第一章 孤影開闢(こえいかいびゃく) 1
幼少の頃に受けた疵が私の躰を覆っている。
内にも外にも付けられたそれが、私を強くしたと信じる者は多いだろう。
しかし私は否定する。
人が痛みから学ぶことは一つだけだ。
どうすればこの痛みから逃れられるのか、それだけなのだ。
ジグリット・バルディフ 『回顧録』より
第一章 孤影開闢
超古代文明オグドアス崩壊から時は流れ、バルダ大陸は再び文明開化の兆しを示していた。小国が犇き合うバルダ分裂国家時代が到来し、またその世界は煩雑に姿を変えようとしていた。
バルダに新たな年暦が与えられたのは、およそ二千年前。主、バスカニオンがその地に降臨し、人々の眸を啓いたとされている。民はオグドアスの遺産、魔道具・碑金属、それにエネルギー物質である歪力石によって、自らの知識の与り知らぬ力によって生きていた。
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聖階暦2016年。
山肌に建つ高楼の古鐘が割れた音で盛大に鳴り響くと、街は一斉に時間を止める準備を始めたかのようだった。街の東側、聳え立つ暴君山脈の麓に位置したサンダウ寺院から、街全体に広がる鐘の音は、明時と黄昏を震わせ、人々を鳥たちをそして風や乾いた大地までをも、その音で支配していた。
ここエスタークの街でもっとも高台にあるその寺院から、街の中心部を南北に走る太い大通りを渡って突き当たる西の障壁。細かい石英からなる角岩でできた、一ヤール(およそ一メートル)はあるその厚い石壁に沿って西側一帯に、貧民窟は長く横たわっていた。
様々な有機物の腐敗臭に、時折怒鳴りあう浮浪者たちの濁声、思わず眉をひそめたくなるような陰気な光景に、およそ三百ヤールほどの荒れた長屋が続いていた。どこまでが一軒かわからないほどの継ぎ足しを繰り返したその長屋は、背後の灰白色の石壁を完全に覆い隠し、今はもう上へ伸びるほかなく、すでに街を囲うその壁よりもさらに高く積みあがっていた。
そのうちの特に目立つところもない半ば腐食した木造の四階建て。上段の蝶番が壊れたままの扉を通って、間が幾つも抜けた梯子を三回のぼり、およそ大人の腰の高さまでしかない屋根裏にある、脚が三本折れた寝台の中。薄汚れた布団に潜り込んで丸まっていた彼の耳にも、その荘厳な鐘の音は届いていた。
しかし、彼は少し身じろいだだけで、起きようとはしない。窓のない屋根裏は、すでに薄暗く、板張りの壁の隙間から差し込んだ淡い夕暮れの光だけが、彼の布団に橙色の縞模様を揺らめかせていた。
――夜がやって来る。
彼は布団に潜り込んだまま、ひ弱な掠れきった咳を何度か繰り返し、その身を大きく震わせた。
――寒い。寒すぎる。
布団に入っていても、彼の肩は冷え切り、足先は何度擦り合わせても温かくならなかった。
すでに季節は凍てつく白帝月を過ぎ、雪解けの紫暁月へと移り変わっていた。
しかし、彼の包まっている薄い布団は、まるで厚みのない紙のようにぺらぺらで、ゆっくりと身を起こすと、それははらりと風のように滑り落ちた。そこでジグリットはまた激しく咳き込んだ。
酷い風邪をひいたと気づいたのは、もう五日も前のことだ。喉の奥から抉り出されるようだった咳も、今はもう嗄れた貧相な音しかたてなくなっていた。
いつ腐り落ちてもおかしくない、何本も間の抜けた梯子が立てかけてある、その床板の穴の下から、キャッキャと騒ぐ仲間達の声がしていた。
ジグリットは寝台を降り、まだ眠りの覚めない両目を拳でぐいと拭いた。しかし彼の疲労は重く、乾いた唇からは熱い息が漏れ出た。
――そろそろ仕事に行かないと。
昨日は熱があったので、仕事には出ていない。
――今日はなんとしても行かないと・・・・・・。
ジグリットの頭の中で、今日一日の時間表が徐々に組み立てられていく。
――それに今日はおやっさんに見ヶ〆料を払うことになってたはず。
彼は器用に屋根にぶつからないよう腰を屈めて、床板に開いた階下へ通じる梯子の立てかけてある穴へと這うようにして行った。
「おはよう」と下に向かって声をかける。しかし、その声は空気のように霧散して、自分の耳でも聞き取れなかった。
――あれ? おかしいな。
ジグリットは自分の喉に手を置いて、もう一度声を出してみた。
「おはよう」
しかし、かすかな声にすらならず、吐息だけが口からひゅうひゅうと抑揚のない音で出ただけだった。
――嘘だろ!?
