6-2
翌日、ジグリットはアジェンタの家の倒れていた柵の一部を直していた。眸が覚めると、太陽が高く昇っていて、ブザンソンはとっくに起き、家の裏手で薪を割っていた。申し訳なさそうに起きてきたジグリットに、アジェンタはたっぷりの朝食を用意し、替えるついでにと二重にした包帯の間に彼女が摘んで来た薬草を挟み込んでくれた。
「次はどこ行くんだい?」外で柵同士を紐で括りつけていたジグリットの許に、アジェンタが来て言った。
「チョザです」
「ああ、チョザってぇと、タザリアかぁ。止めときな止めときな」アジェンタは渋い表情になった。
「なぜですか?」
「うちに牛乳売りに来る子が言ってたんだよ。帝国がタザリアを滅ぼして、チョザを乗っ取ったって。あそこはいま、兵隊でいっぱいなんじゃないのかい? そんな所に行ったら、ろくなことになんないよ」
ジグリットは言い返そうとして、口を噤んだ。アジェンタが心配してくれているのがわかったからだ。
そのときブザンソンが手押し車に、薪とヴェネジネを乗せてやって来た。
「大丈夫だ、婆さん。チョザには行かねぇよ」何気ない口調でブザンソンが言った。
「ブザンソン!? どういう事だよ。チョザに行くつもりじゃなかったのか!?」
ジグリットの突然の剣幕に、アジェンタが驚いて身を引いた。それを見て、ブザンソンは手押し車を放って柵を乗り越えてくると、彼女に向こうへ行くよう促した。
「婆さん、悪いがちょっと外してくれ。仕事の話なんでな」
「ああ、わかったよ」心配そうに振り返りながら、アジェンタは家の中へ入って行った。
二人共、彼女の姿が消えるまで黙っていたが、最初にジグリットが口を開いた。
「あんただって、チョザにある隠し金が欲しいんじゃないのか!?」
金のことしか考えていないようにも見えるブザンソンが、諦めるとは思えなかった。アジェンタのための薪割りでさえ、彼は微々たる報酬を貰っているのだ。そして彼が金で動く人間だからこそ、ジグリットはよく知らないブザンソンという人間を信用できるのだ。
しかしブザンソンの返事は見当外れなものだった。
「実を言うとおまえの首輪がいい値で売れたんで、それで充分な報酬になる」
ジグリットはすぐに頭を切り替えた。それならそれで、なんとかするしかない。血の城から出れただけでも、彼に感謝すべきなのだ。
「だったらもうここで別れよう。ぼくは一人でチョザへ行く」
決意したように言ったジグリットに、ブザンソンは即座に反対した。
「無理だ。止めておけ」
「無理じゃない! ぼくはチョザへ行きたいんだ!」
ジグリットの強い懇願に、ブザンソンは思案するように顔をしかめた。
「・・・・・・行っても何もないぜ」ブザンソンはジグリットが立てたばかりの柵に寄りかかった。「おまえが何を求めてんのか知らねぇけどな。行ってもあそこはもうタザリアじゃねぇし、王族だけじゃなく、騎士団の連中だって皆、殺されたって聞いたぜ。治安も悪いし、追手も多分、おまえがチョザに行くと思ってるだろうしな。婆さんが言うように、ろくなこたぁねぇ。隠した金なら、もうちょっと隠して置いても大丈夫じゃねぇのか?」
柵がブザンソンの体重にぎしぎし鳴った。杭をもう少し強く地面に打ち込まなければダメだ。冷静な部分でそう思いながら、ジグリットはブザンソンの言葉を頭の中で繰り返した。そこには想像だにしなかった内容が含まれていた。
「・・・・・・いま・・・なんて言った・・・・・・」問い返したジグリットの声は掠れていた。
「だから、隠した金なら――」
「違う! その前だ! 騎士団は・・・・・・」
「全員、死んだって聞いた」何がそんなに驚くことなのかと、ブザンソンは間の抜けた顔でジグリットを見下ろしていた。そしてジグリットの顔が真っ青なのに気づき、柵から離れた。
「おい、チョマ・・・?」
「嘘だ!」ジグリットは自分に言い聞かせるように叫んだ。「そんなことあるわけがない」
炎帝騎士団の騎士が、どれほど腕の立つ人間で構成されているのか、ブザンソンは知らないのだ。だからそんな間違った情報を信じる。ジグリットの脳裏に、真摯な黒い眸をした騎士が浮かんだ。タザリアの黒い狼。彼が負けるわけがない。死ぬわけがない。きっとどこかに生きているに違いない。チョザにいないにしても、彼がこの大陸から消えるわけがないのだ。
「おい、チョマ!? どうした!」ブザンソンはジグリットの肩を掴んで揺すっていた。
リネアの所にいたとき、彼女に色々なことを聞かされていた。チョザに関すること。城に関すること。そして、そこにいた人達のほとんどが殺されたこともだ。彼女も騎士団は全滅したのだと笑って言った。だが、信じていなかった。リネアの言うことなど、何一つ信じる気になれなかったからだ。だが、その内の幾つかが本当だったとするなら、ジグリットの胸は今さらながらに張り裂けそうになった。
「チョマ!」ブザンソンはジグリットが茫然としている間も呼びつづけていた。しばらくして、彼はジグリットが泣いているような声で呟くのを聞いた。
「そんな名でぼくを呼ぶな」
