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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
山獄の獅子王
200/287

第一章 冥府と砂獄の少女たち

 どれだけ絶望しても、起き上がれる人間がいる。

 ほんの一握(ひとにぎ)りだとしても。

 その強さは、持って生まれたものでも、育った環境によるものでもなく、そうありたいと日々願うことからくる、たゆまぬ精神的努力によって訓練されるものだ。

 次の絶望が(おとず)れるまで長い時があるなら、きっと人生に打ち()つことができる。

                      ジグリット・バルディフ 『回顧録』より




第一章 冥府と砂獄の少女たち

第二章 脱獄の涯てに

第三章 山獄に眠る者たち

第四章 心の獄所

第五章 反乱の獄司

第六章 獄道の兆し

第七章 火獄の砦

第八章 砂獄の蛍藍月




第一章 冥府と砂獄の少女たち


          1


 聖階暦(せいかいれき)ニ〇ニ三年、紫暁月(しぎょうづき)。ジグリットがゲルシュタインの血の城から脱出し、リネアから逃れようとしていた頃、アルケナシュ公国のフランチェサイズ大聖堂に、アンブロシアーナは帰還(きかん)していた。

 右翼棟(うよくとう)の広い居室に、彼女は一人だった。室内には、大きな寝台(ベッド)糸杉(いとすぎ)の大木が見える窓、そして淡々と時間だけを(しら)せる魔道具が、ぽつんと部屋の片隅(かたすみ)に置かれていた。

 窓の外には夕闇(ゆうやみ)(せま)りつつあった。薄暗くなり始めた室内の床を()って、葡萄酒(ワイン)の染みのような赤黒い残照が差し込んでいる。アンブロシアーナは、ぼんやりとそれを眺めた。そして思った。また一日が終わる、と。

 それは何気ない誰にでも訪れる朝、昼、そして夜に違いない。けれど彼女にとって、それはありきたりな時間の経過ではなかった。自分にとってかけがえのない一日が、また音もなく逃げ去るように過ぎて行くのを眸にしているのだ。

 アンブロシアーナは泣いていなかった。最後に泣いたのは、ずっと昔のことのように思えた。胸をあれほど(ふさ)いでいた恐怖は、確かにまだそこに(うずくま)って、彼女の横にべったりと張り付いている。しかし、それはもう恐ろしいものではなくなっていた。

 長い黄金色(ブロンド)の髪を、アンブロシアーナは首の後ろでまとめると、()った木綿(もめん)(ひも)で一結びにした。それから人々の口さがない(うわさ)話のことを考えた。

 半月前、年の変わり目である数えない日(バードラ)に行われるはずだった誕生祭(フェステドバード)は、中止となっていた。少女神(コレツェオス)がフランチェサイズにいなかったからだ。

 教会は少女神が逃亡したことを人々には()せていたが、そのせいで街の人達が噂していることをアンブロシアーナは知っていた。少女神は神の力(アーリメント)を失った。(みな)、そう噂しているのだ。

 少女神は幼少の頃に主によって見出(みいだ)され、そして大人になる前にその力を失うのが通例だ。今までもそうだったのだし、これからもそうなのだ。アンブロシアーナももうその年齢に達している。

 ――後悔はしていない。不思議なものだわ。

 アンブロシアーナは、主に与えられた力を自分のために使ったことを、まったく後悔していなかった。もちろん、それは責められるべきことだろう。けれど、死を前にしてようやく平穏を得たのだ。あれほど(こわ)かったこの世界からの消滅が、今はもう冷静に受け止められるようになっていた。それもこれも、真実を知ったおかげだ。

 アンブロシアーナは窓辺に立ち、足元に残っていた夕暮れの輝きが尽きるのを見続けた。彼女は、少女神ではなくなっていた。彼女はもうただの少女に過ぎず、神の力は古代言語の詠唱(えいしょう)(もっ)てしても、主に届くことはなかった。失ってしまったのだ。だから、皆が噂していることは本当だった。ただ、それを真実だと知っている人は少ない。

