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一階の北西にある一角に、衣服室があった。衣服室は血の城で働く者のすべての服が置いてあるだけあって、壁際の収納棚と、何十と並び立てられた衣装掛けが部屋の奥まで続いている。そして横の洗濯場は、浴場のように床がほんの少し斜めになった陶板張りで、大きな竈が二つ、そして洗濯物を扱く木の箆が六本、あるべき場所に収まっていた。床は丁寧に水を流された後のようで、半乾きの状態だ。
ジグリットは衣服室から洗濯場を覗き、そこにも誰もいないことを確かめた。すでに夜半ということもあって、洗濯物を持ってくる者もいないようだ。
腰に結わえていた洗濯物の袋をジグリットは外した。それを大人が両腕を広げたくらいある大きな藁の編み籠に放り込む。そこには半分ほど、同じような袋が入れられていた。さっさとブザンソンの言っていた大型の木製樽を探す。すると、藁の編み籠から矢のように何かが飛んできて、ジグリットの頭に張り付いた。
「うわッ!」背後から頭にそれが引っついたので、ジグリットはぎょっとして飛び上がりそうになった。
鷲掴むと、それはジグリットの髪を抱きかかえたまま、キィキィ鳴いた。それはヴェネジネだった。
「なんだ、おまえか」言ってからジグリットは、ヴェネジネを洗濯物の袋に入れたまま、編み籠に放ったことに気づいた。「悪かったよ、おまえが入っていること忘れてたんだ」
ヴェネジネは本物の感情を持った生き物のように、ジグリットの引き剥がそうとする指に噛みついた。だが、二本の犬歯しかないヴェネジネに噛まれても、ジグリットはちっとも痛くなかった。
「悪かったって。機嫌直してくれよ」頭にヴェネジネを乗せたまま、ジグリットは木製の大型の樽を見つけた。元々は葡萄酒樽だったようだ。蓋を開けると、中にはすでに敷布がこんもりと入っている。
「これからしばらく狭い場所で一緒なんだから、仲良くして欲しいんだ」ヴェネジネに言い聞かせると、練成人形はさっさと樽に飛び込んだ。
ジグリットは参ったな、と呟きながら、自分も側にあった敷布を被り、先に金属棒を、それから苦労して樽の中に入った。後から蓋を取り、自分達の上に載っけると、樽の中で蹲る。
急に時間が停まったように、しんと静まり返った。これで本当にうまくいくのかどうかは、ジグリットにもわからなかった。ブザンソンは血の城の洗濯場で始末できないものは、夜のうちに門の外に廃棄用として出されると言っていたが、ジグリットにはこの敷布の入った樽がなぜその対象なのか、理解できなかった。
敷布なら横の洗濯場で洗えばいいのだ。しかも、汚れているようには見えなかった。ジグリットがもしかして別の樽だったのか、それとももうその樽は外へ運ばれてしまったのかと不安になり始めた頃、人の声が聞こえてきた。複数の人間の声だ。それは廊下の先からこちらに向かってきているようだった。
ジグリットはヴェネジネが敷布のどこに隠れているのかわからないのが不安で、手探りで彼女を探した。しかしヴェネジネは探り当てられない。思った以上に深く、手を突っ込んでも底につかないほどだ。
そうこうしているうちに、声の主は衣服室に入ってきた。声の様子から、少なくとも三人。全員、男だ。彼らはタザリアとは少し違ったゲルシュタイン訛りが窺えた。砂漠の風のように、聞き取り難いざわついた感じだ。ジグリットは息を押し殺し、物音を立てないよう小さくなって、自分に巻いた敷布をさらに引き寄せた。