ブザンソンの腕を振り払ったジグリットの眸に涙はなく、ただ心が冷え切ってしまったかのように顔には暗い翳が差していた。ブザンソンはジグリットには時間が必要だと判断して、その場を離れた。ジグリットは黙って柵に手をかけ、ブザンソンが凭れて歪んでしまった箇所を黙々と直していった。
アジェンタが昨晩に続いて腕を揮った夕餉の後、肘かけ椅子にいたブザンソンに、ジグリットは寄って行った。彼は石膏の灰皿に巻き煙草を押しつけながら、膝に乗せたヴェネジネのしなやかな背中を撫でていた。
「ブザンソン、あんたと一緒に行くよ。あんたがどこに行くのかは知らないけど、どうせぼくには行く所もないし」ジグリットはブザンソンの横にかけて言った。「だけど、もう金は払えない。それでもいいのか?」
「いいって言ったろ」ブザンソンはヴェネジネから眸を離さず大きく頷いた。「心配すんな。この大陸で一番、安全な場所へ連れて行ってやる。皇妃の追手が来たとしても、そうそう手出しできない場所にな」
そんな所があるとは思えなかった。だが、このアジェンタの民家でさえ、そう信じられそうなほど、穏やかな場所だった。彼女は今も台所で片付けをしながら、陽気な歌を口ずさんでいる。
「どこに行くつもり?」彼女に聞こえないように、小声でジグリットは訊ねた。
「まだ秘密だ」ブザンソンが人差し指で撫でているヴェネジネの背中は、本当に生きている動物のように上下していた。その練成人形ですら、止まり木に停まって羽を休める鳥のように、静まり安らいでいるようだった。
翌朝、ジグリットの体調が大分良くなったので、二人は時間のかかる馬車ではなく、それぞれが騎乗して出発しようとしていた。ジグリットはブザンソンに馬に乗せてもらい、片足では不安定なので躰を固定して、ようやく馬上にいることができた。大人しめの荷馬を、ジグリットは恐る恐る歩かせてみた。牝馬はジグリットの言う通りに、ゆっくりと辺りを歩き回った。
家の前に出て、そんなジグリットを不安そうに見ていたアジェンタは、自分の馬に鞍をつけているブザンソンに言った。
「ブザンソン、あの子ここに置いてっちゃどうかねぇ?」
「婆さん・・・・・・」ブザンソンは顔をしかめた。
「ここなら森の中でも道から外れたとこにあるし、あの子が追われてるにしても、見つかりっこないよ」
アジェンタはとっくに、ジグリットがブザンソンの身内ではないことに気づいていた。わざわざ足手まといになるような怪我人を、この商人がいつまでも連れているわけがないのだ。そこまでブザンソンという男が甘くはないことを、アジェンタは知っていた。
「ダメだよ、婆さん。チョマを運ぶのがおれの仕事だ」ブザンソンはきっぱり言った。「それにここは帝都に近すぎる」
アジェンタががっかりするのを見て、ブザンソンは溜め息を漏らした。
「またすぐ来るから、待ってろよ。今度は仔犬でも連れて来てやる」
ヴェネジネを前襟の合わせに入れ、ブザンソンはひらりと騎乗した。アジェンタは物悲しそうな笑みを作って答えた。
「いいよぉ、犬なんか飼ったら、自分が死んだ後が心配になっちまう」
「鶏相手に喋ってるよか、いいだろ」
皮肉たっぷりにブザンソンが言うと、アジェンタは眉を吊り上げた。
「余計なお世話だよ、まったく」
少し離れた場所から、ジグリットはそんな二人の親しげな言い合いを見ていた。彼らは客と商人というよりは、仲の良い親子のようにも見えた。そして突然、別れもなしにアジェンタは家の中へ駆け込んで行った。ジグリットがどうしたのかと戸口を見ていると、彼女は一ヤール半ほどの棒のようなものを持って戻ってきた。
「チョマ、これを持ってお行き」アジェンタは馬上のジグリットにそう言った。
「これ、息子さんのじゃないですか」それは壁に掛かっていた彼女の息子、チェスターの剣だった。
「坊やは見たところ、その白い短剣一つだろう。それじゃあ、これから旅するのに危ないよ」アジェンタは名残惜しそうに、剣の鞘を撫でた。「その立派な短剣とは比べ物になんないくらい安物の剣だけど、持っていってくれないかい」
「こんな大切な物、貰うわけにいきません」ジグリットは首を振った。
「いいんだよ。壁に飾ってるだけのくせに、手入れだけは一人前で困ってたぐらいだ」
本当に彼女が手放すつもりでいるのがわかり、ジグリットは困惑した。ブザンソンを見やると、彼は貰っておけとでも言うように頷いている。ジグリットは彼女に感謝し、その何の飾り気もない長剣を受け取った。
「これを使わないで、目的地に行けるよう祈っているよ」アジェンタはやさしく微笑んだ。
彼女に何度も感謝しながら別れ、森の明るい小道に入ったとき、ジグリットは前にいるブザンソンに声をかけた。
「なんだかちょっと意外だったな」
「何がだ?」振り返らず、眸の前の邪魔な枝葉を手で払いながらブザンソンが答える。
「ブザンソンが年寄りに優しいからだよ」
少し妙な沈黙があり、やがてブザンソンはぼそぼそ言った。
「・・・・・・ただの仕事だ。仕事。荷運びして金貰ってる。それだけの関係だろが」
ジグリットは意味ありげに「ふぅん」と鼻を鳴らした。それに振り返ったブザンソンは眸を瞬かせて怒鳴った。
「なんだよ、その含み笑いは!?」
ジグリットはにまにましながら「別にぃ」と間延びした声で返す。
「ケッ、畜生が!」前を向き直りながら、ブザンソンは低く罵った。




