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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
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 数日後、事件が起こるまで、ジグリットは平穏な時を過ごしていた。王子タスティンはソレシ城の自室で三十日の安静を命じられ、退屈しているため、ジグリットは何度も彼の許を訪れ、ゲームをしたり話をして相手を務めた。

 もう一人の王子ジューヌは、相変わらず外へ出ることを嫌がり、寝所に閉じこもっていたし、王女リネアはジグリットと顔を合わせても当然のごとく無視した。

 不気味なことは確かにあった。いつもなら、たとえジグリット自身に責任がないことでも彼のせいにして部屋に呼びつけ、罵倒したり、時には暴力さえ振るうこともあったリネアが、なぜか事故のことを口にせず、それ以来、静寂を保っていたことだ。

 しかし、ジグリットはその事をそれほど重大に捉えていなかった。リネアは元々気分屋だったし、飽き性でもあったからだ。自分を(いじ)めるのに彼女が飽きたのだろうと、むしろホッとしていたぐらいだった。

 ソレシ城のジューヌの部屋で、午前中、いつものように教育係のマネスラーによって、人文地理学を学んでいたジグリットは、珍しく眠気を覚えていた。その日は蛍藍月にしては妙に涼しく、窓の薄布を通して風が教書のページを捲るほどだった。

 マネスラーは、ジグリットが思っていたより早く、彼を王子や王女と同じ授業に()かせていた。ジグリットが文字の読み書きを習い始めて、半年が経ってからだったが、それでも誰が聞いても早い方だっただろう。ジグリットでさえ驚いたぐらいだ。しかし、それはマネスラーが望んだことではなく、単にジグリットが彼の持っていた教書のうち、読み書きに最適な書物をすべて読破し、もう読めない単語がないほどにまで成長してしまったからだった。

 マネスラーはジグリットが黒板に問題の答えを書くのを見ながら溜め息をついた。また正解だったからだ。それに比べて、横目でジューヌの黒板を見ると、マネスラーは頭痛がして眉間に深い(しわ)を刻んだ。ジューヌの方が一つ年齢が下とはいえ、この差は如何(いかん)ともし(がた)かった。リネアはというと、まったく関係のない書物を、机に(ひじ)をついてぼんやりと眺めていた。彼女はマネスラーが知る限り、ジグリットにつぐ聡明な少女だったが、我儘(わがまま)で、自分のしたい事しかしない。これもまたマネスラーの危惧(きぐ)するところだった。

 結局、彼の熱心な生徒は、ジグリットだけだった。マネスラーは否応(いやおう)無しに、ジグリットの質問に答え、彼の正解に渋い顔で丸を与えなければならなかった。しかし、その日は違った。問題の答えはすべて正解だったが、マネスラーが丸を与えようと、苦々しい顔つきで赤墨(チョーク)を差し出した時、城内を(つんざ)くような悲鳴が上がった。

 ジグリットが椅子を後ろへ弾き飛ばして立ち上がり、ジューヌは恐れ(おのの)いて寝所へ駆け込んだ。マネスラーは王子と王女を制するように手を差し出し言った。

「全員、部屋の奥へ。わたしが見て来ますから、出ないように」

 リネアだけが椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと眸を上げ扉口を見ると、優雅な動作で読んでいた書物を閉じた。まるで自分にはまったく関係のない出来事が起きているのだと思っているようだった。

 ジグリットはマネスラーが一人で部屋を出て行くのを見つめていた。城内では、徐々に侍従や侍女の騒ぐ声が響き始めていた。廊下へ出たマネスラーの声が、そこに混じるのが部屋にいたジグリットにも聴こえた。

 ――何があったんだろう。

 ジグリットは廊下へ出て、自分の眸で確かめたいと思ったが、じっと堪えて待った。マネスラーの命令は絶対で、もし破れば、授業を受けさせてもらえなくなるかもしれないからだ。

 立ったままのジグリットに、リネアが声を掛けた。

「ねぇ、座れば?」

 その冷静な声に、ジグリットは怪訝な眸を向けた。リネアは、いつものように冷ややかに微笑んだ。

「もし敵が攻めて来たんだとしても、殺すならまずジューヌからでしょう」

 それを寝所で聞いたジューヌが、布団に包まったまま叫んだ。

「イヤだ・・・・・・ぼく、死にたくないよぉ」

 リネアはさらに相好を崩し笑った。

「そんなこと言っても、王位を継ぐのはおまえなんだから」

「ぼ、ぼくは王になんかならないんだ。絶対ならないんだよぉ」

 彼女は弟のジューヌが泣き震えているのを見て、楽しそうにふふふ、と息を漏らした。ジグリットは、ジューヌが寝所に引きこもるようになったのは、リネアのせいだと知っていた。リネアが彼に恐怖を植え付けているのだ。王宮の外は敵や刺客(しかく)に満ちている。そして、誰もが彼を、王位継承権のある王子ジューヌを狙っているのだと。

