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その冬将の騎士、ファン・ダルタはすぐに林へと分け入り、兵の指揮を取って、四方へ彼らを散らせた。自らは北部の林へと馬を走らせる。雨の後の林は暗闇と泥濘で馬を昏迷させていた。
ファン・ダルタはタスティンの名を何度も呼び、十回に一度の割合でジグリットを呼んだ。王の話では、先に行方不明になったのはタスティンで、それを追ってジグリットがいなくなったということだった。本来なら、その状態では簡単に見つかるはずなのがジグリットだ。
だが騎士は優先して捜すべきなのは、王子であるタスティンだと理解していた。ジグリットは彼らにとって、ついでに過ぎない。しかしファン・ダルタはその十回に一度呼ぶ少年の名を、力強くはっきりと、そして遠くまで聴こえるように声高に叫んでいた。
漆黒の外衣を着た騎士は、杉の暗い木立にすっかり溶け込んでいた。少年達から彼を見つけることは不可能に近かった。しかしファン・ダルタが出会ったのは人間ではなかった。
ぶるるるっと嘶きが聴こえ、騎士は珍しく感情を顕わに叫んだ。
「ジグリットか!? もしやタスティン様!?」
馬で近づくと、相手は騎士の馬と鼻面を合わせて、切なげに啼いた。
「・・・おまえ、ジグリットの馬だな?」
なぜこんな所に、騎手も乗せずに馬が歩いているのか、それを想像したファン・ダルタは一気に眉を寄せ、馬上から飛び降りた。
ジグリットの栗毛の馬は、大人しくファン・ダルタに躰を触れさせた。
「おい、おまえの主人はどうした!? どこかで振り落としたんじゃないだろうな!」
険しい声に、馬は首を荒々しく振り回した。騎士はそれを見て気付いた。
「こいつ、轡がないぞ。ジグリットが・・・・・・?」
何かが起こったことはわかったが、それが何かはわからない。その時、栗毛の横腹に括りつけられていた鞍袋に眸がいった。ファン・ダルタはジグリットがそこに黒板を入れていることを知っていた。あの唖の少年は文字を覚えてからというもの、片時も黒板と白墨を離すことがないからだ。
ファン・ダルタはそれでも自分が考えたように、少年がとっさにそこまで思いつくだろうかと、疑問を抱きながら鞍袋を開いた。そこには確かに黒板があり、そして白墨で何かが書いてあった。
騎士は恐ろしい物を見つけたかのように、一瞬身震いした。確かジグリットはまだ十二歳だったはずだ。しかし紛うことなくそれは見知った少年の文字で、さらに付け加えられた地図は方角と距離、それにタスティンが倒れている崖の地形が詳細に描かれていた。
ファン・ダルタはすぐに自分の馬の手綱を手に、ジグリットの馬に跨ると、手綱の代わりに首を掴んだ。二人を連れ帰るためには、馬は二頭必要だった。
「この地図が正しいことを祈るだけだな」
騎士の足がガツンと腹を叩くと、栗毛は走り出した。まるで行くべき場所を知っているかのようだった。もう一頭の彼の馬も、手綱を引かれて付いて来る。冬将の騎士は振り落とされないよう、しっかりと馬の鬣を掴んでいた。
雨が止み随分経ったが、助けは来なかった。ジグリットは全身びしょ濡れのまま、洞の前に座り込んでいた。蛍藍月とはいえ、両腕で抱いた躰は芯まで冷え切り、首の後ろがぞわぞわしていた。足先を忙しなく動かしていると、向かいから声が掛かった。
「なぁジグリット」
タスティンの声にジグリットは顔を上げ彼を見た。眸を覚ましたタスティンの顔色は、さっきよりマシになっているように思える。
「おまえ、いつまでもそんな濡れた格好じゃ、風邪引いちまうぞ」そう言って、タスティンは狭い洞の中で躰を動かし、痛みに顔をしかめながら、白貂の薄黄色の外衣とその中に着ていた鎖帷子、革の胸当てを脱ぎ、絹の上衣を首から抜くと、ジグリットへ放り投げた。
「それならまだ濡れてない。着てろよ」と彼は言った。
ジグリットは慌てて首を振った。そんなわけにはいかない。自分が着れば、濡れていない上衣もすぐにびしょ濡れになってしまうだろう。
しかし、タスティンは遠慮を許さなかった。彼は泥塗れの自分の外衣を、躊躇うことなく素肌に巻いた。
「おれの外衣は見た目は酷いが、おまえのよりは濡れていない」
ジグリットは手に持った彼の上衣をどうすべきかわからず、抓んだまま、視線をさ迷わせた。
「いいから着ろよ。誰も文句なんか言わないさ。おまえはおれの命の恩人だからな」
ジグリットは黒板さえあれば、そんな大げさなものじゃない、と書けるのになと思った。だが、今は彼の親切を受けることにして、自分の濡れそぼった外衣を地面に敷き、そこに脱いだ鎖帷子を置き、さらに充分絞れる綿の上衣を脱いだ。すると、タスティンは裸になったジグリットを見て眸を見開いた。
