第四章 彷徨う火影 1
第四章 彷徨う火影
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黄昏月64日。季節は紅葉真っ盛りとなっていた。テュランノス山脈の尖頂から吹き降ろされる風には、すでに初雪の気配が漂い、チョザの城下街では露天商が天鵝絨や毛織の厚い外套を売り始めていた。
ジグリットが居室で眸を覚ましたのは、冷え冷えとした早朝のことだった。エスタークに居た頃とは、打って変わって分厚い羊毛布団に包まり、彼は心地良い眠りについていた。昨夜、リネアがわざと割った杯のせいで、頬にうっすら切り疵があったが、眠っている間だけはジグリットは平穏だった。しかし、その日はなぜか悪夢にうなされ、温かい布団を蹴って、彼は飛び起きた。冷や汗が額にびっしりと玉のように張り付いていた。
――何だか、嫌な夢を見た。
毛足の長い絨毯に降り、ジグリットは風避けのために閉めていた鎧戸を開けた。空はどんよりと薄曇り、黒雲が重く垂れ込めている。
――嵐が来そうだ。
開けたばかりの鎧戸は強風でギイギイと激しく鳴った。彼はまた鎧戸を閉め、真鍮の鍵を閉めた。それでも冷たい風は部屋で渦巻き、ジグリットを不安にさせた。
――そう言えば、ここニ、三日、アウラの顔を見ていない。そのせいかもしれないな。
リネア付きの侍女であるアウラが、別の街に王女の買い物のため出かけていると聞いたのは数日前だ。その間、ジグリットはいつもの半分ほどの精神的疲労で済んでいた。
彼女はそろそろ帰って来るだろう。そう思うと、嫌な夢を見てもおかしくはなかった。
午後になり、冬将の騎士と共に剣戟の稽古を始める頃には、ジグリットは朝に感じた不吉な予感などすっかり忘れてしまっていた。
「ジグリット、今日はここまでにしよう」とファン・ダルタが息をついて告げると、ジグリットは頷いて、鈍ら刀を鞘に収めた。ジグリットは、すでにファン・ダルタの息を荒げるぐらいには腕を上げていた。もちろん、いまだ勝負にならないほど差はあったが、それでもかなりの進歩を遂げていた。
二人が中庭の長椅子に座って、武具の片付けをしていた時だった。アイギオン城から一人の青年が走り出てきて、冬将の騎士を呼んだ。
「ファン・ダルタ、聞いたか!?」彼は騎士団の真紅の外衣を翻して駆けてくると言った。
「・・・・・・何をだ?」ファン・ダルタは無愛想に甲冑を磨きながら訊ねる。
ジグリットは炎帝騎士団の一人であるその金髪の青年を興味深げに見上げていた。
「エスタークだよ!」と彼は叫んだ。「昨日、酷い火事があったんだってさ」
よく知った名を聞いて、ジグリットは立ち上がった。王宮へ来てから二年半、自分の街の名前を聞いたのは久しぶりだった。しかも、その内容が火事だと聞いて、ジグリットは急いで黒板を取り出そうとした。彼にもっと話を訊こうと思ったのだ。しかし、そんなジグリットの様子を見て、冬将の騎士は甲冑から眸を上げて先に訊ねた。
「火事って、そんなに大きいのか?」
珍しくファン・ダルタが興味を示したので、青年は興奮したように捲くし立てた。
「それが、エスタークの半分が焼失したって言うんだ」
ジグリットの顔が青褪める。ファン・ダルタは立ち上がり、甲冑を長椅子に置くと、青年の肩を引き寄せて、ジグリットから少し離れた。
「何があった。他国の襲撃か?」小声で訊かれて、青年は同じように声を抑えて答えた。「いや、それがそういう事でもないらしい。出火場所はまだ特定できていないみたいだが、どの国も動いた形跡がないし、それに・・・・・・言っちゃあ何だが、あんな小さな街を焼いても何の得にもならないだろう」
ファン・ダルタは考え込みながら、背後で心配そうにしているジグリットを振り返った。青年はジグリットがエスターク出身とは知らず、今度は彼にも聴こえるような声で言った。
「燃えたのは街の西側一帯で、障壁まで崩れ落ちたって話しだ。だけど、あの辺りは貧民窟があって、小汚い連中が住んでただけだから、街の掃除になったって言ってる連中もいるぐらいだ。炎帝騎士団が見に行くこともないだろうぜ」
ジグリットは眸を見開き、ショックで自分の胸元を鷲掴んだ。
――貧民窟が・・・・・・! そんな、皆は!?