彼は眉を寄せ、目一杯口を開いて「ワッ!」と叫んだ。
ハァッ、と虚しい空気だけが勢いよく吐き出される。
――咳のせいで、喉がやられちまったのか。
そういえば、ここニ、三日の間、咳のしすぎで喉がヒリヒリと痛んでいたが、我慢して喋っていたせいで、酷い声になっていた。
それがまた自分でも驚くほど惨めな老人のような声で、仲間がおもしろがるのに合わせて、わざと酷い声で騒ぎ続けたりした。きっとそのせいだ。
参ったなと思いながらも、ジグリットは昨日まで悩まされていた、熱による頭痛や疲労感が若干薄くなっていたことから、それほど深刻に捉えずに、三人の子供がいる階下を覗きこんだ。
彼らは思い思いにテーブルに着き、昨夜と変わらぬ畦豆のシチューを食べている。まだ幼い少年が二人に、それよりは少し大きい少女が一人。
ジグリットは床板の穴の縁に指先を引っ掛けて、梯子を使わず階下へ飛び降りた。その拍子に着地点になった床板がバシッといまにも抜けそうな音をたてる。
傾いた食台に着いて話をしていた三人のうち、少年の一人がその衝撃に、びくっと背を揺らし、怒った顔で振り向いた。
「ジグ、びっくりするじゃないか!」
まだ六歳のギーブに怒られて、ジグリットは黙って肩を竦めた。ギーブは前歯が一本抜けた、妙におもしろい顔をしているせいで、怒っても迫力がなかった。
「飛び降り禁止だって言ったろ! 床が抜けるから」
ジグリットは長年の癖が抜けず、最近はいつもそのことで彼に叱られていたが、今日も同じように謝ろうとした。
「ごめんごめん、ついうっかりさ」
しかし、声に出したものの、やはり言葉にならずひゅうひゅうと息だけが漏れる。
それを見て、ギーブの向かいにいたもう一人の少年、五歳のベルウッドが首を傾げた。ジグリットの様子がおかしいことに気づいたのだ。
「ジグ? どうかしたの?」
ジグリットは喉を指して、声が出ないことを告げようと首を横に振ったり、肩を落として見せたり、情けない顔をしてみたりした。するとベルウッドの代わりに、シチューを掻きこんでいた八歳の少女ナターシが顔を上げ、先にそのジェスチャーの答えを見つけ出した。
「もしかして、声が出ないの?」
ジグリットは眉を寄せ、コクコクと頷く。すぐに子供たち三人は顔を見合わせ、それから心配そうに、もう一度ジグリットを見た。
三人はずいぶん前からジグリットが風邪をひいていたことを知っていたし、そのせいで彼の酷い咳がずっと続いていることもわかっていた。特に酷いときは、布団の中で寝る間もなく咳き込んでいるときもあった。医者を呼ぼうかと、みんなで相談したぐらいだ。
ゆっくりとナターシが椅子から降りて、ジグリットに近づいてくると、彼の額に手を伸ばした。
「熱はないみたいだけど、まだ寝てた方がいいんじゃないかしら?」
心配そうなナターシに、ジグリットは今度は首を横に振った。彼の認識では、これしきの風邪は病気のうちにも入らなかった。咳のしすぎで声が出ないだけなら、すぐに治るだろう。しかし、ナターシはそう捉えなかった。
「本当に大丈夫なの? やっぱり、お医者様に見せた方がよかったんじゃない?」
ジグリットは急いでまた首を振った。医者に見せるなんてとんでもない。エスタークの街に医者は三人いるが、どいつもこいつも金の亡者で、ちょっと往診しただけでも膨大な値段をふっかけるようなヤツばかりなのだ。
しかも「貧民窟に入るだけでも病気を貰いそうだ」と、街の大部分の人達が言っているのをジグリットは知っていた。そんなところへ往診に来る医者もいなければ、こちらから出向いても診て貰える可能性は低かった。