「おまえ、何だよそれ・・・・・・」
ジグリットはハッとして急いで、タスティンの絹の上衣を着た。今の状況にぼうっとしていて、ジグリットはすっかり忘れていたのだ。
「お、おまえ・・・・・・誰にやられたんだ、それ」
タスティンの声は、震えていた。ジグリットは口を噤んで俯いた。肌に触れたタスティンの絹の上衣は彼の熱をまだ保っていた。
「その疵、どう見ても武術稽古の疵じゃないぞ」ジグリットが何も言わないのをいいことに、タスティンは続けた。「切り疵に見えたけど、誰に・・・・・・自分でやったってことはないだろう?」
どうせなら、自分でやったことにしておきたいとジグリットは思った。彼に軽蔑されたくなかった。ジグリットは、リネアの仕打ちによる無数の疵を躰に残していたのだ。
王女リネアは、ジグリットを痛めつけたり、いたぶったりするのが好きなのだ。そして、ジグリットはそれにどうやっても抵抗できなかった。タスティンがそれを知れば、ジグリットの弱さを軽蔑するだろう。そんなことすら抵抗できない、身分の低い人間なのだと、タスティンはそう思うだろう。それがジグリットには、とてつもなく辛いことだった。
しかし、十七歳のタスティンにとって、答えを導き出すのは簡単なことだった。彼にはそんな非道なことをする人物が一人しか思い当たらなかった。
「リネアか! おまえにそんなことするヤツは、リネアしかいないだろう!」
ジグリットは嘘を付けず、ただ脱いだ鎖帷子の金属の輪をじっと見下ろしていた。
「そうなんだろう、ジグリット!」
ついに怒鳴り声になり、ジグリットは目の前の青年に、肯定も否定もない真摯な眸を向けた。答えなど言うまでもない。
タスティンに軽蔑されることは辛いが、結局は自分は田舎街の貧民窟の孤児でしかない。今まで彼が優しくしてくれたことの方が、夢のようなことだったのだ。ジグリットがそう思い込もうとした時、タスティンが言った。
「あの女、赦せねぇ!!」
ジグリットはきょとんとして彼を見上げた。
――今、なんて言った? ゆるせねぇ、とか・・・・・・。
タスティンはジグリットの面食らった顔に気付かず、さらに口汚く叫んだ。
「城に帰ったら、張り飛ばしてやる! 任せとけ!」
タスティンは明らかに憤慨していた。ジグリットは眸を瞬かせ、慌てて首を振った。そんなことをしたら、タスティンが怒られてしまう。それだけなら言いが、大問題になる。リネアとタスティンもまた同等ではないのだ。彼女は正妃の娘で、タスティンは第二夫人の息子。二人が大喧嘩なんかしたら、王宮中が大混乱になるだろう。
しかし、タスティンの決意は固かった。
「自分より弱いヤツをいたぶるなんてのは、女だからって赦されることじゃないぞ。それが身分に関係したことでもだ。おまえが元は孤児だからってことだけで、あの女がそんな仕打ちをしてるのなら、それは絶対に間違ってるんだ」タスティンは唸るように言った。「そうだ、絶対間違ってる」
ジグリットは不思議な気分だった。胸がすうっと軽くなるような感じがした。
「ありがとう」と声に出さず、ジグリットは口を動かした。タスティンはそれを見て、また怒った。
「おれはまだ何もしてないだろ! そう言うのは城へ戻って、あの女を撲ちのめしてからだ」
ジグリットは首を振った。その気持ちだけで充分だった。なんとかして彼に伝えたくて、ジグリットは黒板の代わりになる物を探した。そして、自分の脱いで置いていた鎖帷子を、繋いでいた糸を歯で噛み切り、バラバラにした。ジグリットの鎖帷子は子供用で、軽くする目的によって柔らかい軽合金でできていた。一つ一つの金属の輪を外し、力を込めて形を変え、文字を作る。
すべての文字を作り終えた時には、タスティンはジグリットを手伝って三十二あるうちの、五つの文字を作ってくれていた。「できたぞ」とタスティンが最後の文字を置くと、ジグリットは彼に文字を一つずつ持ち上げて、言葉を繋げた。
夜も明けようという頃になって、ジグリットの栗毛の馬がようやく冬将の騎士を崖の上に連れて来た時には、ジグリットはタスティンと文字を使って語り尽くした後だった。
二人の間には、身分を超えた信頼と友情が芽生えていた。タスティンとジグリットはその身分に差こそあったが、心休まらぬ王宮で家族と呼べる人もなく過ごしてきたことに違いはなかった。彼らは共通の寂しさを知っていた。そして、タスティンはずっと会っていない母親ラシーヌにいつか再会することを夢見ていたし、ジグリットは遠くエスタークにいる仲間が元気でいるかどうか、ずっと心配していた。
しかし、タスティンの頑なにリネアを糾弾しようとする心を変えさせるのは、容易なことではなかった。ジグリットは何とか、自分で解決できるようにするからと彼を何度も説得しなければならなかった。




