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血の城から逃げ出して三日後、ジグリットはブザンソンと共に帝都ナウゼン・バグラーを後にしていた。足を覆い隠すため、砂漠の遊牧民が着る裾の長い防砂布を躰に巻き、簡素な二頭立ての無蓋馬車の荷台にジグリットはいた。二人は南東に向かって街道を逸れることなく下り続けていた。
ブザンソンが、まだ一人では馬に乗れないジグリットのためではなく、別の目的で馬車を用意したのは明白だった。彼はどこから仕入れてきたのか、大量の荷物を積み込んでいた。
街道は、ナウゼン・バグラーよりムルムルの森の北側に沿って伸び、チョザの方面から流れてくるディタース川と、森の中を流れるカミース川の支流がぶつかる場所から南北に分かれていた。
ムルムルの森は、オス砂漠から吹きつける砂混じりの強風のせいで、西の端から枯れ始めていたが、一日も東へ進めば森の緑はカミース川に沿って、まだ見事に繁茂し息をしていた。
かつて、ジグリットはこの街道を、タザリアを裏切りゲルシュタインの傭兵となったフツに運ばれて行ったことを覚えていた。あの時は、周りの景色すら灰色に見えたが、今は森の広葉樹の葉さえもきらきらと輝いているようだった。
屋根のない荷馬車では、紫暁月でも陽射しが強かった。ジグリットは左足を覆うために巻いていた防砂布を脱ぎ、自分が逃げてきた帝都への街道を、荷台の後ろに座って見つめていた。ガタガタと揺れる視界には、すでに血の城の尖塔すらない。赤茶けた地面と右側には曠野の丘陵、そして左手に広がる森だけだ。
ブザンソンが多量の荷を積んだせいか、馬車はあまり速度が出ていなかった。時折、薄い麻の上衣を着た商人達が馬車や徒で通り過ぎるだけで、街道は静かなものだ。やがて日が暮れ始めた頃、ブザンソンは往く手に大袋を背負い、腰を曲げた少年が立って、馬車に手を振っているのを見つけた。
「おおーい、お兄さん! ちょっと停まってくれよ!」
ブザンソンが何事かと馬を停める。ジグリットも声を聞きつけて、荷台から御者台に顔を覗かせた。
「この街道をまっすぐ行くのかい?」頬に乾燥した土がこびりついた小作農の息子らしき少年が、馬車の前方を指差した。ジグリットより少しばかり年下だろう少年の背中には、自分がそのまま入れそうなほど大きな麻袋が、はちきれんばかりに膨らんで、どっかりと覆い被さっている。ジグリットが見下ろすと、裸足の足には厚い泥がついて、まるで靴を履いているかのようだった。
「そうだが、何か入り用か? 今は頼まれの品ばかり運んでるんで、あまり売れそうな物は載せてないんだが」ブザンソンは商人らしく答えた。
「違うよ。買いたいんじゃないんだ」少年が首を振る。
「なんだ、売る方か?」
「いや・・・・・・その・・・・・・」彼は落ち着かなげに、眸を彷徨わせた。
「違うのか? 何の用だ? 時間の無駄だ。もごもご言わず、さっさと言え」
ブザンソンに促されて、少年は上目遣いに窺いながら言った。
「畑仕事が終わったから、村に帰るところなんだけど、友達が畦で足をくじいちまったみたいでさ」
話の途中で内容が知れたのか、ブザンソンは思いきり顔をしかめた。だが、少年はこの通りだとばかりに、手を合わせた。
「頼むよ。村はこの街道の先なんだ。畑からここまで連れて来るから、そいつだけでも乗せてやってくんねぇかな?」
「お断りだ」とブザンソンは即座に返した。
「お願いだよ。酷く腫れてて、歩けないみたいなんだ。収穫したばかりの青物も運ばなきゃいけないから、おれが背負っていくわけにいかないし」
見かねてジグリットが荷台から声をかける。
