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サジハッサから逃げきってすぐに、ブザンソンは馬車を街道から外し、ムルムルの森へと踏み込ませていた。森の中なら、そう簡単には追って来れない。街道とは違い、細道が多い上、高低のある段丘と藪や低い広葉樹が馬車を隠してくれるからだ。
ジグリットは前方の御者台に座って、頭にヴェネジネを乗せたまま黙っているブザンソンに、恐る恐る訊ねた。
「まだ怒っているのか?」
すると、ブザンソンは振り返らずに答えた。「おまえはちっともわかっちゃいねぇ」
「何が?」ジグリットは本心からわからなかった。
「何が? だと!?」ブザンソンはジグリットの真似をして、少し高めの声で不気味に首を傾げ、それから険悪にぎらついた眸をして、憎々しげに相手を見返した。「おまえはちっっっっともッ!! わかっちゃねぇんだよ!」
「だから、何が?」ジグリットもブザンソンにうんざりしてきて、わざと同じ言葉で訊き返す。
「おまえは、あの小僧共を助けて気分良いだろうよ! でもな、偽善で得られる感謝なんてなぁ、水一滴の価値もねぇ! ありがとうございましたなんて、言葉に価値はねぇんだよ! それを貰って何になる? 気分が良くなるか? 気分で飯が喰えるかってんだ!!」
ジグリットが黙っていると、ブザンソンはさらに言った。
「おまえはあいつらを乗せたから、サジハッサから逃げれたとか思ってんだろうがな、それも大きな間違いだ! あの小僧二人を乗せなかったら、あの狂騎士が追いつく前に森に入って、見つからずに済んだかもしれねぇ。わかるか!? 莫迦にわかるようにもっと説明して欲しいか?」
あまりにブザンソンの剣幕が激しいので、ヴェネジネは御者台からジグリットのいる荷台へやって来て、荷袋の間に隠れてしまった。
ジグリットの方も、ふつふつと怒りが込み上げてきていた。そこまで言われる筋合いはない。それに森に逃げたとしても、追手はいずれ接触してきていたはずだ。
「あんたみたいに金のことしか考えないヤツは、きっと報いを受けるぞ」
ブザンソンは言われることがわかっていたのか、すぐに言い返した。「おまえみたいにお人好しだと、生きていけねぇんだよ」それから小声で「チッ、これだからタザリア人はよぉ」と舌打ちをしたが、ジグリットにはちゃんと聞こえていた。
「タザリアのことを悪く言うな」
ジグリットが本気で腹を立てているのに気づいたのか、ブザンソンは前を向いたまま笑ったようだった。守銭奴の交易商人は、自分の怒りが収まったのか、落ち着いた声で言った。
「タザリア人のぼくちゃんにもわかりやすく教えてやろう。ゲルシュタインの諺に、こんなのがある。蠍しか捕れない場所では、誰もが蠍を奪い合って食べる。分けて食べれば全員が餓死し、一人で食べれば、そいつだけでも生き残るってな」
ジグリットは何も答えなかった。余計に苛立ちが募っただけだ。
「わかったか? ゲルシュタインでは、助け合いが人を殺すこともある。呑気なタザリアと違って、何かを得るには等価値の何かを差し出す必要がある」
その論理では、最初から何も持っていない人は、何も得ることができない。ジグリットはそう思ったが、ブザンソンに言い返しても無駄だと、もうわかっていた。
これから先も、金のことしか考えない交易商人と共に旅をすると思うと、ジグリットは苦痛を感じた。親切心すらも勘定して、等価値の物と交換しなければ気が済まないというなら、それはある種の病気だ。人の心まで金で買えると、ブザンソンは間違いなく信じている輩だった。
それから完全に夜になると、森を進むのが困難になり、二人は途中で馬車を停め、夜明けまでジグリットは荷台で、ブザンソンは御者台で眠った。朝になると、馬車はすぐに出発し、再び森の中を走り始めた。一晩経つと前日のことを引き摺らない性格なのか、ブザンソンはすっかり機嫌を直していた。
朝は鳥達も忙しなく働いているのか、あちらこちらから鳴き声が耳につく。ジグリットは森の旧道を、荷台に積まれた木箱の間に寝転んで、空を見上げながら進んでいた。小一時間も経った頃、ブザンソンが急に馬車を停めた。
ジグリットが起き上がる前に、御者台の向こう側から声がした。
「繁盛してるかぁ?」間延びした男の声に、ジグリットが木箱の間から顔を出すと、同じような二頭立ての荷馬車が道のど真ん中に停まって、行く手を塞いでいた。
「なんだおやっさん、嵌っちまったのか」ブザンソンが御者台から降りて行く。
