5-2
タリマ・サジハッサは昨夜、村の近くで女を一人襲った後、いつものように髪を引き千切り、収集品を一つ増やしていた。思っていたよりも、すぐに屍体が見つかってしまったおかげで、旧道からも逸れてしばらく森に潜伏していたのだが、夜になってまた追跡を始めていた。
月光すらも森の枝葉に阻まれて、道にまで落ちてはこない。だが、サジハッサは長い間、地下納骨堂に幽閉されていたせいで、暗闇でも眸が見えるようになっていた。
あのとき自分の首の縄を切った直後に、馬は逃走してしまったが、それでもサジハッサはまったく構わなかった。森の中なら馬車はそれほど速度を出すことはないだろう。乗っている少年は怪我人だ。激しい揺れに長時間堪えられるとは思えない。
人通りも途絶えた旧道をサジハッサは、痩せた躰で飛ぶように走っていた。時折、腹が空いて鼠を素手で捕らえたり、鳥を何羽か短槍で打ち落としたりして、むさぼり喰いながらだったが、その食欲の他に彼を邪魔するものはなかった。大抵の人間は、彼を気味悪がって無視したからだ。
おかげで思ったよりも早く、サジハッサは追っている少年の痕跡を見つけることができた。もし声をかけてきたり、この追跡の邪魔をしようとするヤツがいたら、彼は迷わず殺すつもりだったので、その時間が省かれたことは良いことだった。
サジハッサは人が言うように、特に殺しが好きなわけではなかった。ただ、彼らがいろいろな理由で邪魔をしたので、黙ってもらっただけなのだ。しかし女はまた別だ。女は別の欲求を満たしてくれる。しかしこれまた女は、欲求を満たしてはくれても、黙ってはくれないので、また面倒だが殺さなければならなかった。彼は人を殺すようになった以前の自分のことを、何一つ思い出すことができなかった。
ブザンソンの荷馬車の轍の跡を見つけたサジハッサは、それに沿って今は脇目もふらずに走っていた。忘れることはできない、あの血の臭い。少年の足から漂う血の臭いだ。サジハッサは道の先にまだ影すら見えていないときから、馬車の車輪が石を弾く音を聴くことができた。
何が彼にそのような聴力と嗅覚を与えたのか、答えられるものはいないだろう。サジハッサ自身にすら、主の恩恵か、はたまた一度戦いに赴き死んだようなものだからか、わからなかった。同じ意味で、サジハッサは自分が不死身であることを知っていた。だが、それがなぜなのかは知らないのだった。首に縄が絡まりつこうが、剣で肩を貫かれようが、痛みをまったく感じないのだ。
サジハッサはガタガタと走り続けている馬車に追いついた。二頭立ての無蓋馬車には、以前出くわしたときの木箱がそのまま積まれている。
「見つけたぜぇ」背後から矢のように走り寄り、サジハッサは短槍を背中から引き抜き、馬車の荷台へ飛び上がった。
荷台の床板が割れんばかりの音を立て、サジハッサの着地を支えた。すぐに御者が馬車を停める。短槍を手に、サジハッサは御者が振り返ったのと同時に、男の顎の下に穂を当てた。
「何ッ!?」サジハッサは有利な立場だったが、思わずうろたえた。「てめぇ、なんでこの馬車に乗ってやがる!」
御者は見たこともない中年のおやじだったのだ。商人は立ち上がり、その場で何も持っていない両手を翳して左右に振った。
「お、おれは何も知らねぇよ。馬車を交換してくれるっていうから・・・・・・」
「・・・・・・!」その言葉にサジハッサは、自分がブザンソン達に一杯喰わされたことを知った。「糞ッ! あいつらあぁぁぁッ!!」逆上したサジハッサが、短槍を力の限り、馬の背に突き立てた。
「ひぃっ」商人は慌てて馬車を降りると、一目散に森の中へ逃げて行く。
馬は二頭共、激しく動揺し、刺されていない馬まで、声を振り絞って嘶いた。二頭はそれぞれ、できるだけ早くここから離れようと、ばらばらに走り出した。