「ブザンソン、荷台ならまだ二人ぐらい乗せられるよ」
しかし、ブザンソンはすげなくそれも拒否した。
「おまえは黙ってろ、チョマ」
命じられて、仕方なくジグリットが口を閉じる。
ブザンソンは馬車の手綱を動かそうと手を上げたが、上目遣いにじっとこっちを見ている少年に、ちらりと横目を向け、それから大きく溜め息をついた。「乗せてやってもいいが」と渋々口にする。
「本当ッ!?」少年が眸を輝かせる。
だが、ブザンソンの次の言葉に、少年だけでなくジグリットもがっかりした。
「幾ら持ってる?」
少年は苦々しい顔つきで訊き返した。「金を取るのか?」
「当たり前だ。相手が困ったときこそ儲け時ってなぁ、よく言ったもんだぜ」
がめついブザンソンの態度に、ジグリットも呆れて眉を寄せた。
案の定、少年は「お金なんて持ってない」と口を尖らせた。
「だったら歩いて帰れ。日が暮れる前に、とっととな」
追い払うように手を振るブザンソンのあまりに辛辣な様に、ジグリットは言われた通り閉じていた口を再び開いた。
「ブザンソン、いい加減にしろよ」
しかし、ブザンソンも怒り返す。「おまえこそ、いい加減に黙ってろ、チョマ! この馬車は誰のもんだ? ええ!?」そう言って、自分の物だとばかりに馬を指す。
「あんたの馬車だ。でも、どうせその村の前を通るんだろ。だったら、乗せてあげればいいじゃないか」
何がそんなにいけないことなのか、さっぱりわからない。荷台の空いた場所には、二人分の隙間ぐらい充分にある。だが、ブザンソンは頑なに首を横に振った。
「駄目だ駄目だ! 一ルバントにもならねぇことして何になる!?」
まるでエスタークにいた頃、孤児から金を集めていた警吏の人間が乗り移ったようだ。ジグリットはブザンソンの金に対する執着心に、おぞましさを感じて身震いした。
「人が人を助けるのに、金で換算する必要なんかない」
「あるだろう」当然だと言うように、ブザンソンは胸を張った。
「彼らを乗せることで、減るものなんかない」ジグリットが反論する。「それに、あんたがさっき言ったように、言い争っているのも時間の無駄だろう。ぼくが折れない限り、あんたもここに足止めなら、その方が実害があるんじゃないのか?」
二人のやり取りに驚いていた少年は、ジグリットの加勢を受けて、ようやく口を挟んだ。「お礼ならするよ。金はないけど、今日収穫した玉葱を少し分けるぐらいなら、父さん達も怒らないはずだ」
ブザンソンは眸を吊り上げて、歯噛みするように唸っていたが、一度バンと大きく怒りを込めて御者台の敷き板を蹴りつけると、馬車から降りてきた。
「その間抜けはどこだ?」ブザンソンは両手を腰にあてて偉そうに訊ねた。
「えっ!?」少年が訊き返す。
「だから、その足を怪我した間抜けはどこにいるんだ!?」苛々しているブザンソンは血走った眸をぎょろぎょろと辺りに向けている。
「あ、ああ・・・友達は、畑にまだ・・・・・・」
「案内しろ」
恐ろしい形相で言われて、少年は急いで畑に戻ろうとしたが、背後からブザンソンが彼の背中の荷を引っ張ったので、仰向けに引っくり返りそうになった。
「玉葱は置いていけ!」それから振り返って、ジグリットを睨みつける。「おい、チョマ! 馬車と荷物の番をしていろ。一つでも失せてたら、てめぇ、ぶった斬るからな!」
ジグリットは黙って頷くに留めた。これ以上、ブザンソンを怒らせたら、本当に剣が出てきそうだったからだ。
農民の少年とブザンソンは、森の中にあるという畑に入って行った。ジグリットは荷台に腰かけ、彼らの帰りを待っていたが、ブザンソンはもう一人の少年を背負って、あっという間に戻って来ると、まだ苛立った様子で素早く馬車を出した。
