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ノナは大きく首を横に振った。彼女はもう眠りたかった。こんな時間に起きていたことを魔道具使いの師であるツザーに知られたら、怒られるのは自分なのだ。そのことを義姉はまるで考えていないようだ。
「やっぱりみえないわ」ノナは真紅の眸を瞬かせ、「みえないのよ」と再度強く、不機嫌に言った。
それに対して、リネアが口にしたのは、また同じ疑問だった。
「なぜ!? どうして覗けないのよ!」
その言葉をもう何度聞いたか知れない。ノナはうんざりして、眸の前の光景に意識を向けた。眸の前に広がるのは真っ白な霧でできた壁だ。いつもはその白い世界を透かして見ることができる、遠い別の地の誰かの姿が、今は遮られているせいで、まったく見えなかった。
ノナはリネアに協力するつもりだった。もちろん本心からだ。兄のアリッキーノにリネアが近づかないというのなら、ノナはどんなことでもしてあげたかった。
――でも、これはむりなんだわ。
どういう魔道具を使えば、視跡の力を遮断できるか知れないけれど、間違いなくジグリットはノナの力から逃れるために何かをした、もしくはしているのだ。
ノナはちくりと肺が刺されたように痛んで、浅い呼吸を何度か口から吐き出した。ここ数日の内に、何度も視跡の力を使ってしまった。おかげで彼女の躰は、重度の貧血状態だった。ツザーが言うように、心臓が弱っているのかもしれない。
――ジグリットなんかにかまけていたら、もっとからだをわるくするかも。
ノナは後悔していた。リネアのジグリットに対する執着は普通ではない。これに関わるべきではなかったのだ。たとえ兄のためだったとしても。
「ちゃんとあの囚人を見ようとしているの? ノナ!」リネアが叱責する。
ノナは口を尖らせ、不承不承に頷いた。「しているわ。でもみえないのよ」
ジグリットが視跡の力を遮るのなら、サジハッサを視ようとすればいいと言い出したのはリネアだ。それは上手くいきそうだった。サジハッサが血の城から帝都へ、そして街道を行くのがノナにも見えていた。だが、彼が出発して二日後、急にまた何も視えなくなってしまった。
サジハッサがジグリットと接触したからだろう。そして次の日、またサジハッサが一人だけチョザの方角へ街道を進むのが視えるようになった。サジハッサはジグリットを捕獲するのに失敗したのだ。
ノナにはもう途中から、ジグリットのことなどどうでもよくなっていた。彼女はサジハッサに興味があった。彼に仕込んだ蛇の卵が孵るところを見たくて堪らなかった。十日以内にサジハッサがジグリットを連れて戻って来れば、自分の目の前でその光景が見られるはずだったのだ。
――なのに・・・・・・。
サジハッサが丸薬だと信じて飲んだ蛇の卵が孵るはずの今日になっても、男は血の城に戻って来なかった。
――がっかり。なんのためにあれをつかったのかわからないじゃない。
宿主の躰を喰い破って出て来る蛇の子を、ノナは期待していたのだ。自分が見ていない間に、その見世物は終わってしまったかもしれない。
しかしそれを知らないリネアは、ジグリットのことでまだ意気消沈していた。
「あの囚人の毒は十日後に効いてくるんでしょう」リネアはまだそう信じていた。「抗毒素を取りに戻らなかったということは、もう彼は死んでしまったわね。別の者にジグリットを追わせるしかなさそうだわ」
ノナは視跡の力を閉ざし、血のように赤かった眸を、元に戻し始めていた。
「別の人間に追わせても、ジグリットに近づいた途端、あなたの力は使えなくなるってことがわかっただけでもよかったのかもしれないわね」リネアが腕を組み言った。
「そうね。よっぽどつよいまどうぐでまもられているか、もしくはまぐとぅーるがそばにいるのかも」ノナは白い部分の戻った眸が正常に働いていることを確かめ、それから紫檀の机に乗っていた八本足の蜥蜴の人形を手に取った。「おねえさま、もうそろそろおそいから、わたしはねます」
ノナが長椅子から立ち上がると、リネアも促されるように立った。
「長居してしまったわね」窓際に置かれた時間を示す魔道具が、すでに夜更けだと告げている。リネアは義妹に微笑んだ。「ノナ、本当にありがとう。あなたに無理をさせたけれど、もうこんなことはしないと約束するわ」
そうしてもらわなくては困る。ノナは疲労から笑みを返すことしかしなかった。
「おやすみなさい、ノナ」リネアが言って部屋を出て行く。彼女が扉を開けたとき、外の廊下に吊り眸の意地悪そうな顔をした侍女が立っているのが、ノナにも見えた。何時間あの侍女はそこに立っていたのだろう、とノナはぼんやり思った。それほどリネアは部屋に長く居座っていたのだ。
扉が閉まる直前、ノナにもリネアが侍女に言うのが聞こえた。はっきりとした声で、義姉は侍女に断言した。「諦めないわ」と。そして部屋は本当に静かになった。
ノナは自分の練成人形を強く抱き締めた。その蜥蜴は裏声でリネアの言葉の続きを囁く。
「――ずっと隠れていることなんて不可能よ。ジグリット、どこにいようと捕まえるわ」
それを聞いたノナは、蜥蜴とくすくす笑いながら、寝室へと向かった。まだしばらくは、リネアはジグリットを追いかけるだろう。彼が死ぬまでかもしれないし、あと一月かもしれない。その間、自分はジグリットに執拗に捕らわれているリネアを、視跡の力で覗き見て楽しめばいい。
そのためには、少し休息が必要だ。この小さな躰は弱く、壊れやすい。ノナは寝台に上がり、蜥蜴のドゥエちゃんを枕元に置くと、すぐに紅玉のような眸を閉じた。




