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それから朝の仄暗い光が射すようになるまで、騎士は馬を止めなかった。ジグリットは栗毛の手綱を必死に掴んで、彼を追った。騎士の外衣は黒く、すぐに闇に溶け込み、見えなくなってしまう。エスタークに着くまで、およそ一日半。眠ることは赦されなかった。ジグリットは時折、馬上で睡魔に襲われ、うとうとしたが、それ以外はなんとか彼に付いて行っていた。
問題なのは、栗毛の牡馬の方だった。ジグリットが何度横腹を叩いても、馬はしょっちゅう道草をして、曠野に生えた僅かな草を食んだ。しかし、それも手綱を力一杯引くことで次第に少なくなり、道程の半分を過ぎた頃には、ファン・ダルタに並ぶことはなかったものの、遅れることなく付いて行けた。
エスタークの街は、半分が黒い瓦礫の山と化していたが、混乱してはいなかった。南門から街へ入ると、衛兵は突然現れた炎帝騎士団の冬将の騎士に驚き、ジグリット達を関所へ案内して接待しようとした。彼らはジグリットがエスターク出身であることを知らなかった。それも当然で、衛兵は地元民ではなく、チョザの王宮から派遣された兵士だったからだ。年毎の交代制ということもあり、ジグリットがエスタークを出た後に配属されたのだろう。
ファン・ダルタは関所へ入ることを拒み、すぐに火事の現場を見せてくれと彼らに告げた。ジグリットも同感だった。二人は馬を関所の前に繋ぐと、歩いて街の西側へ向かった。衛兵の一人が案内役を買って出たので、二人はそれに付いて行くことになった。
ジグリットにとっては案内など不要だった。生まれ育った街なのだ。むしろ彼よりも自分の方が詳しいと思っていた。しかし、二年半という月日は、ジグリットを驚かせるには充分だった。
エスタークの絞首大通りの両側に並んでいた店は様変わりし、知らない店が幾つも増えていた。
――あの店も、それにあの店も、新しくできたのか。
ジグリットが辺りを興味深く眺めているのを、衛兵は田舎街が珍しいのかと思ったらしく、苦笑いで言った。「チョザに比べると本当にちっぽけな所ですが、食べ物は安いし、何よりのんびりしてますよ。まぁ、火事が起きるまでは、ですがね」
衛兵は絞首大通りから西広場へ曲がる直前、二人に注意した。「こっからは酒場やちょっと込み入った界隈になりますから、驚かないで下さいね」
それが遊里や下層民の住まい、それに貧民窟を指しているのだとジグリットはすぐに気づいた。しかし、その込み入った界隈は、西広場へ入った直前、別の意味でジグリットを驚かせた。そこに残っていたのは、僅かに延焼を逃れた建物と、その背後に積まれた建材の残骸でできた巨大な瓦礫の山だった。
西広場から一本筋を入った遊里の一郭。燃え残った幾つかの建物にその場所は囲まれていた。昼間ということで、どの戸口も堅く閉められていたが、そのうちの一軒だけが三階の鎧戸を開け放ち、肌寒い風を取り入れていた。
黒髪の女性は、何度もそうしたように、少女の額から熱くなった布を取り、氷水に浸した。少女の顔は鼻と口を開けただけで、包帯でぐるぐる巻きになっていた。褐色の髪は、焼けちぢれ、切るしかなかった。彼女が徹夜で、躰中を冷やしても、なかなか少女の熱は引かなかった。しかし、今は少女の息は浅いものの、昨日よりは落ち着いていた。
「大丈夫よ、あなたは助かるわ」
豊満な胸元を惜しげもなく晒す、露出の多い白い夜会服を彼女は着ていた。女性の名は、バルメトラ。遊里の煌びやかな店の一つで男を相手に商売する女だった。そして、ずっと眠ったままの少女は、ナターシ。褐色の肌と髪の十歳の女の子だった。
バルメトラはあの日、そう・・・・・・エスタークが炎の竜に襲われたかのような、あの日。ナターシ達が暮らす小屋の向かいにある建物で、昼の休みを取っていた。彼女は向かいのあばら小屋に孤児の少年少女が暮らしていることを前から知っていた。ナターシはバルメトラの商売仲間でもあったからだ。少女は遊里にある一軒のいかがわしい店で、小間使いをしていた。そしてバルメトラはそこで客を取っていた。二人は特段、仲が良かったわけでもないが、そういう理由で知り合いだった。