ジグリットが眩暈を起こしそうなほど懸命に頭を振っているので、ナターシは医者の話をするのを止めた。その間にギーブが席を立って、ジグリットのシチューをよそってくれる。
ジグリットは口先だけ動かして、「テトスとマロシュは?」と姿の見えない少年二人のことを訊ね、部屋の隅の木製バケツの水を掬って顔を洗った。唇を読んだギーブが返答する。
「二人とも、もうとっくに仕事だよ」
それに続いてベルウッドが叫んだ。
「ジグが一番最後!」
――まだサンダウの鐘が鳴ったばかりなのに。
ジグリットはごわごわの粗布で顔を拭きながら、あまり早くから仕事をすると、役人に捕まりやすいことを二人も知っているのにと思った。もしかしたら自分が風邪をひいているせいで、二人は無茶な仕事をしているのかもしれない。
ジグリットがテーブルに着くと、ナターシが自分の皿を片しながら言った。
「あの二人、今日一日でどっちが多く稼ぐか勝負してんのよ」
それを聞いてジグリットはまたかと思った反面、心配の種が増えたことに嘆息した。
「ジグ、二人を見かけたらガツンと叱ってやってよ」
心配そうなナターシに、ジグリットも苦笑いを浮かべながら頷く。しかし声が出ない今、あの生意気盛りな二人の少年に説教できるとは到底思えなかったが。ジグリットは、ギーブが入れた僅かなシチューをゆっくりと食べた。
長く辛い白帝月が終わり、暖かい紫暁月が始まった気配はどこにも感じられなかった。彼らの生活は寒く、侘しいままだった。
ここバルダ大陸では、一年は四つの月に分かれている。暖かい紫暁月・雨季と炎天下の蛍藍月・徐々に風の冷たくなる黄昏月・そして厳しい寒さの白帝月だ。
ひと月は91日と定められ、白帝月の最後の日と紫暁月の初めの日の間に設けられたどの月にも属さない一日は、すべてのバルダの民の祝日で、「数えない日」と呼ばれていた。
東のテュランノス山脈から吹き降ろされる暴風雪はすでに消えていたが、まだ街の舗道脇には残雪があり、太陽の光が当たらない夜は冷え冷えとして、幾つも破れ目のできた衣服の間からすべりこんでは、子供たちを震え上がらせていた。
食べるのに精一杯の今の状況で、新しい服を買うことは、到底無理だった。ジグリットたちは夏場に着る薄い上衣の上に、穴だらけの毛編を着て一年の大半を過ごしていた。そのせいで、彼らは常に順番に風邪をひいているようなものだった。
エスタークの西壁に沿った貧民窟では、人生にあぶれた大人だけではなく、ジグリット達のように親を無くしたり捨てられたりした子供達が寄り添って暮らしている。彼らの主な収入源は街道を抜ける商人や貿易商の荷物を掠め取ること、買い物に出た裕福な夫人のバッグを引ったくること、そして時折は店先の食べ物を頂戴することに終始していた。それ以外に生きる術はなかった。
ジグリットは今年で十歳になったが、その仕事を始めてすでに四年が経っていた。この貧民窟の孤児の中でも、ジグリットは年長に入る。なぜなら、ここタザリア王国では、十二歳から志願すれば兵役に就けるからだ。自分と共に仕事をしていた数人の仲間も、何人かはタザリアの兵になっている。自分も二年したら、そうなるんだとジグリットは何年も前から思っていた。そうすればこんなしけた街とはおさらばして、タザリアの王都であるチョザの兵舎に住むことができる。
エスタークからチョザまでは、35リーグ(およそ168キロ)南下しなければならない。兵士になれば、ちょっとやそっとではこの街には戻って来れないだろう。しかしジグリットは残していく仲間のことも心配していた。自分より下の九歳の少年、テトスとマロシュは仲が悪く、事あるごとにケンカし、役人に捕まったのも一度や二度ではない。その度に殴られ酷い怪我を負って帰ってきて、ジグリットの稼ぎでなんとか全員が凌いでこれたのだ。
