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夕餉の時間になっても、ジグリットが晩餐室に現れないので、リネアは苛立っていた。午後の武術稽古が随分前に終了した事も彼女は知っていた。また自室の窓から観ていたからだ。ジグリットは冬将の騎士との授業を楽しみにしていて、こんなに寒い小雪の舞う日でさえ、喜び勇んで外へ出て行っていた。
――武具の片付けも終えたはずなのに、一体何をしているのかしら。
リネアは冷めたスープを匙でくるくると何度も掻き回し、硬い麺麭を力任せに幾つも千切った。ジューヌはとっくに食事を終え、席を立っている。
「リネア様、温かいスープのおかわりはいかがです?」アウラの気遣うような声も、彼女をムカムカさせた。「いらないわ!」リネアは匙を机に叩きつけるように投げた。付いていたスープの汁がアウラの顔に飛ぶ。しかしアウラは何食わぬ顔で微笑んだ。そのとき、部屋の扉が開いた。ジグリットが入って来たのだ。
リネアは席に着こうとするジグリットを鋭く睨んだ。
「何をしていたの、決められた時間も守れないの!?」
それに同調するようにアウラが言う。「冷めたスープしかございません」彼女はジグリットの前に置く布巾で自分の頬についた汁を拭った。それから彼の膝に放る。「さぁ、皆が片付けを待っていますので、できるだけお早くお願いしますね」
しかしジグリットはいつもなら、うんざりした顔をするのに、この時ばかりはぼんやりと言われた通り、汚れた布巾を膝に広げ、冷めたスープを飲み始めた。
リネアとアウラは顔を見合わせ、ここぞとばかりにジグリットが食べ終わるまでねちねちと文句を言ったが、彼の虚ろな表情が変わることはなかった。
ジグリットはその晩、グーヴァーから貰った白紙をもう一枚使って、王に告訴状を書いた。ギィエラが国を裏切り、他国に情報を売っているばかりか、王家を滅ぼそうと画策していると書いたのだ。今まで、黒板に白墨で文字を綴っていたのとは違い、王に対する礼儀を重んじて書くのは、長い時間を要した。
声が出ないふりをしているジグリットは、一瞬、もう話してしまおうかとも思った。しかし、王にいきなり話しかけたりすれば、疑われるのはギィエラではなく、自分の方だろう。自分は王を長い間、騙していたのと同じなのだ。そんな者の話を、しかも側近が裏切っているという内容を、王が信じるとは思えない。
――証拠はないけど、王は北に配置している兵の数を変えるか、タスティンとグーヴァーを王宮へ戻すか、何にしろ、手紙を読めば少しは考えてくれるはずだ。
ジグリットは形式ばった手紙の書き方をすでにマネスラーに教わっていた。そのため、きちんと封筒に手紙を納めると、机上にあった蝋燭の蝋を垂らして封をした後、まだ熱いそこに親指を押し当てた。貴族なら自分の家の紋章を押すのだが、もちろんジグリットにそんな物はない。熱い蝋から指を離した直後、ジグリットは首筋に冷たい夜気を感じて振り返った。部屋の隅の暗がりに、一人の男がぼうっと立っていた。
「今晩は、ジグリット」
明るい笑顔で言われて、ジグリットは椅子から飛び上がった。
――ギィエラ、一体どうやって!
部屋の扉は誰も入って来ないように鍵を閉めていた。しかも、入ってきた扉の音すら聴こえなかった。
魔道具使いはジグリットの後ろの机に置いてある白い封筒を見つけた。くっきりと指紋の浮いた封蝋がされている。
――どうしよう、いっそ悲鳴でも上げるか!?
