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「臭うぞ」と男は呟いた。「ぷんぷんしやがる。乾いていない血の臭いだ」
ジグリットは、その異様な雰囲気に只ならぬものを感じ、相手が自分を見ているのと同じように、男を観察した。
防砂布の隙間から覗いている、痩せて肋の浮いた裸の胸にも、貌と同様の疵痕が走っている。刃の疵であることは明白で、さらに男の細い肩の向こうに、短槍らしきものが背負われていることに気づいた。
男は急に、不気味な笑い声を上げた。「ジグリットってな、どいつだ?」
咄嗟にジグリットは腰の短剣に手をかけた。ついに追手が来たのだ。
しかし、ブザンソンが先に応えた。「そいつに何の用だ?」
ジグリットの前に立っていた二人の農民の少年達は、震え上がって硬直していた。ジグリットは男が二人に何かする前に、自分だとわかるように手を挙げた。
「おまえが、ジグリットか!?」男が眸を瞬かせながら言う。
「だったら、なんだ。おまえ、誰なんだ?」ジグリットは短剣の柄をしっかり握り締めた。それはリネアのところから持ってきた鞘の白い高価な細工の入った短剣だった。
相手の男をよく見たが、一度見たら忘れそうにない容貌だ。まったく記憶にない男だった。年齢は三十代後半か四十ぐらい。背中の短槍と貌にある疵からして、戦い慣れていそうだ。
「・・・・・・タリマ・サジハッサ」男はジグリットから、一時も眸を離さずに言った。
「サジハッサ? 聞いたことがあるぞ」ブザンソンが顔を歪める。そして数秒置いて、眸を大きく見開いた。「狂騎士サジハッサ! 帝都の連続殺人犯か」
「連続殺人!?」ジグリットが驚いて訊き返す。
同時に二人の少年が息を呑んで、後ずさった。「不死身の狂騎士だよ!」年下の少年、レハンが叫んだ。
すると、サジハッサは可笑しそうににたりと笑って、口の中で噛んでいたものを横に吐き出した。それは鼠の頭骨だった。
「ゲルシュタインでサジハッサの名を知らぬ者はいない。史上最悪の帝都の凶悪殺人犯だからな」ブサンソンはサジハッサの動向から、眸を離さずにジグリットに言った。「十年程前だったか、前皇帝ウィンガロスのアスキア侵攻にサジハッサは随伴した。だが、アスキアの手前のキンナを過ぎた辺りで戦闘がおっ始まった。サジハッサはその戦いで頭部に酷い外傷を負い、帝都に戻るよう命じられた」
ブザンソンが説明している間、サジハッサはにたにたと余裕の笑みを浮かべていた。男はぼりぼりと頭を掻き、その四方に広がった髪から、何匹かの蚤を振り落とした。
サジハッサが動く気配を見せないので、ブザンソンは説明を続けた。
「だがこっからが、恐ろしいことに、サジハッサは怪我が治った途端、近隣の住民を短槍で殺し回った。女は乱暴され、男は一突きにされ、子供を含めて十人余りが一夜の内に屍体になった」
「なぜそんなことを」ジグリットの疑問に、ブザンソンは当然だというように頷いた。
「帝都中の噂は一つに収束した。ヤツは狂っちまったってな。現にサジハッサは、アスキア侵攻から戻って以来、まるきり性格が変わったと言われている。それまでは真面目で純朴、有能な騎士だったが、戻ってからは挙動が荒々しくなり、他人の物を横取りし、家族も恐れて逃げ去るほどに、野蛮で自我を失った。警吏がヤツを捕まえ、ウィンガロス前皇帝は処刑を命じた。けどな、サジハッサは死ななかったんだよ」
「処刑されなかったのか?」ジグリットはサジハッサが防砂布で、自分の口についた鼠の毛を擦り落とすのを見ながら訊ねた。
「そうじゃない。されたんだ。されたが、死ななかったのさ。四肢を縛られ、オス砂漠に飲まず喰わずで十日放置され、蛍藍月のもっとも厳しい陽に灼かれ、躰中の火ぶくれから血が噴き出しても、ヤツは死ぬことがなかった。そこでウィンガロスはこの囚人を、まだ幼かったアリッキーノが作ったばかりの薔薇の洞窟へ落とした」
ジグリットはその処刑に聞き覚えがあった。
――薔薇の洞窟・・・・・・。
リネアに聞いたことがあるのだ。彼女は暇潰しにと、ゲルシュタインの用いるありとあらゆる拷問や処刑方法を教えてくれた。その中でも、薔薇の洞窟は特に残虐で過剰ともいえる処刑法の一つだった。
――確か、縦穴式の洞穴に罪人を落とすんだ。
洞穴の中に何がいるのか、考えただけでジグリットは、気分が悪くなった。そこにいるものは、毒を持つ多種多様な生物だ。それらはじわじわと落ちた人間の生命力を奪い、精神的にも肉体的にも非情な責め苦を与える。とても人間の所業とは思えない残忍な処刑法といえるだろう。
「だがな」とブザンソンは言った。「それでもサジハッサは死ななかったどころか、その日の夜更けに縦穴を登って、脱出しようとしたんだ。前代未聞の出来事に、サジハッサが本当に不死身なんじゃないかと、国中の噂になった。ウィンガロスはサジハッサをただ殺すだけでは収まりがつかなくなり、もっとも苛酷で残忍な方法に処した。それが血の城の地下に老いて死ぬまで延々と幽閉するって方法だった」
