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ゲルシュタイン帝国、血の城の三階にある一室。
扉が開いたとき、幼い皇女はまだ寝室の中央にある寝心地の良い寝台で眠っていた。彼女の小さな躰に、その寝台はあまりに大きかった。おかげで、寝室に足を踏み入れた者が一瞬、皇女の存在に気づくことができないほどだった。
侍女は恐る恐る寝台に近づき、深い眠りの中にいる皇女に声をかけた。
「ノナ様、リネア様がお越しです」
ゲルシュタイン皇帝の妹であり、兄と同じ白金の髪をしたノナは、人形のように突然、眸を開けた。真紅の眸が鎖蛇の彫られた銀の天蓋を、それから寝台の横で中腰になっていた侍女を映す。
「おねえさまがきているの?」彼女は子供らしい舌ったらずな声で訊ねた。
「はい、ノナ様。リネア様がいらっしゃっています。何かとてもお急ぎのようですが、いかが致しましょう」
ノナは小さな拳で両方の眸をごしごしと擦り、寝台の上を這って端まで来ると、侍女に両足を突き出した。靴を履かせてもらうためだ。それから鏡の前に行き、侍女におかっぱの髪を整えてもらうと、続き部屋へ行こうとした。
「あ、わすれてた」
すぐに彼女は寝台に戻ってきて、大切な八本足の蜥蜴の人形を手に取った。人形は人形らしく、ぎゅっと掴まれて少女の胸に抱かれる。
「おはよう、ドュエちゃん」ノナが声をかけた。
すると、蜥蜴の人形は急に魂を入れ込まれ、ぴんと尻尾を伸ばしたかのように、侍女には見えた。
続き部屋には、すでにリネアが緑の天鵝絨張りの長椅子に腰かけ、義妹を待っていた。長椅子の背凭れを挟んで、後ろには侍女のアウラが立っている。
「おはよう、ノナ」リネアは部屋へ入ってきた少女に微笑んだ。
「おはようございます、おねえさま」
リネアは、ノナと二人きりで話したいと告げ、アウラを部屋の外に出した。ノナの侍女も敷布を台車の籠に入れ、さっさと出て行く。
皇妃と皇女は向かい合って座った。
「こんなはやくにどうしたの?」ノナは問いかけ、初めてリネアの唇に裂傷があることに気づいた。
それほど深くはなさそうだが、一瞬、ノナはそれを兄がしたのではないかと思った。彼女の兄は、他者に対して嗜虐的なところがあるのだ。
「それ、おにいさまが?」ノナの探るような視線に、リネアは「いいえ」と疵を隠すように俯いて、否定した。本当かどうか、ノナにはわからなかった。だが、リネアの声にはこれ以上の追求を受け付けない意志が窺えた。
ノナは聡い子供だった。自分でもそうと思っていたし、そうあろうとしていた。でなければ、兄は自分をとっくに殺していただろう。彼女のたくさんの兄達をすべて殺したように。
リネアは向かい側に座ったまま、どう切り出そうか迷っているようだった。ノナは義姉が口を開く前に、腕に抱いた蜥蜴のドゥエちゃんに問いかけた。
――ねぇ、ドゥエちゃん。おねえさま、なんのようかしら?
八本足の蜥蜴は、陰鬱な緑の眸をぎょろりと動かし、創造主を見た。ノナは人形が野太い男の声で、囁くのを聞いた。
『リネアの人形は城から逃げた』蜥蜴は言った。
――おねえさまのにんぎょう? ジグリットってこのこと?
