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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
25/287

11-2

 そんな事があったからといって、ジグリットの心情に変化はなかった。彼はいまや本当に一人きりだと感じていた。親身になってくれたテマジが去り、炎帝騎士団の騎士長であるグーヴァーは、外交政策のため他国を飛び回って多忙を極めている。王子タスティンは、狩りでの怪我が治ったと同時に、騎士団の一員に任命され、アイギオン城で王に付いて仕事をするようになっていた。

 王女リネアと侍女アウラの横柄(おうへい)で威圧的な態度にも変わりはなかった。ジグリットは憂鬱(ゆううつ)で、次第に(ふさ)ぎ込んでばかりいるようになった。教育係のマネスラーでさえ、そんなジグリットに気付いていたが、彼はジグリットが大人しくなったのは良い傾向だとむしろ喜んでいた。

 蛍藍月(なつ)から黄昏月(あき)に移ったばかりのある夜、ジグリットはソレシ城から出て、北側の城壁前にある庭園の長椅子(ベンチ)に腰掛けていた。空には梔子色(くちなしいろ)の丸い月が昇り、畑にはサフランの花が咲き乱れている。

 (うつ)ろな眸でアイギオン城の東にある尖塔が、背後のテュランノス山脈の群峰(ぐんぽう)の一部のように、月明かりに(そび)えているのを眺めていると、マウー城のある左手で、男達が騒ぐ声が聴こえた。どうやら、厩舎から何頭か馬が出るところらしい。

 涼夜に馬で曠野(あらの)を駆けるのは、さぞ気持ちがいいだろうとジグリットは思った。しかし、長い間(とら)われ人のように王宮で過ごしていたジグリットにとって、外は安全な場所とは言えなかった。十歳でエスタークから連れ出され、それからずっと王都チョザに住んではいたが、自分が住むその巨大な都のことでさえ、彼には教書で習った歴史ぐらいしか思い出せなかった。

 いつかリネアが自分に言った言葉をジグリットは思い返していた。

「おまえが生まれたのは、ジューヌの身代わりになって死ぬためよ。それ以外に、何の意味もない生命(いのち)なのよ」

 本当にそうだとしたら、なんて悲しい人生になるだろうとジグリットは思った。タザリアの王子と同じ(かお)に生まれなければ、今もまだエスタークで仲間達と楽しく暮らしていたはずだ。十二歳になったからには、一人チョザへ出て、兵士見習いになっていたかもしれない。それでもきっと、今よりはずっと自由で幸せだっただろう。

 厩舎(きゅうしゃ)から二頭の牡馬(おすうま)が連れ出される。月光で馬の毛が黒く(つや)やかに輝いていた。見かけたことのある炎帝騎士団の騎士の一人が颯爽と(またが)った。そして、横腹を一蹴りすると、馬は前肢を持ち上げ、激しく(ひづめ)で地面を叩き走り去った。

 ――あんな馬に乗って、どこまでも遠くへ行けたらなぁ。

 いつしかジグリットは立ち上がっていた。そして、彼は自分の思いついた考えに思わず戦慄(おのの)いた。

 ――そうだ、そうしよう。

 最早(もはや)一刻の猶予(ゆうよ)も赦されないかのように、彼はその場から走り出した。

 厩舎は騎士が出立すると、厩番(うまやばん)が木戸を閉め、松明(たいまつ)()を手に去って行った。ジグリットはそろそろと身を屈めて、厩舎に近づいた。マウー城の白い壁さえ、今は黒く見えた。それほどその場所は暗かった。明かりはマウー城の正面玄関から漏れるものと、二階の窓からのものだけで、小柄なジグリットが厩舎ににじり寄っても、誰も気付かなかった。

 木戸は横木が渡してあるだけで、鍵と呼べるものは付いていなかった。それを退()けると、いよいよジグリットの心臓は激しく脈打ち始めた。見つかったらどうなるか、考えるまでもなかった。しかし、このまま王宮で暮らしていく自信も勇気も、もう自分にはないとジグリットは思った。