 ジグリットが、ジューヌの身代わりに育てられていることを、もちろん彼は知っていたが、そんなものは気休めにもならなかった。ジューヌはジグリットと自分の違いをよく知っていた。そしてその違いを、すべての人が知っていると信じて疑わなかった。安心できるのは寝所だけ。王宮のソレシ城の一番奥にあるこの部屋だけ。ジューヌはそう思っていたのだ。

 しかし、いまやさっきの女性の悲鳴で、ジューヌにとっては、ここも安全ではなくなっていた。彼は一種のパニックを引き起こしかけていた。

 ジグリットは寝室へ駆け込み、布団を頭から被って泣いているジューヌに寄り添った。侍女のヤーヤは出ているし、姉のリネアはあの通り、(あお)ることはあっても彼を慰めることなどあり得ない。

「ジグ、ぼく・・・・・・ぼくは殺されちゃうの?」

 ジグリットはジューヌの自分と同じぐらい細い肩を(さす)った。そんな事にはならないと、ジグリットには確信があった。なぜなら、同じ顔を持つ自分がいるのだから。先に殺されるのは、自分の方だろう。その間に炎帝騎士団の騎士がきっと駆けつけて、ジューヌを助け出す。そのまま数分、ジューヌの肩を擦っていると、部屋の扉が開く音がした。

 その瞬間、ジューヌは過剰なほど大きく身震いした。ジグリットは寝所から続き部屋を眺めた。そこには、出て行ったマネスラーが手巾(ハンカチ)で額の汗を拭きながら、怒ったように立っていた。

「ちょっとした事故が起こっただけですよ」とマネスラーは言った。

「事故? 敵じゃないの?」

 ジューヌが布団から眸だけ出した。その眸は真っ赤に泣き濡れている。

「ええ、もちろん敵なんかじゃありません。侍女が一人、そこの階段から落ちたんですよ」

 マネスラーは人騒がせな、と呟いた。

 ジューヌがゆっくり敷布(シーツ)から出て来る。ジグリットは先に寝台から降り、続き部屋に戻った。

「さぁ、授業を再開しましょう」

 マネスラーはもう普段の渋面を取り戻していた。しかし、リネアはあえて彼に問いかけた。

「その侍女、大変な怪我のようでした?」

「そうですね、」マネスラーは教書を開きながら答えた。「気を失っていたので、はっきりはわかりませんが、駆けつけた医師の診断では、腰椎(ようつい)が折れたようですよ」

「まぁ、大怪我ね」

 リネアにしては、珍しく侍女の怪我を心配している。

「それで、その侍女、なんて名前でした?」

 リネアはしつこく訊ねた。マネスラーはもうその事より、早く授業を再開したくて堪らないと言った様子でぞんざいに答えた。

「ええっと・・・・・・テマジと言ったかな」

 瞬間、ジグリットの頭は真っ白になった。

「そう、テマジと他の侍従達が呼んでいましたよ」

 何食わぬ顔でそう言うマネスラーとは対照的に、ジグリットは手に取った教書を放り出し、急いで部屋を飛び出した。

「ジグリット!? どこへ行くんです、戻りなさいっ!!」

 背後からマネスラーの怒鳴り声がしたが、構っていられなかった。

「ジグリット! 授業中ですよ!」

 扉口から顔を突き出して叫んでいるマネスラーを、リネアは酷薄な眸で見つめていた。

 悪いのはテマジなのだ。リネアはそう考えていた。

 二年前、彼女の髪を切った後、リネアはテマジを呼んで忠告した。「二度とジグリットに親しげにしない。用が無い時は話かけたりもしない。そう誓いなさい」と。テマジは頷いた。なのに、その誓約を彼女は破ったのだ。

 ずっとそうしてさえいれば、没落貴族である彼女の家族が誇る、王女付きの侍女でいられたのに。自らそれを放棄した彼女は愚かだとリネアは思った。それに、侍女に代わりなど幾らでもいる。かすかに冷笑を浮かべたリネアに、ジューヌだけが気付いて、彼はその薄気味悪さにぶるっと大きく身震いした。


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