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それから二回の季節が巡り、ジグリットは十二歳になった。特別変わったことはなかった。タザリア王国は二年の間、どの国とも戦争をせず、タザリア王の采配によって、他国との同盟や協定がそういったものを完全に遠ざけていた。しかしバルダ大陸全体は、依然として緊張状態にあった。
西側のゲルシュタイン帝国が何度か、さらに西に位置する山岳の小国アスキアに攻め入ったり、テュランノス山脈を越えた渓谷にある、ナフタバンナ王国とウァッリス公国が短い戦闘を繰り返したりしていた。
しかし今のところ、戦渦はタザリアに大した影響を与えなかった。国民は平穏な暮らしに慣れ、王でさえ、月に何度もチョザ近辺の林へ狩りに出かけるほどだった。
ジグリットはその狩りに、初めて連れて行ってもらえることになった。本来なら、王子であるジューヌが行くはずだったのだが、彼は二年の間にさらに繊弱になってしまい、今はほとんど自分の寝室にこもった切りだった。
王が何度かジューヌに王子としての自覚について話し、彼を部屋から出そうと試みたが、どれも失敗に終わった。ジューヌが怯えきっている原因をジグリットは知っていた。しかし誰にも言わなかった。もちろん自分のことも、誰にも言わなかった。
「イワシャコ(キジ科の鳥。40センチぐらい)を捕って帰ると料理長に約束したんだ。皆、協力してくれよ」
タザリア王、クレイトスは上機嫌だった。それもそのはずで、朝からもう野兎と鶉を何羽も捕まえていた。ジグリットは王に微笑を向け、頷いた。
ジグリットの他には、タスティン王子も一緒だった。彼は王より先に馬を走らせて、今は林のどこにも姿が見えなかった。王の側には炎帝騎士団の騎士二人と、近衛隊の隊員一人がぴったりと付き添っている。そして三匹の猟犬が馬の脚の周りをぐるぐると落ち着かなげに回っていた。
「それにしても、タスティンはどこへ行ったんだ? あんなに遠くまで行くなよと言っておいたのに、困ったヤツだ」
王の言葉に、騎士が相槌を打つ。
「そうですね、かれこれ一時間は姿を見ていません。捜して来ましょうか」
「そうだな。二人ほど捜しに行ってくれるか?」
騎士二人が西と東に分かれて馬を走らせ、杉の木立に消えた。ジグリットはふいに生温い風を感じ、空を見上げた。雲の流れが速い。
器用に馬上で鞍袋から黒板を取り出し、手綱を腕に絡めると、ジグリットは文字を書いて王に見せた。
[わたしも捜しに行ってきます]
王は顔をしかめた。
「いや、その必要はない。二人がすぐに見つけ出し連れて来るだろう」
ジグリットは黒板を消し、新たに書き直した。
[もうすぐ雨が降ってきます。そうなると、さらに視界が悪くなるでしょう]
王はそれを読み、空を見上げた。
「なるほど。曇ってきたか。わかった。おまえも行って捜して来てよい。ただし、深くまで入り込むな。皆が迷ってしまっては元も子もない」
ジグリットは頷き、黒板を馬の鞍に括りつけた革の袋に仕舞うと、慣れた手つきで手綱を握り、栗毛の優しい眸をした馬を進ませた。杉の間を抜け、並足から徐々にだく足へと変えていく。
王はジグリットが行ってしまうと、残った近衛隊の隊員に言った。
「まるであの子はわたしの若い頃のようだ」
「陛下はまだお若いですよ」
王は首を振った。
「いや、そういう意味ではない。あの子が本当に私の息子だったらと・・・・・・そういう事だよ」
若い隊員は返事に困り黙ってしまった。王は扱いづらい実子のジューヌにほとほと手を焼いていた。しかし、だからといって嫡男は彼一人だ。タスティン王子は第二夫人の子であり、さらにジグリットはただの他人だった。それも、いまや王でさえジューヌと間違えてしまいそうなほどに、そっくりに成長した他人だった。
その錆色の髪と瞳は、タザリア家の一員である証であり、ジューヌの日々怯えた表情とは違い、ジグリットは快活で健康そのものといった少年だった。それが王には、在りし日の自分と重なり、さらにジグリットの聡明なところを見せ付けられると、彼はやるせない気持ちになった。
ジグリットを見るたび、王は自分の過去の記憶を手繰り寄せ、本当に我が子ではないのかと自問自答を繰り返したが、その可能性はなかった。彼は確かに女が好きだったが、それは普通の男並みの話で、ジグリットが赤ん坊の時にエスタークに捨てられていたという話を聞いても、何ら思い当たる節がなかったのだ。
タザリアの王としてクレイトスは、このままではジューヌに王位を譲ることはできないと真剣に悩み始めていた。空は澱み、雨の気配がさらに濃くなっている。行く手の木立が薄暗くなっていくのを、王は焦燥感を抱きながら、息子達が帰ってくるのを待っていた。
ジグリットはそんな事とは露知らず、タスティン王子を捜すため、森の北側を捜索していた。頬を撫でる風は湿気を帯び、いつ降りだしてもおかしくない。頭上を見上げると木々に囲まれた小さな空に、黒雲がかかり始めるのが見えた。
声を出してタスティンを呼べないジグリットは、手綱を引いて足を緩め、慎重に辺りを見回した。周りのシダの茂みに馬を進めようとすると、栗毛は頭を振って嫌がった。
――なんだ、どうして先に進まないんだ?