 厩舎へ躰を滑り込ませると、そこはさらに真っ暗闇だった。百頭はいるだろう馬は静かで、鼻息と足踏みの音ぐらいしか聴こえない。ジグリットは手に柵を掴んで、そろそろとそれをつたって進んで行った。どの馬が一番速く、一番持久力があるかを見極めるのは、この光のない場所では不可能だった。馬はどれも同じ毛色に見えたし、体格の差もわからなかった。

 ――せめて松脂蝋燭(まつやにろうそく)(葉に松脂を包んだもの)を持って来るんだった。

 そう思ったが、すでに遅かった。ジグリットは手探りで、いつも馬に乗る時に自分が使う(くら)を探しあて、壁からそれを外さなければならなかった。

 そして、唯一覚えていた、一番奥の柵の中にいる馬にその鞍を載せた。その時だった。馬は突然暗闇で人の手を感じて、大きく(いなな)いた。突然人の声がした。

「おいっ、誰だ!?」

 ビクッとジグリットは躰を震わし、その場に凍りついたように固まった。

「おい、答えろ!」その声は低く、そして鋭く響いた。「馬泥棒か」と声が告げた途端、斜め前の柵の奥で、ボッと音を立てて火が点いた。その明るさにジグリットは眸を細めた。

 橙色(だいだいいろ)に光る松明を手に、背の高い男が出て来る。男は片手を剣帯に触れていたが、ジグリットを眸にすると、そこから手を離した。

「・・・・・・ジグリット? おまえ、こんな所で何をしてる」

 彼は松明が照らした上半身だけを黒く光らせ、足元は闇に溶け見えなかった。冬将(とうしょう)の騎士は、その松明をジグリットの方へ突き出し、よくよく確認した。

「もう夜半だぞ。騎乗の稽古(けいこ)なら明日にしろ」

 そうファン・ダルタは言ってから、ジグリットの青白い頬が震えているのを見た。彼は口を閉じ、黙ってジグリットのいる柵へと入って来た。そして、炎に怯える馬の背から、ジグリットの鞍を取り払った。

「どこかへ行くなら、夜中にこそこそ逃げを打つような真似をするな。そんな事は腐った下人(げにん)のすることだ」

 ジグリットは肩の震えを止めることができなかった。王宮から逃げ出そうとした所を、よりにもよって、冬将の騎士に見つかってしまったのだ。きっとリネアに殴られるよりも、彼に殴られた方がずっと痛いだろう。もしかしたら、骨が折れたり歯が折れたりするかもしれないと、ジグリットは(おび)えた。

 しかし、騎士は鞍を盛り上げてある飼葉(かいば)の上へ放り投げ、ジグリットを柵から連れ出した。アイギオン城へ連れて行かれ、王の前で白状させられるのだと思ったジグリットは、騎士がさっきまで彼の居た柵の中へ自分を入れるのに、困惑しながら従った。

 騎士は松明を柵の左の柱に据え付けてある燭台(しょくだい)に突っ込んで、ジグリットを馬の横腹の近くに座らせた。ジグリットはその時、その馬の腹が普通よりも大きい事に気付いた。

 ――子供がいるんだ。

 眸を(みは)って、馬の腹を見ているジグリットに、ファン・ダルタはようやく声を掛けた。その声は静かで穏やかだった。

「夜明けには生まれるだろう」

 そしてファン・ダルタはジグリットを置いて、毛布(ブランケット)(くる)まり、その場に横になると眠ってしまった。ジグリットはどうしたらいいのかわからず、眸をまばたき、身重(みおも)牝馬(めすうま)と騎士を見つめた。

 長い静寂が流れた。時折、牝馬は苦しそうに(うめ)いている。松明は下方まで火が下がり、バチバチと激しく()ぜていた。すると火は突然、消えた。松脂が切れたのだ。真っ暗になった柵の中でジグリットは、ファン・ダルタが躰を起こすのを感じた。そして、自分の肩に毛布が掛けられ、その温かさにジグリットは驚いた。騎士はそんなジグリットに言った。

