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「ちょっと寄ってもらう所がある」ブザンソンがそう言ったのは、昼を少し過ぎたときだった。馬車は旧道を逸れ、さらに森の奥へと入って行った。
ムルムルの森は、カミース川周辺に繁殖した巨大な森林地帯だ。だが、木々はゲルシュタイン人が伐採しているせいか、かなり奥地に入っても密集していることはない。おかげで馬車は木材を運ぶ役馬とすれ違わない限り、楽に通ることができた。
ジグリットは馬車の荷台から、サジハッサがまた追ってくるんじゃないかと、時折後ろを気にしていた。朽ち始めた乾いた落ち葉が車輪に散らされ、音を立てて舞っている。それ以外に聴こえるのは緩んだ車輪の軋む音と、馬の蹄、そして森のどこかで木挽きが、木の幹に鉄を喰い込ませる音。それは森の中を響き合って、どの方角からも聴こえてくるようだった。ジグリットの周りでは、薄く広い葉をつけた樹木の間を、紫暁月の陽射しが時折、眸が眩みそうなほど降り注いでいる。
馬車は森の中を抜けて、やがてカミース川の岸に辿りつくと、ブザンソンは岸沿いに数時間下って行き、柵に囲まれた一軒の農家の前で停めた。その頃には空の端が赤らんで夕闇が迫っていた。
「ここは?」荷台の後ろから降りながら、ジグリットは訊ねた。手には血の城から持ってきた金属製の棒を握っている。支えがないと、一人では歩くことが難しいためだ。
「知人の家だ」ブザンソンも御者台から降り、前の馬車から積み替えていた大荷物を手当たり次第、地面に放り投げる。大人が腕でなんとか抱えられるぐらいの巨大な麻の風呂敷包みだ。ヴェネジネがおもしろそうに、転がる荷に飛び乗った。四つ、五つとブザンソンがそれらを落としていると、家から一人の女性が出てきた。
「よぉ婆さん、辛抱強く生きてたか?」ブザンソンは荷台から飛び降り、木箱を二つ抱えて歩きながら言った。
「おまえこそ儲けが過ぎて妬みを買ってんじゃないのかい?」女性は婆さんというには、背筋がしゃんと伸び、灰色の髪は綺麗に結われていた。遠目からは年寄りには見えない。「そのうち後ろから、ぶすっと刺されても知らないよ」言い返しながら歩いてくる姿も、早足で軽やかだ。
「そんなヘマするヤツァ、最初から儲かんねぇよ」ブザンソンは荷物を抱えたまま、半開きの柵を通り抜け、勝手に家に入って行った。
柵の内側では大小五羽の鶏が地面を突いたり、羽根を広げたりして、気ままに歩き回っている。ヴェネジネはブザンソンについて行こうとしていたが、柵の中に鶏がいるので、躊躇っているようだった。
ジグリットが荷台の縁に手をついて突っ立っていると、女性は横に転がっていた荷物の一つをひょいと持ち上げ、初めて気づいたのか不思議そうにこっちを見た。
「あいつの手伝いかい?」と問われて、ジグリットは曖昧に何度か首を動かした。
「おい、チョマ!」ブザンソンが家から出て来ると、残りの荷を担ぎ上げながら女性を顎で指す。
「この婆さんは、アジェンタ婆さんだ。それから婆さん、これはチョマ。従兄弟の甥のチョマだ。手伝いをさせてる」
前は従兄弟の息子だって言ってたのに、とジグリットは内心、苦笑しつつも、アジェンタに挨拶した。彼女は近くで見ると、さすがに目尻の皺や薄くなった皮膚が目立ったが、それでも年齢を聞くのが躊躇われるほど、いまだに美しかった。
「馬屋にこいつら置いてくる。先に家に入ってろ」
ブザンソンが馬車から二頭の馬を外しながら言うと、アジェンタは口を尖らせて文句を返した。
「偉そうにねぇ。誰の家だと思ってんだか。さあ、坊や、温かいスープでも飲みな。あんなヤツは放っておいて」
促されてジグリットは、金属の棒で自分を支えながら、アジェンタと共に平屋建ての民家に入って行った。ヴェネジネはブザンソンを追って、馬屋へと跳ねて行く。
アジェンタの家は、誰でも気が休まるような心地良い空間になっていた。質素な造りだったが、鑢をかけただけの手作りの机に雑草の花が飾られた花瓶が置かれ、壁には生地を張り合わせた布製の手芸品や押し花の額が飾ってあった。家にある物のほとんどが、自然のままの色と質感を保っていた。
「お婆さんは、一人でここに住んでいるんですか?」きょろきょろしながらジグリットが訊ねると、アジェンタは片足の少年が椅子に座るのを待ってから炉のある台所へと向かった。
「一人というか、一人と五羽と三頭だね」隣りの台所から声だけが返ってきた。
「ブザンソンはよくここへ来るんですか?」ジグリットはまだ部屋を見回していた。藁で編んだ籠には、乾燥した草花が詰め込まれている。それが薬になるものだと、葉の形でジグリットは思い出した。かつて王宮の書庫で、薬草図譜に載っていたのを見たことがある。よく見ればどれも薬草の類だ。