ジグリットは優しく首を叩いて促すが、栗毛はその場で足踏みを繰り返し、首を振り立てる。仕方なしにその場で馬から降り、自分の足で進むと、栗毛は急にジグリットの薄墨色の外衣に噛みついた。
――何するんだ、こいつ。
振り返り、馬を睨もうとしたジグリットの視線に何かが映った。再度首を回し、ジグリットは僅か二ヤール先に生えているシダを見た。
――あのシダ・・・・・・もしかして・・・。
足元をよく見ると、自分より先に誰かが草を踏んだ跡が残っている。ジグリットは栗毛から外衣を取り返し、馬を近くの木に括りつけると、シダの方へ近づいた。
――やっぱり、犬羊歯だ。
その植物は本来、岩の間や崖に生えるシダで、他の場所に生えているものとは種類が違っている。ジグリットはゆっくりと犬羊歯に近づき、腰を屈めて先を見据えた。
――崖かっ!
下草に覆われてわからなくなっていたが、足の先は二十ヤール下までほぼ直角に落ち込んでいた。這って行き、縁から下を覗く。
――落ちたらひとたまりもないな。
そう思った瞬間、真下に馬が見えた。横倒しになり、首があり得ない方へ曲がってしまっている。
――乗っていた人は!?
ジグリットはさらに身を乗り出した。すると、薄黄色の外衣の端が目に入り、ジグリットは思わず躰を起こした。
――まさか・・・・・・どうしよう・・・・・・。
間違うはずがない。タスティンの外衣だ。
――死んでいるのか?
人を呼びに行こうかと思ったが、もしまだ息があるなら、下に降りて助けた方がいいだろう。迷っていると、杉の幹に括られていた馬が、ぶるるっと一啼きした。
ジグリットは馬の側に行って、栗毛の横腹を叩いた。馬は黒い濡れた眸でジグリットを見つめている。
――コイツに託すか。
ジグリットは鞍袋から黒板を出して、そこにタスティン王子を発見した事と、大体の位置を書き込んだ。そしてまた鞍袋に戻し、馬の轡を外すと、栗毛はしばらく立っていたが、ジグリットが手で「行け」と合図するやいなや駆け出し、あっという間に木々の間に見えなくなった。
――途中で陛下に会うか、悪くてもちゃんと王宮へ戻ってくれれば・・・・・・。
それからジグリットは外した轡を持って、崖の方へ行った。ぽつぽつと水滴がジグリットの手や頬を打つ。雨が降ってきたのだ。それに構わず、ジグリットは一番斜面の緩そうな、降りられそうな場所を探した。しかし、そこも下までは十五ヤールはありそうだった。
持っていた轡から手綱の縄を外し、次に辺りのシダを掻き集める。縄でそれらを一まとめに括ると、ジグリットはシダの柔らかい葉の上を手で押してみた。
――あまり頼りにならなさそうだが、仕方ない。
崖の端まで行くと頭上の木立が切れ、雨が強くジグリットを打った。崖の下にいるタスティンの姿はその場所からよく見えた。彼は気絶しているか、もしくは動けないようだった。それ以上のことをジグリットは考えなかった。
シダの束を地面に置き、そこに座る。感触は悪くない。問題は強度だ。しかし、怖いと感じる隙を自分に与える間もなく、ジグリットは足を蹴って、断崖へ突撃した。恐れは考え始めた時に生まれることを、彼は知っていた。その時の心境が、エスタークにいた頃、盗みがバレて警吏に追いかけられた時とよく似ていたからだった。