子供達の叫び声が聴こえてきたのは、太陽もまだ高い昼下がりのことだった。バルメトラは飛び起き、窓から向かいの木造の建物を見た。しかし、その建物に窓はなく、ただ剥がれた壁板の奥から悲痛な声が二度、三度、そして泣き叫ぶ子供の走り回る足音がした。
バルメトラは何かあったとすぐにわかったが、どうすればいいのかわからなかった。警吏を呼びに行っても、きっと孤児を助けに彼らが貧民窟へ来ることはないだろう。もし人攫いや強奪者だったら、子供を助けるどころか、自分も殺されてしまう。バルメトラは、助けに行きたいという気持ちはあったが、窓辺で胸を押さえ、恐怖に高鳴る鼓動と共に立ち竦むしかなかった。
数分後、辺りは再び静まり返った。彼女は子供達が大げさに騒いでいただけなのだと、自分に言い聞かせた。そして窓を閉めようとした。すると、真下の細い通路に、あばら小屋から一人の黒い頭巾を被った女が出て来るのが見えた。確かにそれは女だった。暗緑色の髪が頭巾から零れていた。
バルメトラは女を呼び止め、何があったのか訊こうと思ったが、彼女は足早に路地へ入ってしまった。そのとき、バルメトラの耳に、バチバチと激しい爪を弾くような音が聴こえた。
眸を向かいに上げて、彼女はぎょっとした。子供達の暮らす小屋の壁板から、炎々と燃え上がる橙色の光が見えたのだ。それはすぐに壁板を舐めるように、外へ漏れ出した。
――火事だ!
バルメトラは即座に金切り声を張り上げた。辺り一帯に、彼女の声は高く長く響き渡った。建物という建物の窓が開き、火を見つけた人々は、男は消火に、女は家財道具をまとめ始める。バルメトラは必要最低限の荷物だけを袋に詰めると、部屋を走り出た。彼女はすぐに遊里の自分の仕事場へ逃げ込むつもりだった。しかし外へ出てメラメラと燃え盛る炎を前にした時、バルメトラの耳に小さな声が聴こえた。
「助けて、誰か・・・・・・助けて・・・・・・」
消火作業をしていた男の一人があばら小屋へ飛び込み、運良く一階で倒れていたナターシを引き摺り出した。
貧民窟の西の障壁を覆うような木造の長屋は、数時間も経たないうちに、三百ヤールを焼き尽くし、風に乗って通路を渡り、バルメトラの住む建物に降りかかった。誰もその勢いを止めることなどできなかった。エスタークの街は恐怖と悲鳴に包まれた。炎は二十ヤールの高さの壁となって、西広場まで高波のように押し寄せた。
バルメトラはナターシを背負って逃げた。なぜ少女を連れて逃げたのか、自分でもわからない。そんな義理はなかった。だが、もし少女を置いて逃げていたら、きっと彼女は死んだだろう。自分以外、誰も貧民窟の孤児になど構わないと、バルメトラは知っていた。助けたとしても、何の利にもならない。厄介者になるだけだ。
現に遊里の女主人は、バルメトラにこう言った。「顔の焼けた子なんか、どうする気だい。こんなじゃ遊女にもなれやしない。おまえさんが勝手に拾ったんだ。うちでは一切面倒看ないからね」バルメトラはいつかエスタークを出て、チョザで金持ちの商人でも捕まえて結婚しようと思っていた。そのために貯めていた金は、一晩で医者と薬に消えてしまった。
しかし、眸の前で眠っている十歳の少女を見ると、バルメトラはこれで良かったのかもしれないとも思えた。どうせ落ちぶれた人生だ、何か一つだけでも良い事をしておけば、あの世で報われることもあるだろう。苦笑いを浮かべ、彼女は鎧戸を閉めた。その拍子に、水を張った器の中で氷山が崩れ、カランと小気味いい音を立てた。
「大丈夫、すぐに元気になるわ」彼女は自分をも説得するような強い口調で言った。
3
関所の二階にある衛兵の休憩室で、ジグリットは寝かされていた。エスタークで彼を待っていたのは、すでに形すら失った焦げた木片だけだった。貧民窟が一番、被害が酷かったらしく、案内した衛兵によると、区別の付かないほど焼けた死体がゴロゴロと出てきたという話だった。ジグリットの住んでいたあばら小屋のあった場所は、炭のように黒い木切れが積もっていた。そこからは四つの子供の死体が出たのだと、衛兵は言った。