「寂しいのか?」

 信じ難いほどの率直さだった。ジグリットは唇を噛んだ。声を上げて、だったらどうだって言うんだ! と叫んでしまいたかった。だが、喉も毛布を掛けられた肩も、目尻も、どこもかしこも熱くて、ジグリットはぐっと頭を下げ、感情を(こら)えた。

「最近、おまえが(うわ)の空だった事は、おれも知っていた」

 ジグリットは自分の両肩に掛けられた毛布をぐっと掴んだ。武術指南役のファン・ダルタは、ジューヌとタスティンが抜け、グーヴァーがいない今、ジグリットと二人で稽古をしていた。変化に気付かないわけはなかった。どこか遠い眸、寂しそうな背、無表情で覇気(はき)のない顔。

 ファン・ダルタは奥にある明かり取りの小窓を開けた。そんな所に窓があるなんて、ジグリットは知らなかったが、その高い窓からは大きな満月が今にも飛び込んで来そうなほど、爛々(らんらん)と輝き、光を落としていた。ジグリットは騎士が優しい手つきで牝馬の腹を()でるのを見た。

「こいつはおれが初めて騎士になった時に、陛下から与えてもらった馬だ」ジグリットは頷いた。ファン・ダルタは言った。「だからおれにとって、こいつは特別なんだ。こいつの代わりはどこにもいない」

 ジグリットは自分の隣りに座った騎士の顔を見た。月明かりに彼の横顔は、輪郭が光って見えた。

 ――テマジの代わりがどこにもいないのと同じだ。

 ファン・ダルタはゆっくりジグリットに顔を向けた。

「おまえがどこへ逃げようと、その(かお)である限り、何かしら事件が起こるだろう。だが、ここにいれば、騎士長や、陛下、それに・・・・・・他のやつらもおまえを守ることができる」

 その中に、騎士自身は入っていなかったが、ジグリットはそれが彼の照れ隠しであることに気付いていた。そうだ、とジグリットは思った。

 ――今まで、冬将の騎士のことを、恐いだけの人だと思っていたが、そうじゃないことを本当は知っていたんじゃないか。

 ――少なくとも、自分は騎士のことを、照れ屋で意志が強くて、冗談なんか絶対言わない人だって知っている。何も知らないわけじゃない。

 ジグリットの考えを読んだように、騎士は低い声で言った。

「おれはおまえのことをよく知っている。最初に会ったときのことを覚えているか? おまえは仲間を救おうとして、おれの剣を素手で掴んだ」

 そういえば、そんなこともあったとジグリットは、たった二年前のことを懐かしく思い返した。

「それに自らの知恵を披露(ひろう)するために、陛下の前でおれの(かぶと)を蹴飛ばして、おれに恥をかかせた」

 騎士の声に不気味な怒気を感じ、ジグリットは彼の顔を見上げた。

「いや、それはいいんだ・・・・・・いや、よくないな」と騎士は自問自答し、やがて可笑(おか)しそうに微笑した。「すまん、ただの愚痴(ぐち)だ、気にするな」

 僅かな遺恨(いこん)がその言葉と共に消え去るのを、ファン・ダルタは感じていた。そんな些細なことを今まで根に持っていたとは、我ながら女々しい。きっと陛下でさえ、もう忘れてしまっているだろう。騎士は苦しげな声を上げる牝馬の腹を撫で擦った。

「おまえがタスティン王子を助け出したときも、おれは思った。おれはいつも思っていたんだ」

 ジグリットが「何を?」と首を傾げて眸で問いかけた。騎士は月明かりに照るジグリットの(さび)色の眸の奥に、透き通るような輝きを見た。

「おれはグーヴァー騎士長があのエスタークの街で言ったとき、信じてはいなかったが、今は誰よりも信じている。おまえが――」ファン・ダルタの声は低く硬かったが、それは何よりも真実味を帯びて聴こえた。「おまえが、次代の王の盾となることを、おれは誰よりも信じているんだ」

