5
5
騎士長のグーヴァーと二人になったジグリットは、中庭の奥に建つアイギオン城の向こう、城壁の上部の巡視路を歩く近衛兵が行ったり来たりしているのを、肩の痛みに辟易しながら眺めていた。ファン・ダルタの打撃は、それまで経験した稽古の中でも類を見ないほど強烈だった。しかし、そのことよりもその瞬間に彼が見せた笑顔の方が、ジグリットを悩ませていた。
隣りでグーヴァーは自分のなめし革の盾を丁寧に磨いている。
「なぁ、ジグリット」とグーヴァーは盾の磨いた部分を横から透かして見ながら言った。「おまえ、ジューヌ王子との稽古が嫌いなのか?」
ジグリットは、いずれその質問が来るだろうことを予想はしていた。なぜなら、いつも一時間を目安にわざとジューヌを酷く打ち、彼を泣かせていたからだ。グーヴァーが気付かないわけがない。むしろ、あそこにいるジューヌを除いた全員が気付いているだろうとジグリットは思っていた。
ジグリットは黒板を出し、そこに白墨で[彼との稽古はおもしろくない]と書いた。それを見たグーヴァーは顔をしかめた。
「だから、泣かせて立ち去らせるのか?」
ジグリットはそれには答えなかった。グーヴァーは溜め息をつき、どう説教しようか迷った末言った。
「稽古とは、本来おもしろいものじゃない。自分を磨くべきものだ。ああやって自分より弱い者をこてんぱんにしてもつまらないのは当然だ」
ジグリットは黒板に素早く書いて、グーヴァーに見せた。
[王子とぼくでは力量に差がありすぎます。相手を替えて欲しいんです]
しかし、グーヴァーの答えは冷たかった。
「稽古はおまえのためだけにしていることじゃないんだぞ、ジグリット。一番の目的は、ジューヌ様を鍛えることだ」
それはジグリットを落胆させると同時に、思い知らしめた。いつの間にか、ジグリットは稽古を楽しむあまり、ジューヌやタスティンと自分を同等に見ていたことに気付いたのだ。
グーヴァーはそのショックの様を見て、少し優しげに言った。
「ジグリット、おまえが強くなるだろうとわたしも思っている。だからこそ、もっと彼のために尽力して欲しいのだ」
ジグリットは黒板に[ぼくにどうしろと言うんです?]と書いて、グーヴァーを見上げた。騎士長は微笑し、彼の頭をなめし革の手袋のまま掴んで答えた。
「おまえは勝ちすぎる」
[だったらぼくがわざと負ければいいとでも言うんですか?]
ジグリットの速記に、騎士長は頷いた。
「その通りだ」
しかし、それはジグリットにとって、納得のいくものではなかった。
[臣下にわざと負けてもらって勝つような王を育てて、将来、他の国が認める王ができあがるとは思えません]
素早くそう書くと、グーヴァーは盾を手に立ち上がり、ジグリットに背を向けたまま言った。
「おまえはときに子供らしからぬ発言をするな。だが、おまえも王子もまだ子供だ。そこまで考える必要はない。おまえは王子が、今後も熱心に剣の稽古を続けるために、その意欲を削ぐことのないように務めなければならない」グーヴァは続けた。「彼の性格を考えれば、おまえにだってわかるだろう。武術も勉強も、おまえの方が秀でていれば、王子は拗ねて意固地になり、余計にやる気を失うんだ」
ジグリットは黒板にチョークを走らせ、立ち上がるとグーヴァーの前に回って、それを見せた。
[わかりました。次回からは手加減します]
そして、さっさとその場を後にしようとしたジグリットを、グーヴァーは引き止めた。
「ジグリット、今日の稽古は良かった。冬将の騎士が良い動きだったと褒めていたぞ」
ジグリットはそれを聞き、眸を瞠った。あの騎士に褒められたことなど一度もない。そんな素振りも見せなかった。いや、とジグリットは考え直す。もしかして、あの時の不気味な笑いが褒めたってことなのだろうか、だとすると、もう一生褒められなくてもいいや、とジグリットは思った。
ジグリットが立ち去ると、グーヴァーは黙ってその小さな背がソレシ城へ戻って行くを見つめていた。自分が拾ってきたエスタークの孤児に、グーヴァーは誰にも言わなかったが、親しみと誇りを感じていた。ジグリットは負けん気が強く、才能に満ち溢れていた。その上、教育係のマネスラーがぶつぶつと文句を垂れるほどに、頭がいいらしいとも聞いていた。
あの子は必ずジューヌ様のお役に立てる唯一無二の存在となるだろうと、彼はこの時すでに確信していた。