 ――一年以内にあたしは死ぬ。

 それは今すぐのように思えたが、心残りのなくなった彼女にとって、日々泣き暮らして過ごすほどのことではなくなっていた。

 アンブロシアーナは、家族と最後に別れたときのことを思い出していた。父と母、それに兄と妹。彼らのことを思うと、いつでも心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。レイモーンのどこまでも続く草原。吹きつける緑の風の香り。丘陵(きゅうりょう)を越えて疾駆(しっく)する馬の背で見た景色のなんと荘厳(そうごん)だったことか。彼女は無意識に口ずさんでいた。


   夜明けに涙が飛び散って

   わたしは空を見るだろう

   金に輝く太陽を

   赤くたなびく雲の波を


   まだ今日が始まったばかり

   昨日の悲しみが尾をひいて

   わたしの心は灰色だけど

   それでも風は止まらない

   空の色は変わりつづける


   あなたが生まれた日のことを

   絶対に忘れない人がいる

   あなたが生きていることを

   いつでも思っている人がいる

   それだけでいい

   それだけで生きていける


   夜明けに涙が飛び散って

   わたしは空を見るだろう

   あまりに素晴らしい世界を

   はかなく美しい世界を


 アンブロシアーナは暗く沈んだ室内の中、眸の前に広がる草の大地と、静かに(そび)えるテュランノスの山々を思い()がれた。

 ――死んでもあたしはあそこへ帰れない。

 少女神は大聖堂の広い聖墓(せいぼ)埋葬(まいそう)されることになる。たった一人で、いつまでも置き去りにされる。そのとき、隣りに居座っている恐怖が彼女を(さび)しさに(いざな)おうとした。

 アンブロシアーナは振り切るように、大股(おおまた)ですたすたと部屋の中央まで行くと、円卓(テーブル)の上の燭台(しょくだい)(あか)りを(とも)した。蝋燭(ろうそく)(しん)(まぶ)しいばかりの朱色の火を立てて、恐怖を部屋の(すみ)に追いやった。そして、かすかに揺れながら彼女の記憶を開いた。

 暗く深い冥府(めいふ)の底で、あの少年は一人きりだった。かつてタザリア王国の王子だった少年。

 ジューヌは寝台の上で振り返ると、アンブロシアーナに言った。

「ここにいたくない。助けて!!」と。

 彼の(かお)は、アンブロシアーナのよく知るジグリットそのものだった。でも、彼女にはジューヌだとわかった。なぜなら彼は悲痛な表情で、(ほお)は涙に濡れていた。

「あなたはジューヌ王子ですか?」アンブロシアーナは訊ねた。

「そうだ、ぼくはジューヌだ。おまえは誰だ?」

 ジューヌは(おび)えた眸をして、猫ほどの大きさもあるヒヨケムシが辺りを走り回るのを(おそ)れ、寝台から降りることもできないでいる。アンブロシアーナは少年に手を伸ばした。

「わたしは少女神です。あなたを助けたい」

「そうしてくれ」彼は早口にそう言った。そして、彼女の手を力一杯、掴んだ。

 そのとき、アンブロシアーナは周りが急に静かになったのに気づいた。吹き荒れていた時間の風が止まり、周りにいたヒヨケムシ達が動かなくなった。揺らいでいた精神体だったはずの、不完全な自分の躰が、周りの時間に合わせて固定されたことを彼女は知った。

 以前、誕生祭で数世代前の聖黎人(せいれいじん)に会ったことがあるが、そのとき死者である老人は、アンブロシアーナが触れることを許さなかった。それは、死者の世界にある者と、生者の世界にある者との区別のためだと彼は言っていた。

 それが破られたのだ!