「質問が多いねぇ」とアジェンタが台所から言った。
「すみません・・・」
「いやいや、いいんだよ。ここにいると滅多に他人と口利くこともなくってね。鶏と喋るのも飽きちまったし」木製の杯を二つ手にしてアジェンタは戻って来た。彼女はジグリットの眸の前に一つを置き、もう一つをまだ空いている席にそっと置いた。「ブザンソンは半年に一度くらい、うちに日用品やら食料やらを運んでくれてるの」
ああ、じゃああの大荷物は最初からここへ届けるためだったのか、とジグリットはようやく合点がいった。それからありがたく杯の中の飲み物を戴いた。その途端、喉がカッと熱くなり、ジグリットは激しく咽せた。
「ああ、すまないね。あいつと一緒に商売してるから、酒には強いかと思ったんだが」
それはジグリットが今まで飲んだ中でも、一、二を争うきつい酒だった。
「清葡萄酒っていうんだよ。ブザンソンはこれが好きでねぇ」
ジグリットは、げほげほと咽せながら首を振った。喉が焼けるように痛んだ。
「ちょっと待ってな。水持ってきてやるよ」アジェンタが立って行くと、彼女はすぐに水を手に戻って来た。貰った水を一気に飲み干したとき、ジグリットの眸に小屋の中では異質なものが映った。
「あの剣はお婆さんが?」口の端にこぼれた水を袖で拭き取りながら訊く。
それは素朴な木製の鞘に納まっていた。一目で安物とわかる剣で、柄の部分も装飾はほとんど成されていない。
「んやぁ、息子のだよ。まぁ、どこでおっ死んぢまったのか、帰って来やしないけど」アジェンタはそう言って、また台所へ戻って行く。しかし喋るのは止めず、彼女の声はジグリットが剣を見つめている間も聞こえていた。「昔は息子と暮らしてたんだよ。帝都で兵隊になったって便りが着いてから、戻って来ないのさ」
「きっと別の国に派遣されて、忙しいんですよ」ジグリットは努めて明るく言った。
しかし見る限り、剣はもう使い手のないまま、これからも壁に飾られ続けるのかもしれなかった。だが、それも悪くはないように思えた。剣の鞘は埃一つなく手入れされていた。それは危険な武器ではなく、もはや壁の一部となった飾りでしかなかった。
アジェンタは黄金色のスープを持って来ると、ジグリットの前にことんと置いた。今度はブザンソンの分はなかった。
「ありがとうございます」匙で一口掬うと、それはとても美味しいスープだった。具はまったくなかったが、胃の中で広がり、全身が温かくなるのがわかった。
ジグリットが渇ききった人のように、急いでそれを口に流し込んでいると、アジェンタは黙っているのもなんだからと、夫のことも話してくれた。
「夫はもう何十年も前に死んだんだよ。彼はオス砂漠の緑地を拠点にした遊牧民族でね。涸谷で溺死したのさ。不運だったよ」
砂漠で溺死という言葉が腑に落ちず、ジグリットは匙を噛んだまま首を傾げた。
「ああ、砂漠っていうとさ、外から来た人は大抵、熱さで参っちまって命を落とすと思いがちだけどね。実際、多いのは溺死なんだよ。砂漠にだって時には雨が降る。年に一度や二度のその雨は大概、豪雨でね。涸谷はその水の通り道なのさ。しかも遊牧している者が寝床にすることが多いんだ。だから突然の豪雨に、逃げる間もなく溺死しちまうってわけさ」
ジグリットはそれを聞いて、砂漠の自然に感嘆すると同時に、畏怖を感じた。どちらにしろそこは苛酷な環境に違いなかった。
「お婆さんは、そのときどこにいたんですか?」
「あたしかい? 少し離れた緑地さ。息子と帰りを待ってたんだけどね。あの人は二度と帰って来なかった。それからここへ越して、今度は息子が帰って来ない」
口元は微笑んでいたが、あまりにも悲しそうな暗灰色の眸に、ジグリットは思わず訊ねていた。
「息子さんの名はなんて言うんですか?」
「チェスターだよ」アジェンタが答える。
「もしどこかでチェスターを見かけたら、ここへ帰るようにぼくが言います」ジグリットはにこっと微笑んだ。しかしそれ以上話をすることはできなかった。急に瞼が重く堪らなくなったからだ。「ごめんなさい、なんだかとっても・・・眠く・・・・・・」そのままずるずると机に倒れこむと、ジグリットの眸は完全に閉じてしまった。
アジェンタはジグリットの手から匙を抜き取り、入口の戸が開いてブザンソンが入って来ると同時に言った。「この子は優しい子だよ」
しかしブザンソンは机に突っ伏して寝ているジグリットに、眉を寄せただけで、小莫迦にしたように返した。「優しさなんか一ルバントにもならねぇ。まったく無価値だぜ」
アジェンタが気の毒そうにブザンソンのためにため息をついたのを、彼は見なかった。




