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血の城を出てから、どれだけ経ったのか、サジハッサは覚えていなかった。彼は何かを覚えておくことが、苦手だった。アスキア侵攻のときに頭を強く殴られたせいだ。だが、まだ血の城で偉そうなタザリアの女が言ったことは、忘れていなかった。
――小僧を連れて戻る。それで、おれは自由だ。
――毒。毒が躰にある。だから小僧を連れて戻る。
サジハッサは自分が不死身だと思っていたが、タザリアの女が自由と引き換えにジグリットを連れて戻ることを命じ、彼が命令を反故にして勝手に逃げないように毒を飲ませたとき、思い出したのだ。
自分は不死身だが、腕を切られれば血が出る。毒も同じで、躰の中で溶け出してしまえば、それは体内を巡るだろう。それが自分にどんな影響を齎すのか、サジハッサにもわからなかった。毒のせいで、不死身ではあっても、躰が動かなくなってしまうかもしれない。
それに、ジグリットを捕まえて城に戻すぐらい、訳ないことと彼は思っていた。ジグリットに首に縄を掛けられ、馬に引き摺られるまでは、だが。サジハッサはいまや、ジグリットを連れ戻すことより、やられた分を返すことに執着していた。
町の中でジグリットを捜して走り回ってみたが、途中でどこに行ったかわからなくなり、サジハッサは今度はブザンソンを追った。馬屋でジグリットが逃げた後、長身の商人は剣を抜こうとしたが、サジハッサはわざと油断したように装い、逃げたヤツを放っておいたのだ。背の高い商人は格好の標的になる。とっ捕まえて、ジグリットを誘き出そうと思った。
しかし、ブザンソンも途中で壁にでも潜ったかのように、消えてしまった。サジハッサは何周か町を走り回った後、町の入口に行き、そこからやつらが逃げようとするだろうと思い、見張っていた。やつらはこれまでずっと道を南東に行っている。
しばらく長方形の大きな切石が左右に二本立った町の入口で、佇んでいたが、幾ら待っても二人は来ず、サジハッサはもう二人とも町から出たのかもしれないと思い始めた。だが、商人は馬に乗っていなかった。ジグリットの馬は小柄で、二人も乗せて走ることはできないはずだ。
サジハッサは苛々と、その場を歩き回った。それから腹立ちまぎれに、旧道を挟んで向かいに見えていた川に近づいて行った。顔でも洗って、この働きの悪い頭をすっきりさせようと思ったのだ。
そのとき、サジハッサの眸に錆色の小さな頭が、ひょこひょこと旧道下の川べりを歩いて行くのが映った。
「・・・・・・!」サジハッサは丸めていた肩を広げ、喜びに飛び上がりそうになったが、ぐっと堪えた。「見つけたぞ」彼は滅多にない小声で自分に言った。
今度こそ逃がすわけにはいかない。小僧を捕まえて、よくも首をへし折ろうとしやがったなと脅しつけながら、ヤツの小さな首にも縄を掛けてやるのだ。そして、あの小柄な荷馬に曳かせてやろう。想像して、サジハッサは鼻息でふっふっと嘲笑った。
「町の外に逃げたはいいが、遠くまで行けずに隠れてやがったな」
そろりそろりと近づいて行く。背中の短槍に手をかけながら、サジハッサは注意深く辺りを見回した。人の姿はなく、絶好の機会だ。
二ヤールほどの低い崖の下を、ジグリットは歩き難そうに右手へ遠ざかって行く。それを追って、サジハッサは旧道から川べりへ飛び降りた。途端、足がずぶっと水気の多い湿地に埋もれた。同時に、ジグリットが振り返り、零れ落ちんばかりに大きく眸を見開いた。
「・・・サジハッサ!?」ジグリットはすぐに前を向き直し、金属棒を使って逃げようとする。
我慢できずに、サジハッサは笑いを漏らした。あの足ではまともに逃げられるわけがない。再度辺りを見回してみたが、あのひょろ長い男はいないようだし、鼠を捕まえるより簡単にいきそうだ。
サジハッサは走って追いかけようとしたが、湿地に自生している蔓植物が足にまとわりつく。短槍を抜き、強引に蔓を引き千切りながら、サジハッサはジグリットを追った。
むかつく小僧は二十ヤールほど先を、えっちらおっちら歩いている。見てくれは必死だったが、あれでは瀕死の鼠より遅いだろう。
サジハッサは頬を緩ませ、泥に埋もれた足を引き摺り出しながら、ジグリットの何倍もの速度で追いかけた。あっという間に距離が狭まっていく。手にしている短槍が、ジグリットの背に投げ刺すことができる範囲にまで来る。
だが、そこで急にジグリットは崖の方へ向きを変えた。片足で上ることはできないだろうと、サジハッサも眸をやった。すると、ジグリットは蔓を手で掻き分け、崖の斜面に開いた穴に入って行った。
慌ててサジハッサも駆け寄り、その蔓の覆いを短槍で払い落とした。穴の奥は深いのか、朝の陽光のせいで、サジハッサにもよく見えない。狂騎士は短槍を手に、穴の中へ入った。湿地の泥土よりも、歩きやすい。腰を屈めて進んで行くと、すっかり暗くなり、サジハッサの眸は獣のように素早く闇に慣れた。
そんなに深くはなかった。せいぜい行き止まりまでは五ヤールほどだ。ジグリットは突き当たりにいて、サジハッサの方を向いていた。へっへっと笑い声が漏れる。ジグリットの表情は硬く、緊張と怯えに杖にしていた金属棒をぎゅっと胸に抱いている。
サジハッサは穴ぐらに飛び込んだ鼠に、同情の言葉を投げかけようとした。その直後、ジグリットは自分の頭上を金属棒で強く叩いた。途端に、サジハッサの真上から、何やら不気味な轟音がした。
狂騎士は眸を上げ、自分の上に多量の土砂が降りかかるのを見た。口の中にまで土が押し寄せてくる。土の重みに耐えきれず、サジハッサは押し潰された。次々に土が躰を覆っていく。腕も足も土に固定され、動かすことができない。
サジハッサの脳裏に、血の城の無情な檻が甦った。男は絶叫しようとした。だが、口にはすでに叫喚が通る隙間さえ開いていなかった。




