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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
24/287

11-1

          11


 それから三日後、テマジは家へ帰されることになった。腰の骨を折る大怪我で、彼女は立つことも座ることもできなかった。王宮の医師は、彼女は二度と歩くことはないだろうと言った。

 ジグリットは最後の日、彼女を見舞ったが、テマジに笑みはなかった。テマジの部屋は、ソレシ城の北にある塔の一角で、他の侍女達三人との四人部屋だった。簡素な樫材の寝台(ベッド)と、二人共同の衣装(びつ)、四人で一つしかない机には、見舞いに来た誰かが置いていったのだろう、部屋には不似合いな豪華な真紅の薔薇(ばら)の花束が飾ってあった。

 花束の横には黒い封筒が開いたまま置いてあり、ジグリットはその封蝋がタザリア王家の紋章である黒き炎を(かたど)っているのを眸にして、リネアが送ったものだと気付いた。封筒からはジグリットが見たこともない枚数の金貨が溢れ出ていた。しかしジグリットは、特に何も思わなかった。テマジはリネア付きの侍女なのだから、リネアが彼女を見舞うのは当然の行為だった。

 彼女は白い綿の敷布(シーツ)の上で身じろぎもせず、強張った顔でジグリットを見上げていた。ジグリットは黒板に、彼女を慰める言葉を書こうとしたが、テマジは先に口を開いた。

「こんな格好でごめんなさい」

 弱々しい声だった。ジグリットが首を横に振ると、テマジは細い腕を上げて彼の方へ伸ばした。その冷たい手をジグリットはそっと取り、寝台の横に(ひざまず)いた。二人の目線が同じ位置になる。

 テマジの眸にうっすらと涙が浮かんでいるのを見て、ジグリットは戸惑った。どんな慰めの言葉も彼女を元気づけることはできないように見えた。

「侍女を辞めさせられたなんて、家族に合わせる顔がないわ・・・・・・」

 そんなことないよ、と伝えたかったが、黒板に文字を書く間を惜しんで、ジグリットはテマジの眸からつうっと流れた涙の軌跡を、そっと指で拭った。

「今までがんばってきたのに・・・・・・全部、ダメになっちゃった」

 ジグリットが拭いた場所をまた涙が流れる。もう一度拭こうとしたジグリットの手は、彼女の嗚咽で止まってしまった。

 テマジは肩を震わせ、眸を閉じた。その途端、両頬に涙がとめどなく溢れて、ジグリットと繋ぎ合っていた手を彼女は離し、顔を覆った。

「ごめんなさい」とテマジは震える声で呟いた。

 ジグリットはこの先、彼女がどうなるのかを考えると、無力感で胸が塞がる思いだった。ジグリットにできることは何もなかった。大した慰めも癒しの言葉もかけられず、やるせなさと切ない苦しみを抱えて、ジグリットは部屋を後にした。

 その日、テマジは寝たままの状態で、用意された四頭立ての馬車に乗せられ、遠くアンバー湖より南の街、スランジへと旅立った。

 ジグリットは心に大きな穴が開いたような気持ちになった。

 そしてリネア付きの侍女は、テマジが帰される一日前には正式に決まっていた。それがジグリットには納得できなかった。まるで侍女に代わりは幾らでもいるようだった。現にそうなのだろう。だが、ジグリットにとって、テマジの代わりはどこにもいなかった。

 彼女はいつも姉のように、時には母親のように、ジグリットを慰め励ましてくれた。その温かな眼差しや言葉を失うことは、ジグリットには耐え難かった。大きく開いた心の穴は、今までに経験したことのないほどの悲しみと苦しみをジグリットに与えていた。

 リネアの次の侍女は、アウラという十四歳の少女だった。暗緑色の瞳と髪の少女は、まるでリネアの分身のようにジグリットには思えた。彼女がジグリットに最初にかけた言葉は残忍で冷え冷えとしていた。

「本当なら、おまえのような者はリネア様どころか、わたしにだって一生話しかけることもできないはずなのよ」

 アウラはジグリットを軽蔑した眸で見下ろし、そう言ったのだ。ジグリットは衝撃を受けた。自分が孤児であることは隠しようがないし、皆が知っていることだ。だが、こうあけすけに言われたのは、リネア以外、初めてだった。

 アウラはチョザの中流貴族の出だった。テマジもそうだったが、リネア付きの侍女になれたことを誇りに思っていた。しかしアウラは彼女と違い、陰険そのもので、告げ口、噂話が好きで、リネアから与えられた仕事の八割を、自分より身分の低い侍女に押し付ける小狡(こずる)い要領の良さを兼ね備えていた。

 彼女の高飛車な態度は、留まるところを知らなかった。リネアが側にいても、それは変わらなかった。武術の稽古(けいこ)に行こうとするジグリットに、後ろから声を掛ける時も。