それを聞いた瞬間、ジグリットの頭の中で、何かが音を立てて切れた。ふいに倒れたジグリットを、冬将の騎士は関所に運んだ。
「ジグリット、気がついたか?」
ジグリットは重い瞼を開けたが、頭が割れるように痛かった。なんとか寝たまま、首を縦に振る。
「疲れが溜まっていたんだろう」と騎士は静かに言った。
そのせいじゃないことは、お互い知っていたが、ジグリットはまた頷いた。
――皆、死んでしまった。
ジグリットはそれを思うと、苦しくてどうしようもない気持ちがこみ上げ、掛けられていた毛布を額まで持ち上げ顔を隠した。
「しばらく休んでいろ。何か食い物を持って来てやる」
冬将の騎士はそう言って、部屋を出て行く。一人になったジグリットは、毛布の中で胎児のように躰を丸めた。ここまでの道程で、手綱を握る腕も、鐙を踏みしめる足も、そして擦られ続けた尻も、どこもかしこも痛かったが、それ以上に今は胸が痛かった。
――テトス、マロシュ・・・・・・。
二人の少年を思うと、ジグリットは生意気で、それでいて愛らしい笑顔しか思い浮かばなかった。
――ナターシ、ギーブ、ベルウッド・・・・・・。
たった一人の少女は、腰に手をあてて小言を言う顔。そして二人のまだ幼い弟達。
そこで突然、ジグリットは疑問を抱いた。
――あれ? 五人・・・・・・だよな。
しかし案内人の衛兵は、死体は四つ出た、そう言ったはずだ。ジグリットは被っていた毛布を剥がして躰を起こした。
――あとの一人は、どうしたんだ? もしかして、生きてるんじゃないのか!
思い至る前に、ジグリットは寝台から降り、慌てて部屋を駆け出ると、外階段を下りて、一階の関所で衛兵達と話しをしていた冬将の騎士に掴みかかった。
「な、なんだジグリット、どうしたんだ!?」
ジグリットは黒板が無い事に気付いて、自分の下衣の衣嚢に手を突っ込んだ。
――そうか、馬の鞍に置いたままだ。
関所の前に繋いである栗毛の馬の所へ行き、ジグリットが黒板の入った袋を持って戻ると、冬将の騎士は怪訝な顔で、彼が文字を書くのを待った。
[もう一人いたはずなんだ]とジグリットは黒板に書いた。
「もう一人?」騎士が訊ねる。
[あの場所には、五人の子供が住んでいた]
そこでファン・ダルタは気付いて、衛兵に向き直った。
「おい、あの場所から子供の死体は四人しか見つかってないんだな? 間違いないのか?」
「ええ、間違いないですよ。すでに片付けに入ってますが、新たに死体が見つかったって話もありません」
ジグリットがホッとしているのを見て、ファン・ダルタは笑みを浮かべた。
「だそうだ。それで、おまえはどうしたいんだ?」
[ぼくは、その一人を捜す]
「それならば、おれも協力しよう。だが、明日の昼にはここを発つと約束してくれ。王との約束を破るわけにはいかない」
ジグリットは納得できなかった。王と約束したのは、騎士であって、自分ではない。不機嫌に口を尖らせると、ファン・ダルタは眉をひそめ言った。
「王との約束は、おまえが約束したのと同じことだ。三日で戻ると伝えてあるが、それでも一日遅れになるだろう。それ以上遅れるとなると、王はおまえとおれに厳しい処罰を与えるだろう」
渋々ジグリットは頷いた。だったら一刻も早く、その一人を見つけなければならない。こんな所で呑気に寝ている場合じゃない。
[ぼくは早速、聞き込みしてくるよ]
「今から行くのか?」と騎士が驚いた様子で問いかけるが、ジグリットは頷き、黒板と白墨を手に外へ出た。
「おれは少し休んでから合流する。飯もまだだろう、これでも持っていけ」
騎士の投げた棒状の麺麭をうまく受け取ると、ジグリットはそれを咥えて走り出した。明日の昼までに、テトスか、マロシュ、ナターシ、ギーブ、ベルウッドのうちの誰かを見つけるんだ。ジグリットの胸には僅かだが、小さな希望が湧き始めていた。