ジグリットの困惑した表情を面白そうに笑みで返し、ギィエラは少年の肩越しに腕を伸ばして手紙を取った。
「こんな物を書いていたのか。よくできている。まるで外交書簡だ」
ジグリットは手紙を取り返そうとしたが、ギィエラはその場でくるりと身を翻し、数歩後ずさった。
「本当に残念でならないよ、ジグリット。たとえ唖であったとしても、君は優秀な騎士になれただろう。もしかしたら、優秀な学者になれたかもしれない。いや、わたしと同様に魔道具使いになれる素質だってあったかもしれない」
ギィエラは壁の松明に近づき、持っていた封筒を燃え盛る炎の中に投入した。眸を見開いたジグリットの前で、手紙に火が燃え移り、封筒を舐めるように包み込むと、あっという間に焼いてしまった。炭化した黒い塵が、ギィエラの声と共に部屋に飛び散った。
「ジグリット、だからこそ君に取引をしようとは持ち掛けないのだ。わたしは君が勇敢で賢い少年だと知っている」
褒められても、ジグリットはちっとも嬉しくなかった。それどころか、吐き気がした。
「そしてその賢さ故に、王が耳を傾けるかもしれないという不安さえ感じる」ギィエラはそこでジグリットに顔を寄せ、今までとは違った歪んだ冷笑を見せた。「だが、わたしが何を話していたとしても、証拠は何一つない」
その通りだ。ジグリットは眉をひそめて、不気味な光を宿す片眸から逃れるように顔を逸らした。
「何度、手紙を書いてもわたしが見つけて焼いてしまえばいいのだが、それにも何かと労力がいる」
脅されているとジグリットは感じたが、別に平気だった。言葉ぐらいで簡単に臆したりはしない。しかし、次のギィエラの発言は、ジグリットには驚くほど効いた。
「おまえをこれから殺す」
はっきりと告げられた途端、全身が硬直したようにジグリットは感じた。もしかしたら、ギィエラはそうする気なのかもしれないとは思っていたが、本当に彼が口にすると、それは一気に現実味を帯びた。
「おまえが死んでも、誰も不思議には思わんさ。おまえは王子の影武者だからな。王子の身代わりになって死ぬためにいる。今ここで死んだとて、王子を殺しにきた暗殺者に殺られたと皆思うだろうよ」
そしてギィエラは自分の黒い眼帯に手をかけた。それが外された時、自分は稲妻に打たれたように死ぬのかとジグリットは恐怖した。しかし、ギィエラが眼帯を外しただけでは、何も起こらなかった。彼の眼帯の下には、松明の炎を反射して輝く翠玉の義眼が嵌っているだけだった。
――なんだ、大したことないじゃないか。
ところが、ギィエラは薄気味悪い笑みのまま、今度は眸に指を突っ込んで、義眼を取り出した。ぽっかりと暗い穴が片眸にでき、ジグリットが息を呑んでいる合間に、ギィエラが聞いたことのない言語で何か呟いた。
「クラプシ・・・・・・ナガラジャファ・・・・・・アンダラマギオ・・・・・・」
――古代言語!?
その直後、翠玉は妖しい光を放って眩しく輝いた。
まだギィエラはぶつぶつ言っている。後ろに下がろうとしたジグリットは、机にぶつかり、それ以上下がれないため、右へじわじわと移動した。大して広くない部屋の中は重い空気に包まれ、ねっとりとジグリットを絡めているようだ。
ギィエラが呪文を唱えるのをやめると、腰の短剣が触れてもいないのに動いた。それは分厚い革の剣帯を突き破ったかと思うと、一瞬のうちに木製の柄部分が一気に一ヤール(およそ一メートル)もの長さに伸びた。
――まさか、そんな事・・・・・・。
あり得ない事象を目の当たりにして、ジグリットは慄き、右の壁に背を押し付けた。ギィエラも右へ躰を廻し、ジグリットに向き直り近づいて来る。
「逃げても無駄だ。この魔道具ヴェールマランの属性は緑を成長させる力。この王宮の中で、木材を使っていない場所などありはしない」
ギィエラは槍のようになった短剣を持ち上げた。彼はいやらしい薄笑いを浮かべ言った。「リネア様がよくおまえを生意気だと虐めていたが、今になってよくわかる。その恐怖に引き攣った表情、どんなに助けを呼びたくともそうはできない追い詰められた虚しい絶望に満ちた眸、確かにぞくぞくするぞ」
ジグリットはギィエラの翠玉の義眼が魔道具だと知り、動くに動けないでいた。
――せめて腰に剣さえあれば・・・・・・。
ジグリットの手が腰を探った。しかし自らの細い腰骨を覆う上衣を撫でるに過ぎなかった。
――ギィエラを斃すことは無理でも、ここから逃げて王のいるアイギオン城へ、いや、それよりも兵舎にいる冬将の騎士の所へ走って行った方がいい。
ジグリットは果てしない悪夢の扉を開いた気分だった。ギィエラは皮肉った表情で言った。
「本当に残念でならないよ、ジグリット」
