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廃棄処分の洗濯物の入った樽が脇門から出されて、数時間が経過したようにジグリットは感じていた。だが、時間の感覚は時々で違うもので、実際は数十分ほどだったかもしれない。
ブザンソンは荷馬車で大手門から出たら、脇門に回って樽を拾いに行くと言っていたが、ジグリットは本当に彼が迎えに来るかどうか、半信半疑だった。もしブザンソンが待っても来なかった場合、誰かが回収に来る前に、ここから出て逃げなくてはならない。
樽の中で、ジグリットは何度か、一人でここから出て逃げようかと考えた。リネアが追手を出すにしても、朝までは大丈夫なはずだ。それまでに帝都に潜り込み、身を隠せばいい。だが、身を隠すにしても、ジグリットは無一文だった。左足もあまり良くなっていない。
紫暁月のナウゼン・バグラーはタザリアより何倍も陽射しが強く、日中の気温も高かった。逆に夜になるといきなり冷え込んだりもする。そんな場所で金も持たず、寝床もないとなると、今より体調が悪化する恐れがあった。
――どれぐらい経ったんだろう。
ジグリットは暗い樽の中で躰をずらし、蓋の隙間を探して外を窺った。暗闇に眸が慣れたのか、外は少し明るく感じる。藁の混じった土塀のようなものが、樽の真上に見えた。城壁の庇の部分だろう。他に人の気配などはない。耳を澄ましても、人どころか、鼠一匹通っていないようだ。
――本当に来るんだろうな。
不安だけが募ってくる。仮にブザンソンが来ないとして、この樽の蓋をどうやって開けるかも問題だ。樽の枠が少し高めに造ってあり、押し込んだ蓋の上を止め木が貫いているだけだが、内側から見ると取りつく場所すらない。
――まぁ、元は葡萄酒樽な上に、入っているのは屍体だもんな。
つまり内側から開けることなど考えてもいない造りなのだ。蓋の隙間に、指が入るかやってみたが、まったく駄目だった。上衣の中で丸まっているヴェネジネにも無理だろう。彼女の手にそれほどの力があるようには思えない。
それから数十分、ジグリットは樽の中で長く陰鬱とした気分を味わった。今後のことを考えるには、ここは暗すぎたし、あまりに死の臭いが立ち込めていた。それでもジグリットは、一度として、リネアの許に帰りたいとは思わなかった。それだけは、後十日この樽に閉じ込めるといわれてもごめんだった。
彼女のしたことはジューヌの名を騙った孤児にするには、当然の報いだったかもしれないが、タザリアを犠牲にすべきではなかった。前王のクレイトスとした約束までもが、リネアに踏みにじられたように、ジグリットは感じていた。
――タザリアの王女として決着をつけたかったのなら、彼女はぼくを殺すべきだった。
ジグリットには、リネアのしたことがまったく理解できなかった。そして、彼女と一緒にいることが、ひたすら苦痛でしかなかった。彼女はジグリットの予期しないときに怒ったり、優しくなったりするのだ。
彼女の方から問いかけておいて、素直に答えたら撲たれたこともある。疎ましく思っているなら、わざわざ話しかけなければいいと、ジグリットは思うのだが、彼女から近寄ってきて、苛立ったり気に食わなかったりするたびに、酷い目に遭わされた。
ジグリットは暗がりの中で、彼女に対する恐れが、寒気のようにぞくぞくと襲ってきて、大きく身震いした。他のことを考えた方がよさそうだ。
――ブザンソンはまだなのか!?
もう随分待っている。
――やはり彼は来ないんじゃないか。
そう思い始めて、ジグリットは体調のことも考えずに、強引に胸に埋められたニグレットフランマを稼動させた。
蓋に両手をつき、一度息を吐き出すと、次の瞬間、全力で押し上げた。最初の瞬発力で、外側からバチッと何かが割れた音がした。敷布のせいで踏ん張ることができないため、長くは持たないことはわかっていたが、両腕を突っ張って無理やり押し上げる。右足を樽の中で立て、肩の力まで使って、ばねのように全身を伸ばした。
直後、蓋の厚みのある羽目板が二枚、外に向かって折れた。ジグリットの両腕だけが外に出た形だ。手探りで止め木を抜くと、ようやく蓋を取っ払って、ジグリットは樽から顔を出した。外の新鮮な空気がどっと押し寄せてくる。
口を開けて息を吸い込みながら、ジグリットは大手門の方角の城壁沿いに一台の荷馬車が停まっているのを眸にした。男が一人、こちらに向かって歩いてくる。
ブザンソンは手前で立ち止まると、樽に半分埋まったままのジグリットを見下ろした。
「すんごい莫迦力だな!」
蓋を割ったところを見ていたらしい。ジグリットは魔道具の作用で、まだ苛々していた。
「あんたが遅いからだ」睨みながら言う。
「悪ぃ悪ぃ、ちょっと手間取っちまった」ブザンソンは悪びれずに謝った。
「あんまり遅いから、もう来ないのかと思ったよ」
怒っているジグリットを、ブザンソンが持ち上げて、樽から出す。
「そんなわけあるか。おれっちの可愛いヴェネジネを置いていけるか!」
ジグリットは顔をしかめた。大の男が人形にこれほど執着しているのも、ちょっと気味が悪い。しかし、上衣に手を突っ込んで、ジグリットは彼にヴェネジネを渡した。
樽の外に出たことに気づいたヴェネジネが、急に元気を取り戻して、ブザンソンの頭に取りつく。ブザンソンは辺りに誰もいないことを、もう一度確かめると、何も言わずにジグリットを小脇に抱えた。
「ちょ、ちょっと・・・・・・」驚いたジグリットが、腰に回った腕を外そうともがく。
「黙ってろ。こっちの方が速い」ブザンソンは人一人を抱えているとは思えない大股走りで、荷馬車まで駆け戻った。そしてジグリットを荷台に降ろす。「ほら、こっちに座ってろ」そう言って、自分はヴェネジネを頭に乗せたまま、御者台に行ってしまう。
ジグリットは溜め息をつきながら、荷台の上をひょこひょこと跳ねて座る場所を探した。すると、端に一人の少女が蹲っていた。
「この子は?」御者台に向かって訊ねる。
ブザンソンは振り返りもせず言った。「荷だよ。荷台に載ってんだから」
仕方なくジグリットは、少女から少し離れたところに腰かけた。
「なぁ、ブザンソン。あんた、知っていたのか!?」
馬車が走り出す。
「何がだ?」とブザンソンが訊き返した。
「樽の中に屍体があった!」ジグリットが鋭い声で言うと、ブザンソンはしばらく沈黙し、それから思い出したように答えた。
「ああ、それか。そうだよ、だからあの樽は外に出すことになってんだ」
あまりに明るい返答だったので、ジグリットはなぜか、どっと疲れた気分になった。
「それかじゃないよ! 前もって言っておいてくれよ! びっくりしたんだぞ」
肩や頭が重く感じ、思考が鈍ってきている。そう自覚したときには、ジグリットの瞼は塞がっていた。平衡感覚が失われていく。
――ニグレットフランマの反動だ。
ジグリットの躰は荷台にぱたりと倒れ、疲労と安堵が眠りを連れてくると、簡単に意識を手放した。




