5-2
言葉を失っていたリネアだが、少女が短剣を構え直し、刃を胸の中央に押し当ててきたので、我に返った。
「この子が何をしたのか知らないけど、わたくしの前で血を流すなんて許さないわよ」リネアは毅然と命じた。
しかし少女は短剣を退かず、「あたしは本気よ」とさらに強く刃を押しつけてきた。
「リ、リネア様・・・・・・」背後でアウラの震える声がした。
――まったく役に立たない侍女だわ。
リネアは苛立ちながらも、努めて冷静に少女に話しかけた。
「とにかく落ち着いてちょうだい。話を聞くわ。それからこの子に刃を向けても遅くはないでしょう」
仮面の少女は剣を退き、それから飛ぶようにリネアから適度な距離まで素早く離れた。それでも短剣は握り締めたままだ。
リネアはへたり込んでいたアウラに手を貸し立たせると、真っ青になっている彼女を手近な椅子に座らせた。
再び少女に眸を向けると、リネアは言った。
「あなたは誰なの?」
少女は身動きせず、口だけを動かした。「あたしはナターシ。エスタークから来た」
「・・・・・・エスターク?」それはリネアには忌まわしい街の名前だった。ジグリットを思い出させる。
――部屋にいたくないからここへ来たのに、またジグリットだわ。
しかしそんなリネアに気づかず、少女は話し続けた。
「その女は四年半前、あたしの家族を殺して、家に火を点けた」
「そうなの、アウラ?」驚いたようにリネアは振り返り、侍女に訊ねた。
「・・・・・・」アウラは両手を白くなるほど握り締めている。
「あたしには復讐する権利がある。そうでしょう」少女の怒りはいまだに殺気を伴っている。
炎のように危険な子だわ、とリネアは内心楽しくなって笑うのを堪えた。そして、その怒りを往なすように困惑の表情で答えた。
「さあ、どうかしら? わたくしにはこの子がそんなことをする理由がわからないわ」
「ジグリットの命令よ!」少女は再び叫んだ。「そいつはジグリットの命令で、あたしの家族だった仲間を殺した。そしてあたしの顔をこんなにした」そう言って、少女は仮面を取り払った。そこには醜悪なまでに灼け爛れた瘢痕状の貌が現れた。
背後の椅子でアウラが低い悲鳴を漏らした。しかしリネアは、その貌よりも彼女の言った名に心を奪われた。
「ジグリット? そう言ったの?」
リネアの問いに少女は頷いた。
「ええ。彼はここにいるの? いるなら出して」
リネアの中で少女とジグリットが繋がり、そして衝撃と苛立ちの狭間でそれらは別のものへと昇華された。ナターシの憎しみは誤解によるものだ。ジグリットがエスタークの火事を引き起こしたと彼女は思っているのだ。
――おもしろいわ。
――とてもおもしろいことが起こっている。
リネアは短剣を手にしているナターシにゆっくり近づいて行った。
「残念ね、ナターシ。ジグリットは数日前にここを出て行ったわ」
憐れんだようにリネアが言うと、ナターシは憎悪を纏った低い声で吐き捨てた。
「やっぱり生きていたのね」
ナターシがどこでジグリットが生きていることを知ったにしろ、ここまで辿り着いた執念は並々ならぬものだろう。憎しみが彼女を動かしているのだ。
リネアはナターシの可哀相な半面にそっと手を伸ばした。
「ジグリットがわたくしの侍女に命じて、あなたの家族を殺したなんて・・・・・・。復讐したいと言う気持ちは当然よ」リネアの言葉に、アウラが恐ろしさで息を吸い込むのが聴こえた。
「彼はどこに行ったの?」ナターシは頬に触れているリネアの手を無視していた。いつもなら誰にも触れさせたりしなかったが、ジグリットへの怒りが、すべてを取るに足らないことだと思わせていた。
「・・・話せば長くなるわ。よくって?」リネアは微笑み、ナターシを部屋の中央の円卓へと導いた。彼女はされるがまま、円卓に着くと、リネアの話を黙って聞き始めた。
しばらくして、ナターシはリネアが言葉を切ると、身を乗り出して訊ねた。