「稽古で鼻を削ぎ取られてしまわないよう、気をつけた方がいいですよ」などと、嫌味を付け加えるのを忘れなかった。

 ジグリットはリネアとアウラに出くわさないよう、二人のどちらかでも声がしたり、姿が見えると、そそくさとその場を立ち去るようになっていた。

 そして、そんな状況に転機が訪れたのは、蛍藍月(なつ)も終わりのことだった。それはアウラのたった一言から始まった。

 夕餉を終え、居室に戻ろうとしたジグリットに、アウラが廊下の正面からリネアの衣服を抱えてやって来た。リネアは湯浴みをしているのだろう。彼女は一人だった。ジグリットは俯いて、アウラと眸を合わさず通り過ぎようとした。通り過ぎる一瞬、にやりと頬を歪ませアウラが言った。

「味方がいなくなったのは、どんな気分?」

 ジグリットは何の事かわからないと言う顔で、足を止め、アウラを振り返った。

「おまえの相手なんかするから、大怪我を負うことになったのよ。可哀相に、一生歩くこともできないらしいじゃない」

 それがテマジのことだとジグリットは気付いた。しかし、怪我と自分とがどう繋がるというのだろう。テマジが階段から落ちたのは不幸な事故だ。ジグリットが黒板を取り出して、アウラに訊こうとする前に、彼女が続けて口を開いた。

「そんな惨めな人生を送るぐらいなら、わたしなら死んだ方がマシね」

 黒板が床に落ち、大きな音を立てた。

 ――テマジのことをそんな風に言うなんて・・・・・・。

 怒りにジグリットは躰が震え、思わずアウラの頬をガツンと一発殴ってやろうかと拳を握った。しかし、その前にアウラはきびすを返し、笑みを残したまま素早く逃げ去っていた。

 ――死んだ方がマシなんて、そんなわけないじゃないか。

 テマジがいなくなってから初めて、ジグリットは目尻に涙が浮かんだ。あまりの悔しさで胸が詰まり、取り出した白墨(チョーク)御影石(みかげいし)の床に叩き付けた。チョークは粉々に飛び散り、ジグリットは黒板を拾い上げると、自室へ走り込み、その日はもう寝台から出ることができなかった。

 翌日、ジグリットは一日中、ぼんやりとしていた。何か悩んでいるのは誰の眸にも明らかだった。リネアはマネスラーの宗教史学の授業中、隣りに座ったジグリットに、数回に渡って何を考えているのかと詰問したが、彼は答えなかった。

「答えないなら腕を(つね)るわよ」とリネアは脅しもしたが、ジグリットは皮が捲れ、腕から血が滲んでも、顔色一つ変えなかった。

 ジグリットが大人しくしていれば、いつもはそこで飽きてしまうリネアも、その日はなぜか執拗(しつよう)だった。彼女はジグリットがいなくなったテマジのことを考えているのだと気付いていた。

 ――侍女が一人いなくなったぐらい、どうってことないじゃない。

 リネアは(いら)つきながら、教書を読み上げて説明しているマネスラーをいつものように無視して、窓に近づくと誰も見ていないのを見計らって、自分の白いレースの手巾(ハンカチ)を放った。風が軽い布切れを流し、それは少し離れた中庭の一本の(くぬぎ)の木の枝にまで飛んで行った。

 授業が終わると、ジグリットはのろのろとチョークを箱に仕舞い、教書を持って居室へ戻ろうと立ち上がった。そのとき、リネアが彼に声をかけた。

「ねぇ、ジグリット。ちょっとお願いがあるの」

 リネアの眸に妖しい輝きを見て、ジグリットは嫌な予感がした。しかしもちろん断ることはできなかった。リネアは彼を中庭へ連れ出すと、橡の木の下で彼に言った。

「見て、わたくしの手巾があんな所に」

 言われてジグリットも樹上を見上げ、白いレースがひらひらと枝に引っかかっているのを眸にした。

「登って取ってきてよ。破いたり汚したりしたら、ただじゃおかないわよ」

 それはあからさまな嫌がらせだった。気付くと、リネアの背後にアウラがにやにや笑いながら立っていた。彼女はジグリットが失敗すればいいと心底、願っているようだった。失敗して木から落ちたら二人は喜ぶのだろう。それでも構わないとジグリットは思った。もう何もかもがどうでもよくなっていた。虚脱感に支配されたまま、ジグリットは幹に手をかけ、器用に十ヤールほどの木に登って行った。

 リネアの手巾は、ちょうど二階の窓と変わらない高さの枝に巻きついていた。風向きから、ジグリットは彼女が授業中に窓から手巾を放ったのだと確信して溜め息を漏らした。

「ジグリット、何をしているの! さっさと降りて来なさい」

 下からリネアが神経質に怒鳴っている。

 ジグリットはそれを無表情に見下ろし、手巾を乱暴に枝から(むし)り取った。その拍子にレースの薄い部分が引き裂かれる音がしたが、ジグリットはちらっとそれを見ただけで、後で怒られることももうどうでもよかった。

