第五章 暗赤色の夜明け
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血の城の中庭に沿って続く長い柱廊を、ブザンソンは小型の騾馬二頭に荷を曳かせて歩いていた。美しい蛇紋様の刻まれた柱の続く廊下は、中庭に面する側は開かれていて、昼間は芝の上に置かれた見事な大理石の泉水盤と、その奥に広がる熱帯植物園を眸にすることができるのだが、今はすべてが塗り潰したように黒かった。中庭の上空は星の一つも見えず、雲が垂れて込めているのかもわからない。
ブザンソンは先ほどから、何人かの侍女や衛兵とすれ違っていたが、彼らの誰もその商人に声をかける者はいなかった。とはいえ、眸もくれないのかというと、それもまた違う。彼らは一様に驚いたような感心したような眼差しで、ブザンソンと彼が連れている騾馬、そしてその背後にある巨大な荷を見ながら通り過ぎていくのだ。
それもそのはずで、彼が曳いている荷物は、誰の眸にも明らかだった。その巨大な戦士は、重そうな円錐形の銀の穂の付いた長槍を手に、青玉の蹄と金の鬣を持つ馬が曳く戦車に乗っていた。それは誰もが眸を奪われずにはいられないほど、立派な青銅の像だった。
凛々しい戦士はブザンソンと同じほどの背丈で、よく見ると勇ましい貌は、大陸の人間とは少し目鼻立ちが違っていた。はっきりと隈に縁取られた大きな眸に、ぼってりとした鼻、そして唇は厚く横広だった。滅多に大陸の人間が見ることはない海彼の人間。つまり、この青銅の像は、外海で作られた物なのだった。
レニーク王国やアルケナシュ公国などの外海に面した港湾都市でも、おいそれとは大陸外の物は手に入らない。バルダ大陸から他の大陸までは、あまりに遠く離れている。だからこそ、この像は誰が見ても高価な代物なのだ。眸は止めるが壊しでもしたら大変だとわかっているせいか、近づいて来るものは当然一人もいなかった。
ブザンソンが深夜にそんな荷を運んでいることを、誰も気にはしなかった。高価な代物なら、人が少ないときに運び出すのは当たり前のことだと、皆知っていたからだ。彼は二頭の騾馬が、過度に重い荷に肢がよろついているのを見て、叱咤するように一頭の尻を撲った。
「しっかり歩け! いいか、この戦士一人でおまえが百五十頭以上・・・もしかしたら二百・・・いや、値切りゃあもっとか? 買えるんだからな。壊したら生皮剥いで夕飯にするぐらいじゃ済まねぇぜ」
騾馬は言われたことがわかったわけではないだろうが、とにかく肢を踏ん張った。そして二頭揃って、よたよたとなんとか歩き続けた。人が途絶え、柱廊に誰の姿もなくなると、ブザンソンは騾馬の曳く荷に並んで、戦士の像にそっと話しかけた。
「おい、大丈夫か?」中から返答がなく、ブザンソンは眉を寄せた。「おい、息苦しいのか?」
しかしそのとき、ブザンソンの眸に前方からやって来る黒い長衣姿の人影が映った。彼は一瞬、ハッとしたように瞬きをして、戦士の像をぺちぺちと叩いて言った。
「見てみろ戦士、あれに見えるは美と学の両方を兼ね備えたと名高い魔道具使い様だぞ」
その声が大きく響いたので、前方から近寄って来ていた魔道具使いツザーは、心底うんざりしたような顔をした。
彼女が目前で立ち止まると、ブザンソンは丁寧にお辞儀をした。
「これはこれは、夜分にあなたに会えるとは光栄の至り」
ツザーの少しきつめの顔は薄暗い柱廊の松明の明かりを受け、左半面だけが橙色に彫りが浮き上がったように照らし出されていた。
「こんな時間に荷運びですか?」魔道具使いツザーは、ブザンソンの背後の巨大な像を正面からじっと見ながら言った。「まるで夜逃げの体相ですね」
ブザンソンが立ち止まったので、かしこい騾馬達はこれ幸いとすぐさま肢を止め、休み始めた。
目前の彼女の長衣から、ブザンソンはかすかにお香の匂いを感じ取っていた。嫌な臭いだ、と彼は思った。甘ったるく、毒々しい香り。そしてそれに混じっているのは、血の臭いに違いなかった。ツザーがどこに行っていたのかを考えると、ブザンソンは想像の範疇だけでも気分が悪くなった。
彼が知る限り、薔薇の香料が使われている場所は一つしかない。そこではありとあらゆる毒虫が放たれ、大した罪でもない人々が阿鼻叫喚しながら、深く暗い穴の中で死んでいくのだ。それは薔薇の洞窟と呼ばれる処刑場で、ムルムルの森深くにあるといわれていた。