サジハッサは馬の背に飛びつき、自分の短槍を引き抜くと、道に飛び降りた。馬車は右に左にと制御を失ったまま、荷を幾つか落とし、転げるように進んで行き、やがて見えなくなってしまった。
その荷の一つから、血の臭いを感じ、サジハッサはのそのそと近づき、木箱を見下ろした。そこにはジグリットが使ったらしい血だらけの包帯が、ご丁寧に丸められて入っていた。血の臭いはそこから発せられていたのだ。
その場にしゃがみ込み、サジハッサは苛立ちにギリギリと歯を噛み合わせ、唸り声を上げた。伸び放題の髪が、怒りに逆立っている。
「見つけたら、皮剥ぐぐらいじゃ済まさねぇぞ」
サジハッサは旧道を無視して、森の中に分け入った。
その頃、ジグリットとブザンソンは、とっくにサジハッサから南東の方角へ逃げ延びていた。だが、二人の乗った荷馬車は前の物よりも大分、小さくなっていた。
「こんな遅い馬じゃ、目的地に着くまでに爺ぃになっちまうぜ!」ブザンソンは眸の前に繋がれた二頭の小柄な馬に舌打ちした。
彼が文句を言うのは、これで四度目だ。ジグリットはいい加減、この言い合いにもうんざりして、荷台の上で溜め息をついた。「文句があるなら、同意しなきゃよかっただろ」
「同意しなきゃ、またあの狂騎士と戦うはめになるんだろうが! それもおれが! おまえじゃなくおれが!」ブザンソンは執拗に、指先で自分を指した。
確かに馬車の速度はかなり減速してしまった。それは認めざるを得ないことだ。ブザンソンが最初に使っていた荷馬車の二頭の馬は、どちらも旅行用乗用馬と呼ばれ、交易商人が持つには高級な種類にあたる。だが、いまや彼らの馬車を引っ張っているのは、荷馬であり、もっとも安い騾馬同然の二頭だった。
「ぼくにどう言って欲しいんだ、ブザンソン」ジグリットは荷台に寝転がったまま訊ねた。
すると、ブザンソンは頭に両手を置いたまま、かりかりした様子で一言、怒鳴った。
「何も言うな!」念を押すように、ブザンソンはもう一度「何も言うなよ、この野郎」と口を歪め、「へらず口はたくさんだ」と毒づいた。
ブザンソン自身、ジグリットの案に助けられたと思ってはいた。咄嗟にひらめき、判断し、行動できる人間は実際にはそういない。持って生まれた才覚のようなもので、眸を瞠るところがある。だが、商人から見れば、ちょっと金儲けの理屈がわかっていないようだった。安い荷馬と高値の旅行用乗用馬をただ同然で取り替えるなんてのは、ブザンソンにしてみれば溝に金を投げ入れるようなものだった。それがブザンソンを腹立たしくさせていたのだ。
ジグリットが馬車を取り替えようと言い出したとき、ブザンソンはサジハッサが本当に馬車の轍の跡で追ってくるかもわからないのに、そこまでする必要があるのかと問うた。それに対し、ジグリットは明確に、そうしなければならないと告げたのだ。
サジハッサが馬に引き摺られても死なず、それどころかまだ自分達を追って来ているなら、馬車を替えるぐらいは簡単にできる策で、やっておくべきだとジグリットは言った。
ブザンソンにとって、損得は身に染みついた本能のようなものだ。何が得に繋がっているかは、ほとんど直観のように素早くわかる。同じように、ジグリットの眸はそれが本能だと示していた。そうしなければならないと。
ブザンソンはジグリットを保護すべき相手として見ていたが、自分の中で徐々にその考えが変わりつつあることを、このときはっきりと自覚した。
いま、ジグリットは「わかったよ」と背後の荷台でふてくされた様子で答えていた。これ以上反論して、ブザンソンの神経に障ることはしないと決めたらしい。
ブザンソンは前を向いたまま口の端で笑い、二頭の馬をできるだけ急がせるため、並足からだく足へと転じた。