金髪の騎士は話し終えると、何も気付かず去って行く。ファン・ダルタがジグリットに近づき言った。
「おい、心配するな。おれが詳しい話を訊いて来てやる。いいか、ここで待ってろ」
冬将の騎士は大股でアイギオン城へ向かって行き、ジグリットは固まったようにその場に立ち竦んでいた。
結局、冬将の騎士が王に直接状況を聞いたが、金髪の騎士が知っていたぐらいの事しかわからなかった。ファン・ダルタはジグリットが落ち着くまで、武具の手入れをさせ、それが終わった時には、もう夕餉の頃も過ぎて、就寝時間まぎわになっていた。
冬将の騎士は、ジグリットに「明日、おれがエスタークまで行って見てくると王に提言しよう。おれの馬なら三日で往復できる」と約束した。しかし、ジグリットはそれに頷いても、納得はしていなかった。彼は深夜に居室を抜け出し、厩舎へ向かった。
二度目ともなると、ジグリットの準備も万端だった。彼は松脂蝋燭を手に、綿の袋に黒板と白墨、それに金になりそうな調度品数点を入れて、腰の剣帯に短剣を着け、鹿革の外衣を羽織り、長靴の足音を忍ばせて、ソレシ城からマウー城の端にある厩舎へ行った。運良く天候が悪いせいもあり、この時間帯に内郭を歩く人影はない。
暗い厩舎へ忍び込むと、ジグリットは蝋燭を点け、自分の鞍を手に、よく騎乗させてもらう栗毛の馬へ近づいた。すると、背後から声が掛かった。
「遅かったな」男がそう言った。ジグリットは振り返り、蝋燭の揺れる明かりの中に浮かび上がった男の輪郭に驚いた。冬将の騎士、ファン・ダルタがそこには立っていた。
「今夜は来ないのかと思ったぞ」
ファン・ダルタの言葉に、ジグリットは信じられず眸を瞠った。ずっとここで待っていたというのだ。ジグリットは「どうして」と口を動かした。その唇を読み、騎士は笑った。
「考えなくともわかる事だ。おまえはおれが代わりに見てきてやると言った時、あまりに聞き分けが良すぎた。稽古ですらおれに負ける事に我慢ならないおまえが、反論もしないなど、あり得ないからな。どうせこんな事だろうと思ったぜ」そう言って、騎士はジグリットに馬の手綱を差し出した。「行くんだろ、あの街に」
ジグリットは、冬将の騎士が思いがけず自分の事をよく見ているのだと知り、なぜか恥ずかしくなった。最初から彼に考えを読まれていたのだ。しかし、計画を変えるつもりはなかった。ジグリットは大きく頷いた。騎士はふぅ、と息を吐き出し、呆れたように言った。
「エスタークまでの道は、チョザから街道を北へ上がって行くだけだ」
知っている、とジグリットが首を振る。
「だが、曠野に入ると道はわかり難い。特に夜も走り続けるなら、尚更だ」
冬将の騎士が自分を止めるためにそんなことを言っているのかと思い、ジグリットは眉を寄せた。蝋燭の芯がジジジジッと燃える音がしている。
「だから、おれも一緒に行ってやろう」騎士はそう言った。一瞬、ジグリットは聞き間違いかと思い、呆けたように口を開いた。しかし、彼はさらに強い口調で繰り返した。「いいか、おまえの馬がどれだけ遅くても、おれはさっさと先に行くからな。死にもの狂いで付いて来い。陛下には、おれが手紙を残してある。三日で戻るとそこには書いた。わかったな」
ジグリットはまだ茫然としていた。ファン・ダルタが一緒に来ると言い出すとは、さしものジグリットも想像だにしていなかった。しかしよく見ると騎士は軽装備だったが、しっかりと遠出する格好で、いつもの黒貂の外衣を羽織っていた。ここでジグリットを待つ前から、彼はエスタークへ行くつもりだったのだ。
ジグリットは心強い道連れと共に、厩舎を馬を引いて出た。月のない暗い夜だった。二人はその闇に馬蹄の音だけを響かせて、アイギオン城の跳ね橋へと歩いて行った。落とし格子はしっかりと閉まっていた。そして、門前には当直の兵士が二人、くだらない話をしながら時間を潰していた。冬将の騎士が近づくと、門兵達は用件も聞かずに格子の横にある馬一頭がようやく通れるだけの一人用の細い跳ね橋を降ろした。
「行ってらっしゃいませ」と兵士二人が礼をした隙に、ジグリットは外衣の頭巾を深く被ったまま、騎士の後に付いて何食わぬ顔でその場を通り過ぎた。
細い方の跳ね橋を渡るのは初めてだった。しかも、本来は人間が渡るように作られた橋は、馬の巨体が乗ると、ギシギシと今にも折れんばかりに悲鳴を上げた。ジグリットは生きた心地もせず、暗い中を真剣に眸を眇めて、馬が足を踏み外さないよう、まっすぐに進んだ。
渡り終えると、すでにファン・ダルタは街への下り坂を、足早に馬を走らせ降りていた。すぐにジグリットも追いかける。のろのろしていたら、本当に置いて行かれることを、ジグリットはこれまでの彼との稽古により、身に染みて知っていた。冬将の騎士は決して嘘はつかないのだ。