 アンブロシアーナはジューヌの手を振り(ほど)こうとした。だが、少年はぎゅっと強く握って離さない。さらに、今までまるで見えないもののように二人に関与しなかったヒヨケムシ達が、急にざわめき立ち、寝台の方へ集まり始めた。

「うわッ! どうしよう」とジューヌが寝台の上に立ち上がった。

 アンブロシアーナも(あわ)てて彼の寝台に乗り、鋏角(きょうかく)を振り上げて近寄って来た一匹を蹴り飛ばした。

「なんなの、こいつら」アンブロシアーナはヒヨケムシが冥府の番人であることは知っていたが、この虫がいきなり攻撃的になった理由がわからなかった。

 ヒヨケムシは薄桃(うすもも)色がかった半透明な躰を寄せ合い、何十匹もぞろぞろと寝台を囲い始めていた。すべての虫が鋏角を振り上げて、それをぶつけ合い、奇妙な音を立てている。

「・・・・・・もしかして」アンブロシアーナは寝台から、自分のやって来た両開きの扉を見た。

 大扉は白く(けむ)った(きり)でできているように、徐々に薄くなり始めていた。

「やっぱり」彼女は言って、寝台から降りようとした。

「ちょっと、どこ行くの? ぼくを一人にしないで」ジューヌが後ろから、アンブロシアーナの服を引っ張る。

「じゃあ一緒に来て」アンブロシアーナが、今度はジューヌを引っ張った。

「ダメだよ。ここから降りたら、やつらに()まれるぞ!」

「本当に死ぬよりマシだわ」

 アンブロシアーナは自分がまだ死んではいないと思っていた。いつでも誕生祭で冥府の死者に会った後、自分はちゃんと元の世界に帰ることができた。それはつまり死んでいるわけではないということだ。だが、扉が消えたら帰る道を失うことになる。それはすなわち、本当の死を意味している。

「ダメだよ」ジューヌは彼女が扉の方へ行くのを許さなかった。「ここから降りないで」

 どうすればいいのかわからなくて、困惑しているアンブロシアーナは、ジューヌの後ろ側の黒い壁が濡れた紙片のように(たわ)んでいるのを見た。その(ゆが)みが大きくなり始め、数分もしない内に壁に破れ目ができた。すると、寝台の下に集まっていたヒヨケムシ達が一斉(いっせい)()き立った。

「見て、ジューヌ」アンブロシアーナが指差し、少年が恐る恐る振り返る。ジューヌはすぐにヒッと短い悲鳴を()らした。

 破れた空間の()け目から、焼け(ただ)れたような黒い頭部がこちら側へと入り込もうとしていた。

屍鬼(グール)ッ!!」アンブロシアーナはそのすぐ横の壁にも、同じような撓みができているのを眸にした。一匹ではないのだ。

「ジューヌ、逃げなきゃ!」引っ張ると、ジューヌは硬直してわなわなと(ひざ)を震わせていた。「何してるの! 逃げなきゃ噛まれるどころじゃないわ!!」

 すでに一匹の屍鬼が空間のこちら側へ躰を(すべ)り込ませていた。黒い躰の全身から、血のような液体が垂れている。腕や足の皮膚は()がれて垂れ下がり、それをずるずると引き()り歩いてくる。躰は人間そのものだが、俯いた頭部に髪はなく、落ち窪んだ眼窩は黒く、生者が持つ生命の輝きはどこにもなかった。

「ジューヌッ!」アンブロシアーナは少年を寝台から突き落とそうとした。しかし、ジューヌは寝台の(きわ)まで来ても、下に落ちずに壁にぶち当たったように(はじ)かれて、また敷布(シーツ)の上に転がった。「どういうこと!?」

「だから言ったろ。ぼくはここから降りられないんだ」ジューヌは泣き出していた。「君のせいだ。君のせいで、屍鬼が来た。ぼくは大人しくしていたのに。君が騒ぐから、番人が屍鬼を呼んだんだ。君のせいで、ぼくは(ひど)い目に()わされる」


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