第六章 追跡、そして暗愁の獣
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鉛灰色の厚い漆喰壁に囲まれた狭い部屋だった。一つだけある窓は鎧戸が閉められ、室内は暗く重い空気がどっしりと居座っている。しかも部屋の中は、じっとしていても首が汗でべっとりと濡れるほど暑かった。
ジグリットはざらついた麻の敷布の上で身じろいだ。ブザンソンが部屋を出て行ってから、すでに長い時間が経っているはずだ。二時間、もしくは三時間。それとも四時間だろうか。時間を示すものはなく、窓から差し込む光もないので、時間の経過がまったく計れなかった。
起き上がろうとしたが、ジグリットの意志に反して、躰はまったく動かなかった。頭痛が酷く、熱が高いのが自分の呼吸の荒さでわかる。やはり無謀だったのだろうか、とジグリットは鈍くなっている頭で考えた。
血の城を出てから、ブザンソンは帝都の奥まった一角にある遊里に彼を連れ込んでいた。移動するにしても、そうできないほどジグリットの体調が優れなかったせいだ。血の城で与えられていた薬がどれほど高価なものだったのか、ジグリットはここへ来て初めて知った。ブザンソンは知人の商人に銀製の首輪を売って薬を手に入れてくれたが、医者を呼んで足がつくような真似はできないからと、包帯を替える以外はジグリットをこの部屋に寝かせていた。
「坊や、起きたのかい?」
突然、戸が開いて女性が一人入って来た。この部屋の本来の主である遊女のアサラだ。
「すみません、ご迷惑をかけて」ジグリットはなんとか力を振り絞って起き上がった。
「あら、ブザンソンの連れにしちゃ、礼儀のしっかりしてること。いいのよ、気にしなくて。あんたの世話代に多少の手当てを貰ってんだから」
アサラは寝台の横の盥から濡れた手拭を取り出し、軽く絞ってジグリットの額に押しつけた。そのとき盥の陰に丸まった小さな生き物がいるのに、ジグリットは気づいた。猿の形をした練成人形だ。ヴェネジネはジグリットが起きたのに気づいて、甲高い声で鳴いた。
「坊やなら大丈夫よ」アサラがヴェネジネに言った。
彼女は仕事柄なのか、薄い透けた袖なし上衣に下着にしか見えない短い下衣姿だった。上下とも躰にぴったり張りついていて、線が顕わになっている。再び寝台に横になりながら、ジグリットは訊ねた。
「ブザンソンはどこに行ったんですか?」
「彼なら買い物に行くって出てったわ」
戻って来るとわかり、ジグリットはホッとした。今はまだ彼の力が必要だった。ジグリットが安堵していることに気づいたのか、アサラは微笑みながら、寝台の横の椅子にかけた。その肩にちょろちょろとヴェネジネが登って行く。
「ねぇ、坊や。あんた、ブザンソンの従兄弟の息子だっての、本当なの?」
ジグリットはうろ覚えだったが、ブザンソンが荷馬車でそうしようと言っていたことを思い出した。
「ええ、そうです」ジグリットは頷いた。
「それであいつの商売の手伝いをしてるってわけね」納得したようにアサラが息をつく。「それにしても、災難だったねぇ。ゲルシュタインには滅多に賊なんか出ないんだけど、たまにムルムルの森やカミース川の辺りに出るんだよ。足だけで済んでよかったよ、本当に。やつら、盗るだけじゃなく、命まで奪うらしいから」
「・・・・・・そうですね」多分、自分の寝ているときに、ブザンソンが作り話をして彼女に聞かせたのだろう。相槌を打ちながら、ジグリットは笑みを浮かべた。ブザンソンが他にどんなことを彼女に話したのかわからない以上、アサラの話に合わせるのがいいだろう。
「こんな所だけど、ゆっくりしてけばいいよ」狭くて暑苦しい部屋を見回し、申し訳なさそうな表情でアサラは言った。「ブザンソンは金の亡者だから、仕事が遅れるとかぶつぶつ言うだろうけどさ。どうせ放っておいたって、帝都で別の仕事を見つけちゃ、やってるぐらいだもの」
「ハァ・・・・・・」と、とにかく頷いておく。
「昨日だって、貴族の屋敷で国外への荷運びやら何やらと、莫迦みたいに仕事を引き受けて回ったらしいしねぇ。早速、伝書鳥でウァッリスの仲間を呼ぶって言ってたよ」
ブザンソンの仲間、というのがピンとこなかったが、仲間がウァッリス公国にいるということは、彼の商売は組織だったものなのだろう。
眉間を寄せて考えていると、ジグリットが不安がっていると勘違いしたのかアサラが苦笑した。