二人の下には女の子のナターシ、そしてまだ仕事をするには幼すぎるベルとギーブ。もしかしたら、自分は十二歳になっても、この仕事をしているかもしれないなとジグリットはシチューを口に運びながら、ぼんやり思った。
それが不可能というわけでもない。貧民窟には大人もたくさん暮らしている。大抵がろくな人間ではなかったが、もう少し歳を取れば、街の広場に連なる何軒もの大衆酒場のいずれかで働くこともできるだろう。ただ、ジグリットはそれが自分の将来の姿だと思うと、どうしても陰鬱になるのだった。
水のように薄い豆シチューを喉に流し込み、ジグリットは重い腰を上げた。
――早く行かないと、またあの二人が何かやらかしてないとも限らないよな。
テトスの赤毛のちぢれ髪と、マロシュのみそっ歯を思い浮かべると、ジグリットは生意気盛りの二人を急いで捕まえて、今度こそあの性根を叩きなおしてやらなければと、気を奮い立たせた。
シチューの皿を錆だらけの金桶に突っ込み、二階と三階を繋ぐ梯子が立て掛けてある床の穴へ向かう。背後からベルが「おかわりしていい?」とギーブに訊くのが聞こえた。
「ダメだよ、もう今日の分は食べたろ?」諭すように言うギーブに、ジグリットは振り返った。そして二人の気を引くために、二度手を叩く。
ギーブとベルはその音でジグリットを見た。彼はジェスチャーで、シチューをよそう仕草をして、それをベルに渡すよう告げた。
「ええっ!? ジグ、こいつもう二杯も食ったんだぜ?」
ジグリットは「いいから」と言うように、頷きながら右手で匙を手に食べる仕草をする。しかし、自分の分を食べ終えて皿を洗っていたナターシが濡れた手を上げて叫んだ。
「ジグ、甘やかしちゃダメよ」
ジグリットは三人の顔を順にまじまじと眺めた。ナターシを含め、三人ともが痩せぎすで、腕も脚も筋と骨が浮きあがっている。本来ならふっくらとしていてもおかしくない頬も、ナターシの土気色の顔からは消えてしまっていた。ジグリットはその顔を見るたびに感じる、言い知れない焦燥から目を逸らした。そして、まだ空っぽの下衣の衣嚢を指で抓んで膨らんだように見せた。
「一杯稼ぐから大丈夫だって言うの?」ナターシの言葉に、ジグリットは頷いた。彼女は仕方ないような、諦めにも似た溜め息を漏らし、洗ったばかりの皿にシチューを注いだ。
ジグリットは三人に、出かけることを告げるように手を振ると、梯子の穴から階下に向かって身を躍らせた。
「コラッ、ジグ!」穴の上からギーブが叫ぶ。「床が抜けるからジャンプはダメだってば!」
ジグリットはそれを背にして、また手のひらをひらりと上げてその場を離れた。
――おやっさんには、今月の見ヶ〆料、半額待ってもらえるよう頼むしかないか。
それがどんなに難しいことかはよく承知していたが、それよりも今日中にその中年の警吏が言うような七万ルバント(通貨単位)を用意することの方がより難しかった。
テトスとマロシュの寝台の横を通り、一階への梯子をまた飛び降りる。
すでに何度か抜けた一階の床板は、ここだけ厚みのある板で頑丈に補修されていたが、それでもジグリットの体重を支えた瞬間、ミシッと危うげな音をたてた。
校正が入る前の段階の原稿なので、誤字脱字その他、あると思います。
おいおい直します。でもルビを入れるだけで、へこたれました。ルビ・・・多すぎる・・・。