魔道具使いである彼女が、なぜそこへ行っていたのかはわからないが、ブザンソンには彼女がその可哀相な犠牲者を、自分の眸で見てきたところだということは理解できた。彼は気づかなかったふりをした。
「残念ながら夜逃げじゃねぇんだな。荷を運ぶにはこの時間帯が適してる。見りゃおわかりになると思いますが、この青銅の戦士には並々ならぬ値がついてんでね。このブザンソン、儲けのためでしたら、昼も夜もない男」胸を張って言ったブザンソンに、ツザーは小さく声を立てて笑った。
だが、それは礼儀として笑ったようにしか、ブザンソンには見えなかった。なぜなら笑んでいても、彼女の琥珀色の眸は松明の光を受けて少しも揺らがず、強い輝きを放っていた。
「確かにその荷はとても高価な物のようですね」ツザーは頷いた。「ですが、騾馬二頭に曳かせるには酷というものですよ。すごく重いものでしょう」
ブザンソンは苦笑った。
「はてさて・・・おれっちが可愛い二頭の騾馬を虐めているみたいな言い草だな、こりゃ」
困惑したように、ぼりぼりと頭を掻いているブザンソンに、ツザーは横を素通りして、戦士の像に近づいた。
「どれほど立派なものか、少し見せていただくわよ」彼女はまず、戦士の乗った戦車を引っ張っている馬を端から端まで眺めた。
ブザンソンはその彼女を注意深く見ていた。
「この鬣は本当に風になびいているようだわ」金で仕上げられた一本一本の毛を彼女は指で抓もうとしたが、やはり高価なものだからか、すんでのところで手を止めた。それから、青銅でできた戦車の車輪を撫で、ようやく戦士を見上げた。
ブザンソンは気が気ではなかった。戦士の像の中には人が入っていたからだ。だが、なんとかはぐらかして、ここからさっさと離れるにしても、ツザーに微塵も不審感を持たれるわけにはいかなかった。彼女から強引に逃げるのは得策ではない。
血の城に入り込める商人は、そう多くはないのだ。それはすなわち、信頼を勝ち得て出入りさせてもらえるようになるまで、相当な労苦を積んだということでもあった。ツザーに失礼をして、それがもしアリッキーノやノナに伝われば、血の城に出入りさせてもらえなくなるかもしれない。そんなことになったら、どれだけの損害が出るか、ブザンソンは考えただけでも気を失いそうになった。
それに儲けさせてくれる得難い客を、こちらから手放すのは莫迦げている。もし、バレて問題になるというのなら、すぐさま中の人物を引き渡し、ブザンソンとしては相手に無理やり取引を持ちかけられたと言い出るつもりだった。彼の脳裏にあるのは、数字の描かれた金や銀でできた通貨だけ。他人の生命の危険など、価値としてはそのずっと後ろに並ぶべきものなのだ。
ツザーはそんなブザンソンの内心に気づくこともなければ、彼の長い細面を振り返ることもしなかった。戦士の力強い眼差しと、握った長槍が本物であることに感心しただけだった。
「本当にこれは値打ち物だと、誰もがわかる像ね」
「ありがとうございます」ブザンソンは褒められて、にまりと笑った。「ですが、陛下はあまりお気に召さなかったようで、このような深夜にこそこそ運び出すことになっちまいましたがね」
売れ残ったのだと告げるブザンソンを、ツザーは振り返った。
「でもわたしもあなたから、それなりに色々と買わせていただいたわよ」
「ええ、その節はどうも」
確かにそれは本当のことだった。血の城に赴くときは、ブザンソンはアリッキーノとの取引以外にも、ツザーを始め、様々な城の人間と売り買いをしていたからだ。
「陛下には敵わないまでも、魔道具も相当値が張るものでしょう」ツザーが言った。
「もちろんです。ツザー様は上客の中の上客。今後ともこの不肖ブザンソンめを取り立ててやってくれると嬉しいんですがね」
下手に出て、背の高いブザンソンが肩を竦めると、ツザーは腕を組んで、微笑んだ。
「もちろんよ。あなたほど手早くわたしを満足できる品を揃えられる人間はそうはいないわ。次に来たときも頼んだわよ」
彼女は機嫌良く戦士の像を一度撫で、それからさっさと柱廊の奥へと遠ざかって行った。
ふと、ブザンソンは安堵する一方で、奇妙なことに気づいた。彼は誰にともなく問いかけた。
「どうにも魔道具使いってのはわかんねぇな。あいつらは魔道具使い協会のもんなのか、それとも派遣された国のもんなのか?」
すると、戦士の像が答えた。「どうでもいいから、早く出たい」
ブザンソンはツザーの黒い長衣の背中が暗闇にすでに消えていたのに気づき、ようやく騾馬を促し進み始めた。
「もうすぐ外に出るからな」彼は戦士に優しく言った。