「なぁなぁ、確か侍従長が今日は廃棄処分の洗濯物があるって言ってなかったか?」若い男の声だ。
別の声が答えた。「そう言えば、陛下の寝室の始末したって、他のやつが言ってたぞ」
「またか。いい加減、結婚なさったら落ち着くと思ったんだけどなぁ」
三人はそれから少しくだらない話に興じていたが、やがて一人がジグリットの入っている木の樽に近づいて来た。
「これだこれ。さっさと運んじまおうぜ」
「蓋開いてるぞ」
ジグリットがいい加減に載せた蓋を、一人が持ち上げる。ぎくりとして上を見ていたジグリットだが、別の男が「あーあー」とだるそうな声を上げて、蓋をガンと押し戻したので、ほっとした。
「いいって、見たらまた寝れなくなるぞ」
「それもそうだな」
蓋に止め木が挟まれる。樽の中は真っ暗になった。ジグリットは眸をぱちぱちと瞬かせたが、樽の板はきっちりと嵌め合わせてあり、蓋もまた隙間がない造りだった。暗闇でジグリットが困惑していると、急に樽がぐらりと傾いた。
「今回はちょっと重そうだな」男が外から言うのが聞こえる。
「だな。台車を使うか」
ふいに、ふわりと躰が浮いたように、ジグリットは感じた。
「お、本当に結構重いな」
樽は三人に持ち上げられ、すぐに台車へと載せられた。続いてガタガタと揺れ始めたので、ジグリットは自分が衣服室から出て行くところだと気づいた。
「おれが運んでくから、おまえらはみんなの洗濯物を洗濯場に移しといてくれや」真上から男の声がする。
「わかった」と二人が揃って言うのが聞こえた。
それからしばらくは、車輪がガタガタ鳴る音だけになった。地図で見た脇門までは距離がある。この洗濯物の樽は、血の城の正門ではなく、脇門と呼ばれる小さな門から出されるはずだった。この調子なら、誰に見咎められることもなく、血の城から出ていけそうだ。ジグリットはもう安心しても良さそうだと思っていた。
衣服室を出た台車は洗濯場を横切って戸口から出ると、すぐにそこは大手門が見える内郭だった。外の地べたの上を行く車輪は、時折細かい石を噛んで揺れたが、ジグリットは敷布に包まってじっとしていた。
暗いからか、それとも運び手が雑な性格なのか、荷台の上で樽は激しく揺れていたが、男は一度も立ち止まらなかった。
そして数分が経った頃、ジグリットは足元で何かが蠢いているのに気づき、それを手で捕まえた。暗闇のせいで、はっきり見えないが、感触でヴェネジネだとわかる。ヴェネジネは手の中で嫌々と首を振ったり、脱け出ようともがいていたが、ジグリットがぎゅっと掴んだままでいると、やがて諦めたのか、抵抗するのを止めてぐったりとした。
ヴェネジネが鳴くと困るものの心配になって、ジグリットは彼女をそっと自分の顔に近づけた。そのとき、嫌な臭いが鼻についた。ジグリットのよく知っている臭い。
――これは・・・・・・血の臭いだ。
鼻先に近づけたヴェネジネは、怪我をしている様子ではない。それに練成人形であるヴェネジネが血を流すことも、ありそうになかった。
――だったら、これは誰の血だ?
ジグリットは左足の疵が開いたのかと思ったが、自分の包帯に触れてみても、そこは乾いていた。次に彼は何重にもなった自分の下にある敷布を触った。そのとき、指先に硬い感触があった。
――これ、なんだろう。
ジグリットはそれを掴み、片手で捕らえていたヴェネジネを自分の上衣の中に入れた。ヴェネジネは大人しく腹部の辺りで丸まっている。取り上げたものを顔の前に翳すと、それはさらに濃い血の臭いを齎した。
――これが原因か?
