4,5,6
4
王都チョザの王宮では、リネアが珍しくアイギオン城で王と対面していた。彼女はいつになく不機嫌で、数日前まで誰もが魅了されそうな愛らしい笑みを湛えていたのと同じ人物とは思えないほど、鋭い顔つきで父王に詰め寄っていた。
「どういう事か、説明して戴けますわね、お父様」
彼女のほっそりとした躰から迸る怒りの炎に、タザリア王、クレイトスは困窮した様子で顎鬚を撫でた。
「冬将の騎士にエスタークの火事の惨状を調べてもらうためだ」
王の言葉にリネアは首を傾げた。
「でしたら、なぜ一人で行かせなかったのです? ジグリットが行く必要などないでしょう」
「彼はエスターク出身者なんだよ、リネア」
「わかっています。ですから言っているのですわ」
「どういう意味かな?」
王のとぼけた表情に、リネアはギリッと歯噛みした。
「もう戻って来ないつもりに決まっています」
「そんなわけないだろう」
「なぜそう言い切れるのです。彼はエスターク出身者だと、お父様自身が言ったではありませんか」
「そうだ。だが、彼は二年以上もの間、ここで炎帝騎士団やおまえ達に囲まれ、何不自由なく暮らしてきたんだぞ。わざわざまた貧民窟で暮らそうなどと思うだろうか?」
「・・・・・・・・・・・・」
そう思うに決まっているから、こうしてわざわざ伝えに来たのよ、とリネアは心の中で父王を叱責した。が、もちろん表面には出さずに努めて冷静に言った。
「もしジグリットがエスタークから戻らなかったら、お父様はどうなさるおつもりなの?」
「戻るさ」
「・・・・・・もし、」
「もしはないのだよ、リネア」はっきりとした物言いに、リネアは眸を上げ、玉座の父を見つめた。「ジグリットは一人で行ったのではない。我が国の黒き狼と共に行ったのだ。そして狼がわたしを失望させることは決してない」
父王が、そこまで冬将の騎士を信頼しているとは、リネアは思っていなかったが、確かにあの冷徹な男がジグリットを取り逃がすことはないだろう。彼女は眸を伏せ、父の前に跪いた。
「お赦しください、お父様。その通りです。冬将の騎士は信頼に足る人物。わたくし、そのことを失念しておりました」
「わかってくれれば良いのだ、リネア。さぁ、立ちなさい、我が娘よ。おまえの膝をつく姿は、どうにも背中が痒くなっていかん」
リネアはにっこりと微笑んで、そよ風のように静かに立ち上がった。父王の前を礼儀を持って退出しながら、リネアは心の底から安堵する自分を感じていた。
――そうよ、あの子がもし帰って来なくても、すぐにわたしが捕まえて連れ戻せば済むことなんだわ。金も人も、何だってわたしの手には有り余るほどあるのだから。
退屈しのぎのただの玩具に過ぎないが、それでもジグリットにはまだ価値がある。ジューヌなんかより、よっぽど虐めがいがあるのだから、手放す気はなかった。他人を使って、彼を殺すことだって、自分には容易い遊戯に過ぎないのだ、とリネアは含み笑いを浮かべながら、アイギオン城を軽やかな足取りで後にした。
5
エスタークの半日は、瞬きをするような速さで過ぎて行った。ジグリットは西広場一帯で、酒場の店主や遊里の女性を捕まえて、誰か子供を雇っていないか、姿を見かけていないかと訊いて回ったが、符号するような情報はこれといってなかった。貧民窟に住んでいたほとんどの住民が、すでにエスタークを出て、近くの西のランザーや北のファッシュといった別の街へ移ってしまったという話も耳にした。
住む場所を追われて、今はどこに住んでいるのか、それを考えるとジグリットは、やる瀬ない気持ちになった。仲間を失って、たった一人で哀しみに暮れているだろう。それはエスタークを去って二年半経ったジグリットでさえ、こんなに張り裂けそうに胸が痛いのだ。きっともっと傷ついているに決まっている。
――早く捜して・・・・・・そうだ、一緒にチョザへ来てもらおう。
冬将の騎士がなんと言っても、ジグリットはその一人を自分と共に王宮へ連れて行くと決意した。しかし、その一人が見つからない。時間だけが、無情に過ぎて行くばかりだった。
途中から、冬将の騎士が加わり、彼も西広場や絞首大通りで聞き込みをしてくれていたが、同様に何の情報も得られなかった。
昼過ぎになり、ファン・ダルタはジグリットを焼け焦げた西の障壁の前、彼が住んでいたというあばら小屋があった場所で見つけた。彼はもう王宮へ帰還する時間だと告げた。
[もうちょっと・・・・・・もしかしたら、隣りのランザーに移ったのかも。それか、北に二時間行った所にもファッシュって街があるんだ。そこに――]
「ジグリット」と騎士は黒板に文字を綴るジグリットの手を掴み、その言葉を遮った。「すでに約束の時間は過ぎている。チョザへ戻らなければならない」
ジグリットは取り乱したように頭を振った。
――まだ、見つかっていないのに、帰れるわけがない!
