第七章 惣暗(つつくら)に潜むもの
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アジェンタの農家を出てから、ジグリット達は旧道をカミース川沿いに南下していた。昼前には数えられるほどの同じような農家が集まった小さな村を通り過ぎ、ブザンソンが言うには、そろそろ川沿いの町に着く予定だった。
ジグリットは荷馬車から一人で馬に乗ることができ、嬉しさ半分、不安半分といったところだった。荷台にいるのが退屈で堪らなかったので、馬に一人で乗れると本当に嬉しかったのだ。だが、不安なのは一人で乗り降りができないことにあった。
ブザンソンがさっさと先に、曲がり道を行ってしまう。ジグリットは乗っている荷馬に、もう少し肢を速めるよう手綱を緩めて指示した。馬は上り坂を軽快に進んでいく。
だが、そのとき向かいから藁を積んだ荷馬車が、坂道をつんのめるように下ってきた。慌てて避けたジグリットの馬は、強引に押し退けられて、川べりの幅の狭い湿地によろよろと入り込んでしまった。そのまま荷馬車はすさまじい車輪の音をさせながら、過ぎ去って行く。ジグリットの馬は、泥とその上を覆っている蔓植物の大群に肢を取られて、右に左にと首を振り立てた。
「大丈夫だ、しっかりしろ」ジグリットは馬を安心させるため、声をかけながら、なんとか元いた道に戻ろうした。そう泥の層は深くはないようだし、蔓植物は茎が細い。引き千切って進めるだろう。
馬の肢はゆっくりだが、柔らかそうな蔓を巻きつけたまま、泥から抜け出て、また埋没するを繰り返し、進み始めた。ふと、ジグリットは真横の低い崖に洞が開いているのを見つけた。そこは湿地の川べりと旧道の森の境で、蔓植物に覆われていて見え難かったのだが、確かに大きな洞が開いていた。川の水に侵食され、土中の大きな岩が転がり出た跡かもしれない。
少し不気味なその洞を、ジグリットは馬が真横を通ったので、蔓を退けて覗き込んで見た。ちょうど洞穴の縁を這っていた一匹の馬陸が、その衝撃でぽとりと下に落ちた。ぎょっとして躰を反らせたとき、ブザンソンが戻って来てジグリットを呼んだ。
「おい、チョマッ! そんなとこで何遊んでんだ!!」
ジグリットはブザンソンに手伝ってもらい、旧道へと上がった。
「川で遊ぶ年頃か?」ブザンソンは泥だらけの馬の肢を見て言った。
「そんなんじゃない。荷馬車にぶつかりそうになって・・・・・・」
ジグリットが説明しようとすると、ブザンソンはそれを遮った。
「それで川に落ちたってのか? どん臭ぇヤツだなぁ」
「・・・・・・」ジグリットはむっとして、黙って先に馬を歩き出させた。
そこから町までは、すぐだった。町といっても三十軒ほどの家が、まばらに建っているだけで、一番太い通りでも、馬車二台がすれ違うのがやっとの幅だった。町の入口の立て看板には、ホーライと名前が刻まれていた。
ブザンソンは勝手知ったる場所といった様子で、一軒しかない旅亭に飛び込むと、泊まりの予約を入れ、すぐに出てきて、次は薬種商の店にジグリットを馬に乗せたまま、連れて行った。農家でアジェンタに薬草を分けてもらっていたジグリットは、それほど入用の物はなかったが、ブザンソンは買う物を品定めし、値切りながら色々と買っていた。
薬種商が扱っているのは薬だけではない。砂糖に蝋、香辛料から香草の類、染物に使う染料や、壁面を塗る顔料など、壷やすり鉢に入ってずらりと並んだものを、天秤で量り売りしているのだ。町の何でも屋といったところだ。
それから、ブザンソンが乾燥果実や木の実を売る店に連れて行ってくれたので、ジグリットも焼き栗と桑苺を買ってもらった。旅亭に戻ると、ようやくジグリットは馬から降り、機嫌の良いブザンソンが背負ってくれたので、まったく足を使わずに部屋に入ることができた。
長く楽しい夕食を過ごした後、二人は溜まっていた疲労から解放されたように、朝までぐっすりと眠りについた。
朝から二人は、質素だが量だけはあった朝食を食べ、すぐに出発することにしていたので、ジグリットは先に馬屋へ、ブザンソンは勘定の支払いに旅亭の食堂に残っていた。
「おやじ、昨夜の杜松酒は最高だったな。勘定のついでに、土産に何本か貰えるか?」ブザンソンがなめし革の袋から、ルバント金貨を取り出すと、旅亭の主人は愛想たっぷりに頷いた。
「おお、うちのかみさんの酒は絶品だろう。五本でどうだい?」
「ああ、それでいい。じゃあ、達者でな」ブザンソンが金を渡して、馬屋に近い勝手口から出て行く。
主人が貰った金を仕舞いに行こうとしたところ、男が表扉から入って来た。
「朝飯かい?」声をかけたが、薄汚れた身なりの男は俯いたまま、食堂の一席に座った。
これまた人好きしない男が来たもんだと、主人はそそくさと厨房へ引っ込んだ。朝食を出して、さっさと引き揚げてもらうに限る。
男は頭を盛大に掻き毟った。蚤が数匹、机の下に転げ落ちる。食堂の机に着いたサジハッサは、数日森の中をうろついたせいで、ろくに寝ていなかった。不死身のはずの自分が、なぜ眠気に襲われるのか、食欲旺盛なのか、さっぱりわからないが、死なないだけで、他の機能はまともなのかもしれない。
サジハッサは荷馬車を襲って、騙されたと気づいてから、誰一人として殺していなかった。最早そんな気分ではなかった。この腹立ちを最初にやつらに返さなければ、何をしても満足を得ることができないと思ったからだ。
眠気と苛々に神経質になっているサジハッサは、旅亭の給仕が水を持ってくる前に、食べ物の匂いに混じって、嗅いだことのある妙な生々しさに記憶が甦るのを感じた。これは、血の臭いだ。そう察知した瞬間、男は椅子を撥ね飛ばして立ち上がった。
「いたぞ」サジハッサは、凶悪な面で笑った。
そして数人の客と給仕の女が茫然としている中、旅亭を飛び出して行った。