 ジグリットの眸が見開かれると、騎士は言い難そうに、高い鼻梁(びりょう)を掻いた。

「だから、もし・・・・・・おまえが、その・・・・・・どこか行きたい場所があるなら、だが」

 ジグリットがじっと見つめているのを知り、彼はそっぽを向いた。

「おれが遠乗りという名目で、連れてやってもいいんだ。だから、おまえにはどこにも――」

 騎士はその続きを言うことができなかった。もう言う必要もなかった。ジグリットは毛布を広げ、半分を騎士の肩に巻いた。それだけで返事はよかった。

 ――誰かが必要としてくれること。

 ジグリットの心に、暖かい光が灯っていた。

 ――誰かが、ここにいろと言ってくれること。

 ――それ以外に、ぼくは何を願えるだろう。

 月が沈み、薄明と共に太陽が昇る頃、牝馬は一頭の(おす)の仔を産んだ。ジグリットは冬将の騎士と別れてソレシ城へ戻り、何事もなかったかのように、いつもの日常を過ごした。気分は晴れていた。悩みは消えなかったが、迷いはなくなっていた。



 ジグリットが一晩のうちに急に元気になった事を、リネアだけは(いぶか)しんでいた。朝方、冬将の騎士と厩舎で馬のお産に立ち会ったと聞いたが、それぐらいで彼が元気になるとは思えなかった。大体、なぜそんなものを観に行ったのかも疑問だった。

 ジグリットが夜半に、王宮(チョザ)から逃げてエスタークへ戻ろうとした、という考えに至ったのは、それから十日余り経ってからのことだった。

 午前の授業中、教育係のマネスラーの助手であるオイサに、天文学を学んでいた時のことだ。

「この海鳥座は、なぜ一羽で飛んでいるのか、わかりますか?」というオイサの問いに、ジグリットは少し悩んだ後、黒板に答えをこう書いた。

[待っている仲間の許へ帰るため]

 その瞬間、リネアはピンときたのだ。厩舎に用があったというなら、それはもちろん馬に乗るためだ。しかし夜半に、馬に乗りに行く必要はどこにもない。夜中に一人で、勝手に馬に乗ってどこかへ行こうとしたというのなら、その目的は一つだ。逃げ出すため――。

 きっとジグリットは誰もいないと思って厩舎に忍び込んだのだろう。だが、そこには馬の出産に付き添うため、ファン・ダルタが居た。彼ならジグリットを(おど)し、その場に留めることができたはずだ。あの冬将の騎士が、逃げれば剣で一太刀(ひとたち)にするとでも言えば、ジグリットは恐くなって、王宮から抜け出すのをやめるだろう。

 しかしそれではジグリットがあの晩以来、元気になったことの説明がつかなかった。冬将の騎士はどうやって彼を上手く(なだ)めたのだろう。この城にはジグリットが必要だと、あの寡黙(かもく)な騎士が朗々(ろうろう)と語ったとは思えないが、リネアにはそれ以外の見当もつかなかった。

 ――それにしたって・・・・・・。

 リネアはジグリットが王宮から逃げ出して行ける場所が、たった一つだけ残っていることを思い、苦々しく顔をしかめた。

 ――それほどまでに、エスタークなんかに戻りたいというの?

 リネアにとっては、北にある田舎街(いなかまち)のことなどどうでもよかったが、ジグリットが二年も経った今でさえ、その街にいる薄汚い孤児の仲間に情を持っていることは、許しがたいことだった。

 ――どうにかしなければならないわね。

 テマジのように、巧妙に排除できる自信はあった。またアウラを使えば良い。あの子なら、王女付きの侍女でいるために何でもやるだろう。こちらが命じなくても。リネアは自分の恐ろしい考えにくすくす笑った。オイサが不思議そうに訊ねる。

「リネア様? 何か?」

「いいえ、先生」彼女はにっこり微笑んだ。「星座って魅力的な神話ばかりで、色々な教訓を与えてくれますわ」

「そうでしょう。天文学は浪漫(ろまん)(あふ)れているんです」

 オイサは、リネアが含めた意味に気付かず、嬉しそうに言った。ジューヌとジグリットは、珍しく授業に興味を持っているリネアに、怪訝(けげん)な表情を浮かべていた。


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