「心配しなくても、幾ら仕事でもあんたを置いて行ったリはしないよ。多分だけど。ほら、あいつ金が絡むと性格変わるから」
アサラはブザンソンのことを本当によく知っているらしい。
「あなたとブザンソンは・・・その・・・・・・」
どういった関係なのかを訊ねようとすると、アサラは明るく笑った。
「ああ、あいつはただの客よ。とはいっても、金で支払ったことなんて一度もないけどね。ベトゥラやアルケナシュの珍しい貴金属や装身具なんかをくれるの。その方が金を払うより、ずっと安くつくって言ってたわ。失礼しちゃう」
それでも本当に怒っているわけではなく、それを許容する愛情のようなものを、言葉の端々にジグリットは感じた。
彼女が夜の準備のため着替え始めると、ジグリットはまた眠りについた。次に起きたときには、寝台の横にブザンソンが腰かけていた。
「よぉ、調子はどうだ、チョマ」ブザンソンは膝にヴェネジネを乗せ、広げていた長い羊皮紙から眸を上げ言った。
チョマ、というのはブザンソンがジグリットに勝手につけた名だ。ジグリットと呼ぶのは逃げている都合上、良くないのはわかるが、チョマという名前には不満があった。だが、ブザンソンがアサラにそう説明したらしく、すでに彼女にチョマと呼ばれていた。ブザンソンの従兄弟、スタンリーの息子、チョマ。それが今のジグリットの仮の姿だった。といっても、打ち合わせたわけでも何でもない。気づけばブザンソンにそう役を振られていたのだ。
「今日は滋養のつくものを持ってきたぜ」
ブザンソンは膝の上で白い布の包みを開け、それを寝ているジグリットによく見えるよう持ち上げた。見る前からその強烈な香辛料の臭いで、ジグリットには何なのかわかっていた。確認のため胡乱げに眸をやると、やはりそこには煮込んだ羊肉がたっぷり盛ってあった。
「それ・・・昨日も食べた」ジグリットは嫌そうに言った。
「文句言うな! これは栄養たっぷりだ。そのうえ安い! 二人分でたったの五百ルバントだぞ」ブザンソンは嬉しそうに、狭い部屋の中央を陣取っている古い樫の机にそれを置くと、別の包みを二つ開けた。ヴェネジネは跳ねて行って、机に飛び乗ろうとしたが、ブザンソンに叱られて彼の寝台に上がるとふてくされて丸くなった。
「まるめろの砂糖漬けと、野菜の煮物も買ってきたぞ。二つ合わせて、六百ルバントだ。これも大まけしてもらったんだぜ。それにアサラから豆の粥も貰ってある」
「食べたくない」ジグリットは布団を引き上げ潜り込んだ。
「まあ、そう言うなって」ブザンソンはジグリットの布団を剥がして、無理やり腕を引っ張り起こした。
「ほら」と粥の入った深皿を渡される。
温めたばかりなのか、豆の粥からはまだ湯気が立ち昇っていた。
羊の肉は臭いがきついので、弱っているジグリットにとって、それはある意味試練だったが、躰のことを考えると無理にでも口にするしかなかった。これ以上、ここに居座るのは誰にとっても良いことではない。
「食ったら、薬を飲めよ。その後、包帯を替えてやる」ブザンソンはジグリットに合わせて、自分も粥を啜りながら言った。
「すまない、城から連れ出してくれたのに、迷惑かけて」なんとかブザンソンが粥の上に置いた三つの羊肉の塊を口にしたジグリットが一息つきながら謝ると、ブザンソンは遠慮なしにあと二つの肉を寄越した。ジグリットは思い切り顔をしかめた。
「・・・・・・そうだな。だが、今は心配すんな。どこに行くにしろ、まずは足の疵口が塞がってからだ。じゃねぇと馬にも乗れやしねぇ」
ブザンソンが言うことはもっともだった。ジグリットは我慢して、盛られた肉に齧りついた。肉に絡められた香辛料の強い香りが、部屋に充満していた。
食事の後、包帯を替えてもらったジグリットは再び眠りについた。夢と夢の間で、何度か男達のにぎやかな笑い声が聞こえた。階下の店で、アサラ達、女を囲んで酒でも飲んでいる団体客だろう。それからまた一つ夢を過ぎると、今度は聞き知った声が聞こえた。
「ったく、とんだ仕事を受けちまったぜ」ブザンソンはゲルシュタイン訛りのわかり難い声でぶつぶつ言った。「人の輸送はいいとして、病人だなんて聞いてねぇぞ」
しかしジグリットはまだ夢と現の狭間にいて、その意味を考えることもできなかった。ただ耳から入り込み、それはゆっくりと夢に上書きされ消えていった。