ジグリットは眉をひそめた。「だったらなぜ、そんな殺人犯がここにいるんだ?」
全員がサジハッサを見た。少年の一人、足を捻挫しているマイスールが恐ろしげに声を震わせ言った。「城を抜け出したんだ!」だが、レハンが首を振った。「そんなことできるもんか。こいつは贋者だ! 母ちゃんが言ってたぞ。狂騎士は城の地下にいる屍鬼に喰われて死んだって」
「そりゃあ、おまえの母ちゃんが嘘つきトマスに聞いた噂だろう」呆れたように友人に言われ、レハンは言い募った。「でもそう言ってたぞ! 何年も地下でなんて生きられるもんか!」
二人の少年の言い合いを聞く前から、ジグリットには、これが正真正銘本物の狂騎士サジハッサだと、すでにわかっていた。地下に幽閉されていたのなら、彼の眸がやたらに瞬きしていることの説明がつく。
「幽閉は終わった」サジハッサは誇らしげに言った。「おれは自由になった」
「そんな莫迦な話があるか!」ブザンソンが言い返す。
「あるんだ。女は言った。おれを自由にしてやると」そして男はジグリットに視線を移した。「片足の小僧を城に連れ戻せば、おれを本当の自由にしてやると、女は言った」
その時、ジグリットは男が腰に奇妙なものを下げているのに眸を止めた。「おまえが持っているのは何だ!?」
サジハッサは腰にぶら下げていた黒と赤茶の混じった紐の塊を突き出した。それを見たジグリットは、思わず顔を背けた。二人の少年達も、それが何なのかわかって、呻き声を上げた。長い髪の束は、幾つかは白い頭皮が付いたままだった。まだ血が乾ききっていないものもある。
「おまえ、ここまで来るのに、何人殺したんだ」それは答えを聞くのが恐ろしい問いかけだった。ジグリットに言われて、男は紐の束を色ごとに指差した。
「一人、二人、三人、四人・・・・・・」数えるのを止め、サジハッサは黒ずんだ歯を見せて気味悪く笑った。まるで得意げに戦利品を掲げているような態度だ。
「おまえを自由にしたヤツは完全に同罪だな」ブザンソンが嫌悪を込めて吐き捨てる。
追手にしても、あまりにも酷い男だ。ジグリットは確認のために、男に訊ねた。
「一体、誰に頼まれた?」
サジハッサは髪の束を腰に戻しながら答えた。
「タザリアのある御方だとよ。頼みに来たのは、緑の髪の女だ」
それだけでジグリットは合点がいった。「・・・・・・アウラか」
「知ってるのか?」ブザンソンは振り返らず訊いた。
「リネアの侍女だ」ジグリットはうんざりした表情で言い、それから呟くように付け足した。「すごく性格が悪い」
ジグリットは、リネアが追手を出すかもしれないと予想はしていたが、相手が一人だとは思っていなかった。リネアが追手を本当に一人しか出していないのなら、アリッキーノにまだ自分の存在が気づかれていないか、もしくはあの蛇の皇帝は関与しないと決めているかのどちらかだろう。
とにかく、今のところ追手がこの男一人なら、胸に埋まったニグレットフランマを使えば撃退できるだろう。
――リネアはぼくの胸に、タザリアの至宝の魔道具が埋まっていることは知らないはずだ。
だからだとしても、些か解せない感じはしたが、ジグリットはとりあえず、サジハッサに意思を伝えることにした。
「悪いけど、あんたと一緒には行かない」ジグリットはきっぱり言って、腰の短剣を抜いた。
「おれは頼んでるわけじゃない」サジハッサも背中の短槍に手をかける。
二人が睨み合っていると、御者台のブザンソンが、台の下に入れてあったなめし革の袋を取り出し言った。「ああ、わかったわかった」馬上にいるサジハッサに向かって、袋を持ち上げ見せつける。「おい、幾らで雇われたんだ? 金額を言え、金額を!」袋の中でルバント金貨がじゃらじゃら鳴っている。「言い値ってわけにゃあいかねぇが、金なら払ってやるからよ」
それを見たサジハッサは短槍を抜き、眸の前にいるブザンソンの鼻先に突き出した。ブザンソンが躰を退いたため、刺さることはなかったが、彼の命より大事ななめし革の袋が足元に落ち、重い音を立てた。
「何しやがるッ!!」ブザンソンが怒鳴りつける。
サジハッサは一度、短槍を引き、自分の手元で上向きに止め置いた。「金の話はどうでもいい」男は初めて苛立った様子を見せ、馬から飛び降りた。「必要なのは、片足の坊主だけだからな。残りはここで始末していく」
あまりの出来事に、少年二人は狼狽し、荷台にしゃがみ込んでしまった。ジグリットは荷台から降り、男の相手をしようとしたが、その前にブザンソンが後ろ手に金の入った袋を放り投げてきたので、それを受け取った。
「ブザンソン!?」
どうする気なのかと問う前に、ブザンソンが言った。
「全員、荷台にいろ」そう言うと、御者台から降りて行く。
「ブザンソン、戦えるのか!?」防砂布の隙間に手を入れ、剣帯に手をかけたブザンソンに、ジグリットは驚いて叫んだ。