ギィエラの独白などジグリットにはどうでもよかった。しかし、彼が無駄話に時間を費やせば、それだけ自分が逃げられる公算があるとも言えた。
「そろそろ終わりにしよう。おまえの死は、朝になれば王宮中の者の知るところとなる。安心するんだな、一人冷たい床に寝そべっているのも僅かな時間だ」
ジグリットは石造りの壁に背をつけたまま、さらに戸口に近づくように、摺り足で移動していた。
――ヤツが動いた時が勝負だ。
すでに一つだけ、なんとかできるかもしれない考えが思い付いていた。問題は、ギィエラが瞬時に人を殺傷できるなら、やはり自分は負けるだろうと言うことだった。そして、そうならない事を今は祈るしかなかった。
ギィエラは槍をぐるりと手の中で回し、穂先をジグリットに向け両手で構えた。すっとギィエラの足が前に出る。ジグリットは横目でそこまでの距離をすでに測っていた。大きく一歩横へ飛び、右手で壁に掛けられた松明の枝を掴んだ。火の粉が頭に降りかかる。
「コイツッ!」ギィエラが槍を突き出したが、それは数インチの差でジグリットの腕を掠めた。ジグリットは手にした松明の炎が自分の指を焼くのを感じた。束ねた枝はすでに短く、橙色の炎は盛んに滾っている。
ギィエラは構わず、二投目を繰り出した。それも避ける。続いて三投目。ジグリットが松明の枝で弾く。激しい衝突に炎が膨らみ、二人の間で爆ぜた。もう松明は手の中でぼろぼろと崩れかけていた。
「いい加減、降参しろ」ギィエラの息が荒い。ジグリットは彼が武器で戦うことに慣れていないのだと気付いた。しかしすぐにギィエラの四投目が腹部を狙うように突き出される。ジグリットは今度は松明を使わず、機敏に避けた。そして、最後の力を振り絞らんとする大きな炎の塊となった松明を彼に投げつけた。枝の束がばらばらと砕ける。
「おおっ・・・・・・ひ、火が・・・・・・」
頭にばらばらと散った枝と同時に、分かれた炎をくらってギィエラが怯んだ隙に、ジグリットは扉に縋りつくように飛びついた。懸命にノブを廻す。鍵はかかっていなかった。廊下へ出たジグリットは、そのまま自室からジューヌのいる隣りの部屋へ駆け込んだ。
本当ならアイギオン城へ行くのがいいとはわかっていたが、そこへ到達するまでにギィエラに捕まるだろう。ジューヌは臆病者だが、何と言っても王子で、ギィエラも彼には知られたくないはずだ。ジグリットの思惑通り、ギィエラは追っては来なかった。
「ジグリット? こんな時間にどうしたの?」
続き部屋の寝室から、ジューヌの不安げな声がした。ジグリットは息を整え、にこりと笑みを作った。そして天蓋から垂れた白い亜麻布に近づくと、そっと彼の寝台へ忍び込んだ。ジューヌが不思議そうにジグリットの額に手をやる。
「今日は特に寒いのに、汗をかいてるじゃないか」額にかかった濡れた髪をジューヌが掻き分けるのをしたいようにさせながら、ジグリットは表面上は愛想笑いを浮かべつつ、流れる冷汗をそのままに、激しい鼓動を抑えながら必死に打開策を考えていた。
ギィエラはと言うと、何食わぬ顔でジグリットの部屋を出て、アイギオン城へ戻って行った。彼は考え直す必要があった。ジグリットを殺すには、状況が整わなければならないだろう。自分に嫌疑が掛からないように、そしてその死にどんな疑問も抱かれないように。今回の失敗は、自分の焦りが生んだものだ。手紙を書いて持ってきたとしても、王より先に眸を通せば済むことだ。それができないわけでもなかった。
それに・・・・・・とギィエラは義眼を嵌めると、何度か瞬きをして馴染ませた。
――まだわたしはこの魔道具ヴェールマランを使いこなせていない。
計画はもう少し延ばすしかない、とギィエラは溜め息をついた。この国の王が語る信義や慈愛は、吐き気を催すほど彼を不快な気分にさせていたが、すでに数年これに耐えたのだ。まだ一年、いや二年はあの情け深く愚かな王の許で働くことができるだろうと彼は思った。
――必要なのは残りの二つだ。この魔道具ではない。
そして三つの魔道具が揃った時のことを考えると、ギィエラは無意識に口端を上げ、ジグリットのことをもうしばらく放置しても大丈夫だろうと寛大な気にさえなった。この国の三つの至宝さえ手に入れられれば、何も恐れることなどないのだ。
「ふふ・・・・・・そうだ」とギィエラは呟く。「すべての罪をあの小僧に被せればいい。やがて暴かれるであろう大罪を、すべてな」
アイギオン城の静まりかえった廊下に、長衣の裾を引き摺る影が過ぎて行く。松明の仄かな明かりに照らされ嘲笑する男を、暴君山脈から吹き降りる寒威の風が懸念するように強く激しく鎧戸を叩いていた。