強い眼差しで睨まれて、騎士は一瞬怯んだ。彼の気持ちがわからないわけではない。ジグリットにとっては家族同然なのだろう。しかし、王との約束は冬将の騎士にとっても、命より大切といえた。
「おまえの気持ちはわかる。だが、おまえも王宮に雇われている者の一人であり、王の所有物なんだ。エスタークへおれ達が来たことすら、本来なら赦されることではない」
ジグリットは白墨を持つ手を、騎士に強く握られていた。それはあまりに力強く、絞られるような痛さだったが、騎士はまっすぐにジグリットを見つめたままで、それほどの力で掴んでいることすら忘れているようだった。
「結局、ここへ来たのはおれ達の我儘なんだぞ。王はこの事を寛大に赦して下さるだろう。だが、約束を反故にすれば、それはまた別の問題になる」
冬将の騎士が、罰を与えられることが恐くて言っているわけではないと、ジグリットも気付いた。彼は王に忠誠を誓った騎士だ。その忠義に叛く自分を、彼は恐れているのだ。
――仲間を・・・・・・家族を捜すことは、我儘なんかじゃない。でも、確かにぼくも最初にファン・ダルタと約束した。渋々だったとはいえ、それを破るのは良くないことだ。
ジグリットは力無く頷いた。そして口の動きで彼に「わかった」と告げた。騎士は眼差しを和らげ、ジグリットから手を離した。
「生きているなら、また会える」冬将の騎士はそう言って、ジグリットの肩を叩いた。
二人は関所へ戻り、唯一のんびりと過ごし休憩が取れた馬に鞍を乗せると、すぐにエスタークを出発した。走り出すと、低い曇り空から一粒、そして二粒と雨が降り始めた。南門を潜るジグリットが振り返った時、エスタークはまだ晴れ間を残していたが、彼らの行く手は冷たい風と雨が丘の向こうに吹きすさび、嵐の様相を呈していた。それでも二人は速度を落とさなかった。もうジグリットは冬将の騎士と並び、遅れを取ることなく豪快に馬を走らせていた。
6
バルメトラは絞首大通りで、必要な食料品を買い、店を出たところだった。南門で一際、眸を引く後ろ姿の二人が、馬に乗り颯爽と街を出て行くのを彼女は見ていた。
――いつかあたしも、あんな風に街を出ていけたらね。
しかし、バルメトラは溜め息をつき、路地を曲がった。
――とりあえずあの子が目覚めないと、男の一人も作れやしない。
それから三日後、ナターシはバルメトラの看病のもと、眸を覚ました。彼女はすべてを失っていた。仲間も、家も、そして迎えも。
「ジグリット・・・・・・」
彼女は目覚めて最初にそう呟いた。悪夢が彼女を取り巻いていた。
「なぜなの、ジグ」
ナターシの夢に出てきたジグリットは、黒煙と炎に身を纏い、短刀で皆を刺した後、火を放った。にやりと笑ったその顔を、彼女は涙に濡れた眸で見つめていた。ジグリットが皆を殺したのだ。ナターシは炎に灼かれた顔を手で覆い泣いた。しかし涙は包帯に吸い取られ、彼女の心は慰められなかった。憎悪だけが、彼女を待っていた。




