
リネアは振り返りもせず、箱の中身とジグリットを交互に見ながら、「まだよ」と言い返した。
三つの魔道具は、それぞれが異なった方法で箱の中に鎮座していた。ニグレットフランマは烏の濡れ羽色のように、黒々と輝く畝織物に包まれ、中央のオルビスインディは、一番大きく場所を取り、さらに幾つかの部品に分解してあった。最後の左端のヴェールマランは、珍しい鳥の卵のように、翠玉の艶やかな表面をこちらに向けている。
ジグリットは、ギィエラの持っていたヴェールマランと、箱に納まっている物とを、記憶の中で比べていた。しかし、幾ら思い出そうとしても、どちらも同じ物にしか見えない。触れて真贋を確かめようと手を伸ばしたジグリットは、リネアにいきなりその手を叩き落された。
「何をしている!」と彼女は叫び、すぐに驚いているジグリットに、ハッとしたように声を和らげ、「ジューヌ、これは我がタザリアの宝、おまえが触れるにはまだ早い」と眸を逸らして言った。
ジグリットの手から落ちたヴェールマランが床を転がり、リネアがそれを拾うのを見たジグリットは、恐ろしいものを眸にした。ヴェールマランにひびが入り、そこから下地の木目が見えていたのだ。しかしリネアはそれに気づかず、至宝を箱に戻した。
――やっぱり贋物だ。どうやってすり替えたかわからないけど、ギィエラの持っている方が本物なんだ。
確信をもったジグリットに、リネアが箱を閉じながら横目で彼を見つめていた。どうやらジグリットの目的は果たされたようだと彼女は知った。リネアにとって、ジグリットがなぜタザリア王家の至宝を観たがっていたのかは、この時点で問い詰めなければならない事ではなかった。
ジグリットはたとえ拷問しても言わないときは言わないだろう。だったら、もう少し待って、何が起こるのか見せてもらうのも悪くないと彼女は考えていた。自分が唖であることも忘れて、王子の格好で衛兵と対峙したぐらいだ。所詮、穴の開いた作戦しか考えられないジグリットのことだ。大したことではないのだろう。そう彼女は思い込んでいた。
扉の外で声を聞きつけた衛兵がまた口を挟んだ。「どうかなされましたか?」しかし今度はリネアは箱を元あった位置に戻し、立ち上がった。
「いいえ、もう戻ります」
衛兵が胸を撫で下ろすのをジグリットは見た。二人が出ると、宝物庫の外は本当にここが城内なのかと思うほどに寒かった。紫紺に染まった空が、四角く切り取られたような城の壁に囲まれて頭上を覆っている。衛兵は二人がマウー城の中庭から退出するまで、ずっとその背に敬礼していた。
西側の扉の奥に二人が消えようとする頃、南側の扉も開いた。衛兵は腕を上げたまま、横目でそれを確認した。交代の隊員が来るまで、まだ間があった。リネアは気付かず、廊下へ入ったが、ジグリットはぎゅっぎゅっという長靴が雪を踏み締める音で、誰かが中庭へ入った事を知り、振り向いた。相手と眸が合った。
長身、黒髪の三白眼の男が衛兵と同じ暗緑色の服装をもっとだらしなく着こなして、宝物庫の前にいる隊員に近づいて行くところだった。リネアが「早くなさいよ」と言ったので、ジグリットはすぐに眸を逸らし、廊下へ続いた。
――あれは確か・・・・・・。
そんなジグリットを、男も興味深く扉が閉まるまで見つめていた。
「隊長、見回りですか?」衛兵はすべて近衛隊の隊員である。つまり、この目つきの悪い男は近衛隊のフツ、見かけはそうは見えないが、一応隊長職にあった。
フツはじろりと自分の部下を睨み言った。
「あいつら、何だってこんな所に?」
隊員は眉をひそめる。
「あいつらって、隊長・・・・・・王女様と王子様ですよ」
言い方を注意したつもりが、フツは「いや、違うだろう」と反論した。
「何が違うって言うんです?」
隊員の疑問に、フツは巻煙草を取り出して、咥えた。
「リネア王女と・・・・・・ありゃおまえ、なんて言った、ほら、あの・・・・・・」しかしフツは、王子の影武者として育てられている少年の名を知らなかった。知っていた事と言えば、「胸糞悪ぃ、ファン・ダルタのお稚児さんじゃねぇかよ」と言う偏見だった。
衛兵は上司の口の悪さに鼻白んだように、肩を竦めた。
「隊長、それ人前で言わないで下さいよ。それにリネア王女自らが、彼をジューヌと呼んでいたんですから、間違いなく王子ですって」
フツはそれを聞いて、彼らがすでに消えた扉の方へ眸を向けた。明らかに合点がいかないと言った表情だった。
ついでにマウー城の二階の居室にいる王妃に会って帰るというリネアを置いて、ジグリットは先にソレシ城へ戻っていた。帰り道も、行った時と同様にアイギオン城を抜けて戻った。ジグリットは、すでに頭の中で計画を完全にまとめあげていた。後は協力者を捜し、広めるだけだった。自分にそんな力があるかどうかもわからなかったが、できなければギィエラに殺されるのだ。そう思えば何だってできる気にもなった。
ジグリットの知り合いと言えば、数年来の付き合いがある侍女に侍従。それにもちろん冬将の騎士。よく騎士と遠乗りにも出かけるようになっていたジグリットは、厩舎の馬丁と蹄鉄工、それに数人の小姓とも顔見知りだった。それから、最近知り合った同じ年齢の少年達。彼らは王宮の内郭の外にある兵舎に暮らす兵士見習い達だった。
ジグリットが全員に、協力を依頼し了承を得るまで、ほんの五日で済んだ。彼らは全員、喜んで協力すると申し出てくれた。もちろん、ジグリットはギィエラや魔道具については一切話さず、計画はそれでも秘密裡に遂行されていた。