それからしばらく、馬車は沈みゆく太陽を背にして走っていた。ジグリットは荷台で、二人の少年との話が弾み、楽しい時間を過ごしていた。彼らは三マイル東にある村から、森の中にある畑に毎日通っているらしく、今取れる収穫物の話や、オス砂漠から飛来する砂の被害が年々酷くなっていることなどを教えてくれた。
二人の内、足を怪我している少年マイスールは、ジグリットと同じ十七歳で、馬車を呼びとめた少年レハンは、十五歳だった。二人は村から出て、帝都に働きに行こうか迷っていると言った。ジグリットは彼らと話をしていて、ふと十年先の自分がまったく想像できないことに恐れを感じた。
タザリアを取り戻したいと思っているのは確かだ。だが、リネアはそれを許さないだろう。彼女こそが、本当の後継者であり、タザリアの最後の血なのだ。彼女がそれを他の人々に話せば、それだけで自分は破滅する。誰も出自のわからない孤児に、王国を再建して欲しいとは思わないはずだ。
だが、ジグリットの心には、タザリアの前王、クレイトスの言葉がいまだに深く突き刺さっていた。あの言葉をクレイトスが口にするのに、どれほど苦悩し、葛藤したかを、ジグリットは聞かずとも理解していた。それに、今はもう余りにも犠牲を払っていた。取り返しのつかない犠牲ばかりを。
自分のせいで、炎帝騎士団の騎士長だったグーヴァーは殺されたのだ。彼は死の淵にあってすらタザリアを愛し、国を支える王のことを信頼し、忠誠を捧げた。
グーヴァーのことを思うと、ジグリットはいまだに躰が冷たくなる思いだった。左足を失ったように、どこか大切な躰の一部がもぎ取られた気がして、思い出すだけで辛くて堪らなかった。だが、それはもう永遠に失われてしまったのだ。たとえタザリアが再建されたとしても、その穴が埋まることはない。
ジグリットは重苦しい気分になり、どうすればいいのかわからないまま、街道の後ろに沈んでいく赤い太陽を見た。そのときだった。夕陽の端に、ぼやけた黒い影が映った。眸を眇めると、汚れた防砂布がばたばたとはためきながら、猛然と近づいて来る。それは男を乗せて駆けてくる馬の姿だった。ジグリットが馬が来ていると告げる必要さえなかった。
赤毛の馬はジグリット達の乗っている馬車をあっという間に追い越すと、街道を塞ぐように立ち止まった。砂埃が立ち、御者台にいたブザンソンが慌てて二頭の馬を停める。その衝撃でジグリットと二人の少年は、荷台の上で態勢を崩して転がった。
「次から次へと。今度はなんだ!?」ブザンソンが怒鳴る。
ジグリットはなんとか立ち上がると、御者台の脇に馬で寄って行こうとしている男を見た。絡まり合ったぼさぼさの焦げ茶の髪に、同じ色の鬚で覆われた貌。平たいのっぺりとした貌にある灰色の眸は開いているのに、どこか薄暗い。しかし、それ以上にジグリットの眸を奪ったのは、男の貌にある大小様々な疵痕と、そいつが口に咥えているものだった。
男の唇の間から、肉を噛み切るのと同時に、小さな動物の悲鳴が漏れた。
――鼠・・・か?
ジグリットは自分の眸を疑った。だが、確かに男の口から出ているのは、鼠の尾っぽだ。それを男はさも美味そうに、ちゅるりと啜り込んだ。そして骨を噛み砕く音をさせながら、咀嚼していく。
ブザンソンはジグリットよりもさらに真近でそれを見ていたが、すぐに唖然とした表情を引っ込めて、男に訊ねた。「な、何の用だ? 買いたい物でもあるのか?」商人魂とでも言うべきか、ブザンソンは男を客と認めたのだ。
だが、男はそれを歯牙にもかけなかった。灰色の眸をやたらと瞬かせながら、荷台を見つめ、ジグリットを、それから二人の少年を順に見やった。