楕円形の親指ほどの大きさの塊だ。暗がりの中で眸を凝らす。すると、それが浮き彫りの入った装飾貝であることがわかった。
台車はまだガタガタと地面を動いている。
ジグリットは装飾貝が血で濡れていることを確認し、嫌な予感に包まれた。描かれているのは女性の横顔のようだ。そのとき、地面の凹凸に樽が激しく傾ぎ、蓋のほんの僅かな隙間から、城壁の明かりが差し込んだ。装飾貝の女性がはっきりと眸に映る。髪の長い少女。それはジグリットの焦がれて止まない、バスカニオン教の主の妻、少女神だった。
ジグリットは自分の足の間を掘り返し始めた。敷布を下へ下へと捲っていく。すると、何か冷たいものに行き当たった。漂う血の臭いがさらに強くなる。その下を探ろうと敷布を引っ張ったジグリットは、細い毛の束のようなものを一緒に引っ張ってしまった。
ずるりと長い何かが指に絡みつく。外そうとして、ぐいと引っ張ると、いとも簡単にそれは千切れた。べっとりとした濡れた感触。ジグリットは自分の手を見つめた。しかし暗くて、よくわからない。
薄気味悪いと思いながらも、ジグリットは真下にあるものが何なのか、突き止めようとまた敷布を掴んだ。そしてそれを捲った。
自分の足の下に、誰かの頭部らしきものが見えた。
「・・・・・・ッ!!」ジグリットはぶるっと大きく身震いし、思わず叫びそうになった。
屍体の上に自分は座っていたのだ。立ち上がって、今すぐここから逃げ出したかった。しかし、もちろんそんなことは不可能だった。
死者の髪の毛を手に絡みつかせたまま、ジグリットは急いで敷布でその頭部を覆い隠した。だが、そうしたところで、屍体そのものが消えるわけでもなかったので、ジグリットの恐怖は治まらなかった。
――なんでこんなところに屍体が入って・・・。
――いや、それよりこれは誰なんだ!?
――ブザンソンは知っていたのか!?
ジグリットは手についた血や髪の毛を敷布に擦りつけた。ごしごしと痛いほど拭いても、血の臭いが取れない。すでに樽の中で、その鉄を含んだ生々しい臭いは充満しきっていた。怯えて、ジグリットは自分の敷布を引き寄せ、包まった。手に何か硬いものが当たる。拾い上げると、それはさっき眸にした装飾貝だった。
ジグリットはそれを両手の中に閉じ込めるように持ち、祈るように眸を瞑った。記憶の中で少女神は微笑んでいた。彼女は――アンブロシアーナは、杏の木の上から、下にいるジグリットに向かって飛んでくると、光が溢れるかのごとく微笑みかけてくれる。いつもそうだ。彼女はジグリットが知る限り、笑顔でいてくれる。杏の木の下で出会った彼女の黄金色の髪からは、いつだって太陽の香りがした。
装飾貝を手に、ジグリットは心を落ち着かせた。死者を弔うために誰かが入れたのだろうが、今は誰よりもジグリットがこれを必要としていた。アンブロシアーナのことを思うと、ジグリットの恐れは徐々に小さくなっていった。
――彼女は、どうしているだろう。
――彼女は今、何をしているだろう。
ジグリットの心は、屍体と共に樽に入っているのではなく、アルケナシュ公国の首都、フランチェサイズの大聖堂へと飛んでいた。
彼女が誰といて、どこで何をしているのか、ジグリットには想像すらできなかった。
――ああ、アンブロシアーナに会いたい。
いつの間にか、恐れは深い悲しみに変わっていた。装飾貝を握り締めると、それは記憶の中の彼女のように儚く思えた。少女神は、やがて神の力を失い、死に至る。そのことを、ジグリットはすでに知っていた。彼女の時間がどれだけ残っているのかを考えると、ジグリットは自分の足元に沈んでいる屍体が、怖いというより、ただ可哀相に思えてきた。
ジグリットは敷布を捲り、装飾貝を屍体に返した。血の臭いはもう気にならなくなっていた。しばらくして台車の車輪が止まり、樽が持ち上げられた。脇門の外に出たのだ。男は廃棄場所にジグリットの入った樽を置くと、またガタガタと車輪の音をさせながら遠ざかって行った。静かになった樽の中で、ジグリットは眸を閉じ、これからのことを考え始めていた。