「あいつ・・・王子を殺したの!?」
リネアの語ったあまりの内容に、ナターシはそれが自分の知っていたはずのジグリットではないのではないかと疑ったほどだった。しかしリネアは眸を伏せてうなだれた。
「そう。そしてわたくしの弟に成りすましていたのよ」
「信じらんない」ナターシは愕然としながら、その話を聞けば聞くほど、ジグリットが自分を殺そうとしたのが当然に思えて、恐ろしさに身を震わせた。それほどまでに権力を欲するとは、彼女の知っていたはずのジグリットはやはりもうどこにもいないのだ。
今までは半信半疑だったところもあった。自分達を襲った女――奥の椅子にかけているアウラという侍女――の口から聞いただけでは何かの間違いか、女が嘘をついているとも思えたからだ。
衝撃を受けているナターシが落ち着くのを待って、リネアは言った。「今、ジグリットがどこにいるのか、わたくし達も捜しているところなの」彼女はジグリットをようやくタザリアの崩壊と共に捕らえたものの、逃げられてしまったことを告げ、悲嘆に暮れた表情で続けた。「彼を野放しにしておくと、とても危険だわ。そこであなたに頼みがあるの、ナターシ」
「何ですか?」ナターシはもう先ほどまでのように、眸をぎらつかせてはいなかった。彼女の中の獣は鎮まり、今はリネアの不安を映し取ったような顔をしていた。
「わたくしの追跡班と共に、彼を追ってみない?」リネアはようやく本題に入った。
「あたしが、皇妃様の下で?」
ナターシは驚いている。それも当然だ。だが、リネアは軽く頷いて見せた。
「わたくしは彼を連れ戻したいと思っているの」
「ですが、皇妃様、あたしは・・・・・・駄目です」ナターシは膝に置いた自分の手を見つめている。
「なぜ?」とリネアが訊ねる。
二人の眸は、ナターシの膝にある短剣に注がれていた。それは安っぽい鋼で鍛造されていて、鈍い光を放っていた。
「あたしはジグリットを殺したいんです。ジグリットにあたしや仲間が味わった苦痛を味わわせたいんです」ナターシは憎しみの篭った掠れた声で言った。
「復讐は殺す以外でも果たせるんじゃないかしら? ジグリットに本当に苦痛を味わわせたいのなら、生かしておかなくては意味がないわ。死んでしまったら彼は後悔も反省もしないのよ」
「・・・・・・それはそうかもしれませんけど」
苦悶しているナターシに、リネアは別の案を提示した。
「いいわ、じゃあこうしましょう。もしあなたが一番にジグリットを見つけたら、好きにして構わない。でも追跡班の別の者が見つけたときは、あなたも彼を連れてここに戻るの。もちろん、ジグリットを殺さずに。あなたにとっては、悪くない話よ。あなたが一人で捜すより、はるかに早く彼を見つけられるはず。その間、当面の資金もこちらで用意するわ」
ナターシはそれでもしばらく思い悩んでいたが、決意したように顔を上げた。「わかりました」そして持っていた短剣を、右腰の帯に挟んであった鞘に戻した。それはカチリと小気味よい音を立てて室内に安全を告げた。
「よかった。協力し合ってジグリットを見つけましょうね」リネアが微笑んで言うと、ナターシは鋭い眸をして、一度大きく頷いた。
ナターシは復讐を果たすためなら、野良から飼われる存在となっても構わなかった。どんなものでも利用して、最終的にヤツに届けばいいのだ。この牙が――。
恐ろしい殺人者を血で染め、失われた命の分を冥府の底で味わわせるためだけに、自分は存在している。その他には何一つ、大切なものはなかった。すべてあの日に燃え尽きてしまったのだから。
ナターシは、この日からフランチェサイズを思い出すことをやめた。バルメトラも、南風舞踏座も、ジャサスも、この感情の前には、すべて背後に遠ざかってしまった。
道は前にしか続いていない。それは必ず、ジグリットの許へ至る道だと、彼女は確信していた。