『そうだ。ジグリットが逃げた。リネアはおまえに視てくれと頼みに来たんだろう』
ノナは顔をしかめた。そのとき、リネアがようやく口を開いた。
「ノナ、こんな事を頼める義理ではないのだけれど」
紅い眸をした皇女には、蜥蜴のおかげでリネアが何を言うのか、もうわかっていた。
「わたくしの弟が、どうやら城から逃げ出したようなの」
リネアはジグリットのことがあまりにも気がかりなのか、いつもの皇妃らしくなく、自信がないただの女性のようにうなだれていた。彼女は膝の上で、強く左手を握り締めていた。そして、その指には細く白い指輪が嵌められている。
「それはしんぱいね」ノナは自分には関係のないことだと言いたかった。
確かに、視跡の力を使って、城の中をいろいろと覗き見るのは楽しい。兄が遊女を殺すところを見るのも、リネアがジグリットを虐げているのを見るのも。それにいっぱしの軍人を気取っている城の軍団長や、顧問官達がろくでもないことをしているのを覗くのも好きだ。
だが、今のノナはそれを魔道具使いのツザーにきつく止められていた。視跡の力を使うと、ノナの小さな躰は、なぜかとても疲れてしまうからだ。兄のアリッキーノも、視跡の力は大事なときのため、普段は使用を禁じていた。
ノナにとって、兄の言うことは絶対だった。ノナはアリッキーノを尊敬し、心服していた。狂信者がバスカニオンを敬愛するように、それは崇拝といってもいいほどの想いだった。だから、兄の意に反するようなことはしたくなかった。
「お願いよ、ノナ」リネアは、青白い顔で懇願した。「あなたの視跡の力でわたくしの弟の居場所を捜してくれないかしら? あなたの力は、一度会ったことのある者なら、どこにいても視ることができるのでしょう?」
ノナはそれを聞き、ぼんやりとジグリットの顔を思い出した。ノナは以前、蛇の庭でジグリットと出会っていた。リネアと同じ錆色の髪と眸をした男の子だ。年齢は兄より少し年下といったところだろうか。ほんの少し、ノナは不安を覚えた。もしジグリットが帰って来なければ、どうなるだろうと。
ノナはリネアが、ジグリットに何をしていたのかを知っていた。兄ほどではないにしろ、彼女の内にも加虐的なところがある。しかし、それは兄とは違って特定の人間、すなわちジグリットにだけ向けられていた。
――もしリネアがジグリットがいないことで、さびしくておにいさまにたよるようになったら・・・・・・。
ジグリットがいたことによって、リネアは兄を見ようともしなかったが、彼を失った今、皇妃は妻として、夫であるアリッキーノに眸を向けるかもしれなかった。
――だめよ。そんなこと、ぜったいにだめ。
ノナは兄を失いたくなかった。
「いいわ。おねえさまのたのみだもの」
そのとき、腕の中で蜥蜴が囁いた。詰るような言葉を告げられ、ノナは苛立って、人形の足を引き千切った。蜥蜴は言ったのだ。『おまえは利用されているだけだ。兄も義姉もおまえの力だけを求めている。おまえの躰のことを心配もせず、力のみを欲している』と。
「ノナ?」リネアは皇女が眉を寄せ、千切った人形の足を、床に投げ捨てるのを見ていた。
「だいじょうぶ。おねえさまのにんぎょうは、かならずとりもどしてあげる」
皇女は抱いていた蜥蜴を紫壇の机に置くと、思い出すように宙を仰いだ。幼い少女の真っ白な首筋が露わになる。真紅の眸を閉じた途端、ノナの口から古代文明の言葉が溢れるように出てきた。
「アヴァ・イサイジナー・タヒ(わたしは瞳を凝らす者)、
プア・ウエイア・リリメリア・ネルア(隧道にさざめく星々を望み)、
クルース・ダニアサ・ピトカタヴァリリア(城砦の地下に雷鳴を見る)」
ノナの真っ赤な眸がかっと見開かれ、貌がゆっくりと正面の位置に戻った。それはまるで人形のような動きだった。リネアは彼女の眸の焦点が合っていないことに気づき、奇異な光景に顔を歪めた。
「クラー!(見よ)」ノナは叫んだ。「ゴルジュダリア・マサリ(森羅万象の回廊を)」
彼女の眸の虹彩が広がったり縮んだりした。
「クラー!(見よ)」再度、皇女は叫んだ。「タナ・ルワシャルド・クサパリフィア(己が内の器世界を)」
その声は子供のものとは思えない鋭さを備えていた。
リネアは、ノナに対し初めて戦慄した。子供の躰の中に別の者が入っているようだ。
「アヴァ・イサイジナー・タヒ(わたしは瞳を凝らす者)、
ザタ・ルオウーナ・アヴァッリ・アフビード(すべてがいま眸の前に存在する)」
ようやくノナの異様な声が止んだが、彼女の眸の虹彩は広がったままだ。眸の中に白い場所はどこにもない。すべてが血で塗られたように、真っ赤に染まっている。
「あれ?」と彼女は声色を子供に変えて呟いた。
「どうかしたの?」リネアが訊ねる。
「みえない」ノナは不思議そうに言った。「なにもみえないの」彼女の眸はまっすぐ前を見ているようだ。
「どういうこと?」もう一度、リネアが問いかける。
しかし、ノナにもそれがどういうことなのか、まったくわからなかった。皇女は首を傾げ、それから真っ赤に染まった眸をぱちぱちと瞬かせた。
「わかんないわ。どうしたのかな? なにもみえない。こんなこと、はじめてよ」
「ジグリットの顔を覚えていないってことはない?」リネアは身を乗り出していた。不気味な皇女の真紅の眸を覗き込む。
「いいえ。ちゃんとあのこのことは、おぼえているわ。でもなにもみえない。もやもやしてるの」
ノナは手探りで机の上の蜥蜴の人形を探した。リネアが取ってあげようとすると、突然、蜥蜴は自分からノナの手に飛び上がった。そしてノナが自分の耳元に寄せると、何かを囁いた。