 降りようと一つ下の枝に足を乗せる。細めの枝はジグリットの体重に少し(しな)った。しかしジグリットは注意を払うこともなく、次の枝へ足を伸ばす。そのとき、限界にきていた枝がバキッと激しい音を立てて折れた。足先が宙へ投げ出される。

 下からリネアかアウラのどちらかが驚くような悲鳴を上げるのが聴こえた。しかしジグリットは、自分の手が空中に浮き上がるのをぼんやりと見ていた。その手には、リネアの手巾がしっかり掴まれている。

 ――こんな物、幾らだって代わりがあるんだ。侍女と同じなんだ。

 なぜか声を上げて笑いたい気分だった。こんな莫迦げたことをしている自分を、無力でどうしようもない自分を、(あざけ)り笑ってしまいたかった。

 しかしジグリットの躰は何本かの太い枝を叩き折り、そのまま五ヤールほど下の地面に背中から激突した。彼は笑うどころか、その衝撃で思考すらできなくなった。

「・・・・・・がはっ・・・・・・・・・・・・はっ・・・・・・」

 硬い地面の上でジグリットは仰向けのまま、口を大きく開いて(あえ)いだ。

 息ができなかった。いくら吸い込もうとしても、空気が入ってこないのだ。

 ――苦しい・・・・・・誰か・・・・・・。

 ジグリットの脳裏に、哀しい眸をしたテマジの顔が思い浮かんだ。

 彼女を助けるどころか、慰めることすらままならなかった自分が、愚かで惨めな存在に思えて苦しかった。これがその罰だと思いたかった。

 だが、激しい怒号と共に誰かがやって来る足音が聴こえた。

「何をしている!」

 タスティンは、青褪めて茫然とジグリットを見下ろしていたリネアを押し退け、懸命に息をしようと喘いでいる少年をゆっくり抱き起こした。

「おまえ、こいつに何をした!」

 タスティンの怒りがジグリットの薄らいだ意識に入り込む。ジグリットはタスティンに、リネアは関係ない、勝手に落ちただけだと伝えたかったができなかった。彼にリネアと喧嘩して欲しくなかったが、ジグリットは息をしようと努力するだけで精一杯だった。

「おい、そこの女、さっさと医者を呼んで来い!」

 タスティンに怒鳴られて、アウラは唇を噛み締めたまま、アイギオン城へ走り去った。

 ジグリットが浅く、ハッハッと呼吸をしているのを見て、タスティンは彼の背中をゆっくり擦った。そしてジグリットの強く掴んでいた手巾を取ると、リネアに突きつける。

「どうせおまえがやらせたんだろう!」

 リネアは自分の倍はある大柄な青年になったタスティンを、汚らわしい物でも見るように睨み返した。タスティンはいまだに骨折した足に添え木をしていた。それは彼が崖から落ちて、ジグリットに助けられたときのものだった。

 ――無様(ぶざま)な友情ごっこのつもりなのかしら。

 リネアは笑い飛ばしてやりたかったが、彼女の顔はまだ真っ青だった。

 タスティンでさえ、一瞬彼女が泣いているのかと眉をひそめるほどだった。それほどのショックが彼女には見て取れた。

「わたくしがやらせたですって!」リネアはタスティンの手から手巾を引っ手繰(たく)ると言った。「知らないわよ、勝手に落ちたのよ」リネアは苦しそうなジグリットを一瞥(いちべつ)すると、手の中の手巾を強く握って自分の胸に押し当てた。「お、落ちるなんて・・・・・・思わないわよ。鈍臭(どんくさ)い子」

「なんだとッ! おれは知ってるんだぞ。おまえがこいつに何をしているか。父上は彼をタザリアの一員にすると言った。それをおまえは――」

 ジグリットは彼らが言い合っている間に、徐々にではあったが、落ち着いて呼吸ができるようになってきていた。多分、背中を強打したせいで、一時的に肺機能が働かなくなっていたのだろう。

 ジグリットが躰を起こすと、タスティンはリネアを(なじ)るのを止めて、彼を助けた。

「大丈夫か、ジグリット」

 ジグリットは小さく頷いた。そしてタスティンの上衣の袖口を掴み、言い争うのをやめるよう眸を合わせて首を横に振った。

 リネアも今は黙って、ジグリットを見下ろしていた。彼女は明らかに安堵していたが、その一瞬の表情に気付いた者はいなかった。リネアはジグリットが大丈夫そうだとわかると、医師が来るより先にその場を去り、ジグリットはアウラが連れて来た医師に診察してもらった。

 大したこともなく無事なことがわかると、タスティンはジグリットに言った。

「いつもこんな事をやらされているのか?」

 ジグリットは首を振り、嘘をついた。しかしタスティンにも、彼が嘘をついていることはわかっていた。ジグリットが自分に助けを求めていないことに苛立ちを感じたが、それと同時に彼の矜持(きょうじ)を思って、それ以上は何も言えなかった。

 タスティンは、ジグリットが強いのは孤児のせいなのか、それとも生来のものなのか、どちらにしろ、庶子である自分と重ね、初めて彼を羨ましく思った。


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