3-2
「大人しくしてくれ」ジグリットが震える声で言った。
リネアは彼が何のためにこんな莫迦げたことをしているのか、その瞬間に悟った。彼の眸は恐れを湛えていた。興奮ではなく、恐怖だ。それに、ジグリットが近づいて来る音。聴こえるはずの片足での移動の足音がまったく聴こえなかった。
――つまり、これは考えたくない事態かもしれない。
リネアにしてみれば、連れて来た当初から、ジグリットが一度や二度の脱走で諦めるとは思っていなかった。だが、彼は失敗し、足を失った。これは大きな代償だったはずだ。次に同じことをしようとは、思えないほどの代償だ。
――思っていたよりジグリットが愚かだったのなら、有り得るけど・・・・・・。
それは違うと、彼女の中の何かが警告していた。ジグリットの手は彼女の口と、胸の上にあった。まだ微熱があるのだろう汗ばんだ彼の手のひらに、硬く冷たい指輪の感触がした。ジグリットの左手に嵌っているもう一つの指輪だ。
――こんな指輪一つで満足しようとしていたなんて、わたしは浅はかだったわ。
ジグリットの手は、彼女の胸の上にある金鎖に繋がれた鍵を掴んだ。それを知って、リネアの怒りに火がついた。彼女は力一杯、抵抗し始めた。ジグリットの頬を下から撲りつけ、左手に鍵を持っていかれまいと、爪を立てた。ジグリットが、クッと呻いて怯んだ隙に、彼女は身を捩って、そこから脱け出そうとした。
しかしジグリットの方が力が強く、圧し掛かった体重は容易にリネアを自由にはさせなかった。口を押さえていたジグリットの手が外れたので、リネアは声を上げようとした。しかしそれを見越して、ジグリットは彼女を拳で殴りつけた。反射的なものだったが、リネアも、そしてジグリット本人も驚いて、二人は眸と眸を合わせた。
リネアの淡紅色の唇が切れ、明かりの乏しい寝室で黒い血となって流れた。彼女は叫ぶのも忘れて、自分の左頬に指を這わせた。そこは鈍い痛みを伴って、痺れていた。
ジグリットの方が先にその衝撃から立ち直った。彼は再び彼女の口を押さえて、寝台に戻した。リネアはされるがまま、茫然とそこに転がった。細い金の鎖を引き千切り、ジグリットが鍵を手にすると、彼女は怒りを取り戻し、燃え滾った眸で睨みながら何か呻いた。
「お願いだから黙ってくれ」ジグリットは囁き声で懇願した。でなければ、彼女をもっと傷つけることになるかもしれないのだ。「こんなことがいつまでも続くわけがない。君だってわかってただろう」
彼女は再び、何か言った。だが口を押さえられているので、ジグリットには通じなかった。
「ぼくはここから出て行く。飼い殺されるなんて、真っ平だ」
そのとき、隣りの続き部屋で木が軋む音がした。扉ならブザンソンで、窓ならヴェネジネだ。リネアにも聴こえたのか、彼女は眸を見開き、初めて不安そうな表情を浮かべた。協力者がいるとは、考えもしなかったのだろう。
「ごめん」ジグリットはリネアの頭を持ち上げ、自分の胸に押しつけると、手刀で延髄に軽い衝撃を与えて彼女を気絶させた。力の抜けたリネアを寝台に寝かせると、彼女はただ眠っているように見えた。
リネアの寝台から足の代わりとなる金属棒を取り出し、それを使ってジグリットは歩き出した。居間への扉を開くと、窓の一つが開いていて、その枠にヴェネジネが座っていた。小さな猿の練成人形は、身軽にそこから飛び降り、部屋を横切って扉の前へ行くと、一度だけ小さく鳴いた。
ジグリットは扉の鍵穴がカリカリいう音に、外にブザンソンが来ていることを知った。急いで居間へ入ると、寝室の扉を後ろ手に閉める。リネアはしばらく気がつかないだろう。彼女が少しでも長く眸を閉じていてくれることを願いながら、ジグリットは部屋の中央へ歩き出した。
扉が開くと、ヴェネジネはジグリットの背ほども飛び跳ねて、入って来た男に飛びついた。鮮やかな黄色の髪を後ろで一括りした、厚手の黄褐色の防砂布を躰に巻いた男が入って来て、ジグリットを見るなり、ヴェネジネのように飛びついてきた。
「こいつは純銀の首輪だぞッ!!」ブザンソンは興奮して言ったが、それでも小声だった。
ジグリットは自分の首輪にむしゃぶりつきそうな勢いの男に、リネアから奪った鍵を渡すと首輪を外してもらった。首が寒く感じ、ようやく鎖に繋がれていないことを実感すると、ジグリットはその解放感に笑みが零れた。
ブザンソンが手にしている首輪は、確かに銀細工で立派なものだった。
「知らなかった。鎖は銀じゃなかったから」とジグリットは眸を丸くした。
「こりゃあいい! 前金はこれでヨシとしてやるぜ」ブザンソンは機嫌よく言った。それがどれほど高価な物なのか、ジグリットにはわからなかったが、ブザンソンの眸が釘付けになっているのを見ると、相当な値がつきそうだ。男は急いで首輪を自分の腰に下げたなめし革の袋に入れた。
ブザンソンはジグリットが思っていたよりも、大柄な人物だった。がっしりしているものの、見上げるほどに背が高く、そのせいかひょろ長く見えた。年齢は二十代後半といったところだろう。ヴェネジネを頭に乗せて、落ち着きなく辺りをきょろきょろ窺っている。
「殺してないだろうな?」寝室の扉を親指で示して、ブザンソンが訊ねた。
「当たり前だろう。さっさと行こう」
ジグリットは一刻も早くここから立ち去りたかった。しかし、ブザンソンは歩き出したジグリットを眸にすると、素っ頓狂な声で呼び止めた。
「・・・ん? おまえ、その足はなんだ・・・・・・!?」彼はわざわざ腰を屈めてじっくり見た。そして嫌悪感いっぱいといった表情で頭を抱えた。「騙したのか!?」
「人聞き悪いな」ジグリットは眉間を寄せ答えた。
「言わなかっただろう!」男は小声で憤慨している。
「言ったら、取引してくれた?」訊くと、ブザンソンはようやく押し黙り、しばらく唸ると「・・・・・・いいや」と首を振った。
「だろう。だから黙ってた」
「畜生ッ!」ブザンソンはさらに小声で怒鳴った。「いいか、小僧。これは契約違反だ。おれは中止して一人で出てくこともできるんだぞ」
「そんなことはさせない」ジグリットが睨みつける。
まったく反省していないジグリットに、ブザンソンは指を突き出した。
「だったら一つだけ聞け。ここからおれの言うことは絶対に遵守してもらう。おれを騙すような真似は二度とするな」
彼が自分を見捨てるつもりがないことを知り、ジグリットは安堵した。
「ありがとう、ブザンソン」
「やめろ! 礼なんか言うな! 聞きたくもない」本当に嫌そうにブザンソンは顔を歪めて背を向けた。