ジグリットが驚いて見ていると、ブザンソンは振り返って、降りるなというように手の甲をこちらに向けて振った。ジグリットは大人しくそこから動かず、荷馬車の車輪が道の陥没に埋もれてしまっているのを見た。どうやら相手も商人らしいが、一人では持ち上げられず困っていたようだ。
ブザンソンがわざわざ自分から手伝いに行ったのが可笑しくて、ジグリットは黙って見ていることにした。親切心なんてものが、彼にあったとは知らなかった。興味津々で見ているジグリットとは違い、ブザンソンは必死に荷台を後ろから押し始めた。商人は自分の馬の手綱をぐいぐい引いている。
「あんたらぁ、旧道沿いに行くんか?」馬を叱咤しながら、商人が訊ねた。
「そのつもりだ」ブザンソンが、ぜえぜえ言いながら答える。
そのとき、二頭の馬がようやく一歩、二歩と前に進み出した。地面に嵌っていた車輪が上がり、小気味良い音を立てて道へと戻って来た。
「ああ、助かった。本当にありがとよ」商人が大きく息を吐き、言った。
ジグリットもよかったと安堵したのだが、後がよくなかった。
「じゃあ手間賃、二百ルバントってとこだな」ブザンソンは汚れた手を下衣で拭き、恥ずかしげもなく商人に手を突き出したのだ。
だが、商人の方も別に文句も言わず、さっさと金の入っているらしいきんちゃく袋を取り出す。それが当然といった態度だ。
ジグリットが二人のやり取りに呆れていると、商人が言った。
「そうだ、あんちゃん達、この先の東っ側の道は、通らん方がええぞ」
「なんでだ?」ブザンソンが訊き返す。
「昨日の夜の内に、そこの村の近くで女が殺された言うて、大騒ぎになっとるからな」商人は自分のやって来た道を指差した。そして急に声をひそめ「しかもその女の殺され方が尋常じゃなかったらしい」そう言って、空恐ろしいといった様子で肩を竦ませた。
「誰がそんなことを?」ジグリットは思わず荷台から乗り出し、商人に訊いた。
「それが、ここらの人間じゃないって話だよ。貌に酷い疵のある男だとか」
ジグリットとブザンソンは顔を見合わせた。
「そいつ、どこに行ったかわかんねぇか?」ブザンソンが訊く。
「さてなぁ」商人は首を傾げた。「しばらく地面に張りついて、ぶつぶつ言うとったらしいが、警吏が来たときには消えてたそうだ」
商人は自分の二頭の馬が肢でも挫いていないか、心配そうに一本一本確かめ始めた。
「十中八九、ヤツだな」ブザンソンは御者台に戻ってきて、振り返り言った。
「ああ」ジグリットも頷く。
首に縄をかけ、馬に曳かせたのだ。普通なら死んでいる。
――けど、あれからすぐに縄を自分で切って逃げ出したのかもしれない。
ジグリットはサジハッサが不死身だとは思っていなかった。そんな人間が存在するはずもない。だが、初めて会ったときよりも一層、サジハッサを薄気味悪く感じ始めていた。
「それにしても」と、ブザンソンは不思議そうに言った。「なんで街道沿いに行ってないんだ? 森に入ったところは見られていないはずだろう」
「・・・・・・地面に張りついてたって」ジグリットは商人の言葉を繰り返した。
「それが何だよ?」ブザンソンが顔をしかめる。
「探してたんじゃないかな?」
「何を?」ブザンソンが焦れたように訊く。
「ぼく達の痕跡だよ」ジグリットは自分達の荷馬車を見下ろした。「ヤツに馬車を見られた。馬も」
「それだけで追って来れるわけがない」ブザンソンが首を振る。
「どうかな」ジグリットは、思案しながら言った。「馬の足跡や轍の跡には、一つ一つ癖がある。ぼく達の馬車の車輪の幅をヤツが覚えて、轍の跡で追うこともできる」
「そんなことが可能なのか?」驚いて、ブザンソンは眸を瞬かせた。
あの野蛮なだけに見える狂騎士が、短槍が強いだけでなく、鋭敏な感覚まで持っているとは、思いたくなかったのだ。
ジグリットの表情も険しくなっていた。「もちろん並み大抵じゃできないことだよ。でもそうとしか考えられない。馬の歩幅や左右の肢の間を測るだけでも、一頭一頭の違いがあるからな」
ジグリットは森の木々の間を見上げた。空は晴れ、雨の気配は見当たらない。
「雨でも降ればよかったんだが、望みは薄そうだ」
足跡や轍の跡は、このまま数日残り続けるだろう。
「また追いつかれたら、たまったもんじゃないぜ。どうするよ」ブザンソンが言う。
「方法ならあるけど・・・・・・」ジグリットはブザンソンを、それからそろそろ荷馬車で出発しようとしている商人を横目で窺った。「あんたが文句さえ言わないなら」
ブザンソンはそれでまたもや自分が損をすることに勘づき、忌々しいとばかりに顔をしかめた。