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朝からリネアの機嫌は恐ろしいほど良かった。彼女はいつものようにジグリットを起こし、それから彼を抱きかかえて食卓へ連れて行き、毒味と称して無理やり食事をさせた。逆にジグリットは今夜のことを考えて眠れなかったせいか、熱があり頭痛と吐き気に襲われていた。
「ねぇジグ、いいものを見せてあげるわ」リネアは窓際のいつもジグリットが座っている場所に彼を連れて行った。そして自分は侍女のアウラの許へ行き、彼女から何かを受け取った。
振り返ったリネアが白いニインチ四方の木箱を持っているのを、ジグリットは眸にした。それが何かわからなくても、リネアの機嫌が良いときは、自分にとっては災いのときだとジグリットは知っていた。だから無表情に視線だけを動かした。
リネアは箱を大事そうに持って来ると、ジグリットの前で中腰になった。
「ジグリット、あなたの左足がどうなったのか、知らなかったでしょう」彼女は微笑みながら言った。「アリッキーノに渡した後、彼はろくに見もしないで捨てろって言ったのよ」
ジグリットは自分の欠けた部分と、その場所にいるリネアを覇気のない眸で見つめた。足がどうなったのかなど、考えたくもなかったので、その話はジグリットを胸苦しくさせた。捨てられた後、犬に喰われたか鳥に喰われたか、それともまだどこかの路地の芥入れで腐敗臭を垂れ流しているのか、どれにしても聞きたくなかった。しかしリネアは黙らなかった。
「捨てられた左足のことを考えているのね、ジグリット。可哀相に」彼女は左足の太腿を優しく撫でた。
痛むはずのない場所だったが、ジグリットは背筋がぞわぞわして、彼女の手を振り払いたかった。もちろん、そんなことをしようものなら、彼女のくだらない嗜虐性を煽るだけだとわかっていたので、ひたすら我慢した。
「でもね、悲観することないのよ」リネアは眉間を寄せているジグリットを、喜悦の篭った眸で見つめた。「ちゃんと拾ったわ」
意味するところがわからず、ジグリットは瞬きをした。
「拾ったのよ、あなたの足」彼女はくすくす笑った。そして食卓を片付けている侍女にも声をかけた。「ねぇ、アウラ。あなた拾ってきたのよね」
アウラはジグリットと同じように、顔をしかめていた。嫌悪の混じった暗い眸をして、アウラは頷いた。
「はい、リネア様。捨ててあったジグリットの足を拾って、わたしが厨房の鍋で煮立てて、骨を取り出しました」
ジグリットは彼女の言葉に愕然とした。しかしリネアはアウラが続けるのを待っていた。侍女はリネアの視線を受けて、その続きを渋々、口にした。
「わたしは帝都一といわれる彫り細工師に頼んで、リネア様の図案通りに彫らせました。出来は・・・・・・見ていただければわかります」
「偉いわね、アウラ。あなたって本当によくわかってるわ」
リネアが褒めると、それまでの表情とは打って変わってアウラは頬を赤らめた。だが、ジグリットはいまだ愕然としていた。彼女達は一体、何を言っているのかと眸で訴えていた。
「ジグリット、そんな表情をしないでちょうだい」リネアは左太腿から手を離し、今度はジグリットの頬を撫でた。「鹿や猪の骨より、人間の骨の細工の方がずっと綺麗よ。真っ白で艶があるの。それにね」彼女は箱に手を戻し、それをジグリットの眸の前に持ち上げた。「お揃いなのよ」
リネアが白木の箱を開けた途端、ジグリットはそれを見て嘔吐した。
夜になると、風の音が鎧戸をガタガタと鳴らし始めた。外は酷い風が吹いているようだ。ゲルシュタイン帝国の首都、ナウゼン・バグラーより西には、砂丘と熱と少ない緑地が点在するだけのオス砂漠が控えている。風はほとんど一年中そこから吹きつけてきて、どこもかしこもを砂だらけにする。窓の隙間から入ってくる砂粒を、アウラが毎朝、ぶつぶつ文句を垂れながら掃除していることが、ジグリットには無駄に思えた。
今夜の風も激しく砂を巻き上げているのだろう。リネアに寝室に連れられてから、ジグリットは寝台の上に座って、徐々に五感を鋭敏にし始めていた。耳を澄ますと、アウラが皇妃の寝室の隣りにある自分の部屋で、蝋燭に火を点けているカチカチという音が聴こえた。
リネアは表情のないジグリットが、いつもより神経質になっていることに気づいていた。しかし、それは午前中に例の物を見せたことによる影響が、まだ残っているのかと彼女は考えていた。
柔らかく軽い羊毛の布団に包まり、リネアはもうすっかり寝る態勢だった。彼女はジグリットが小部屋の寝台に座ったまま、明かりの消えた室内で本物の人形のように動かないのを見て言った。
「さっさと寝たらどうなの? 目障りよ、ジグリット」
彼女は寝返りを打ち、ジグリットに背を向けた。そして自分の左手の小指に嵌った白い指輪を見つめた。それはあまりにも綺麗だった。貝殻でできた細い輪のようにも見えたし、真珠のように光沢もあり、さらに月長石のように硬かった。リネアは指輪の表面に彫られた紋章の浮き彫りに、ほくそ笑んだ。指でなぞらなければわからないほど薄く彫られたそれは、明らかに単一の炎であり、彼女が本来用いなければならない蛇の姿はどこにもなかった。
――炎にまとわりつく蛇がいないって、素晴らしいことだわ。
それに、と彼女は何かを成し遂げたような興奮を感じながら指輪に触れ続けた。
――まるでこのためにジグリットの足を切ったような気さえしてくるわ。
それはリネアの指にぴったりだった。白く細い彼女の指に。眺めたり触ったりしながら、リネアはジグリットの足の骨を心ゆくまで堪能した。白く磨かれた骨は、生々しい血の匂いや肉の脂がそこにあったことを微塵も感じさせなかった。ジグリットの躰に入っているものがこれほど美しいことに、リネアは驚嘆すらしていた。
だが、その美しいものを眸にしたときのジグリットを思って、ふいに喜びに翳が差した。ジグリットが突然、嘔吐したことには驚いたが、リネアにしてみれば、それがあまりの衝撃からくるものだとは考えもしなかった。ジグリットが畏怖とおぞましさに耐え切れなかったことを、彼女は理解しなかった。
――わたしと同じものなのが、気に入らなかったのかしら?
まさか、そんなことがあるはずない。リネアは思った。
――朝からだるそうだったから、調子が悪かっただけなんだわ。
ジグリットにも同じ型の指輪をあげたのだ。だが、彼は嘔吐して、椅子から倒れ落ちた。ジグリットの指にリネアが嵌めると、彼の眸は明らかに嫌がっていたが、ここのところ感情の起伏のないジグリットにどんな表情が表れても、リネアは嬉しかった。
――よく見ればジグリットにも、どんなにこれが美しいものかわかるはず。
指輪は白く輝いていた。再び眸を奪われたように、リネアはそれに見入った。そのときだった。背後から黒い影が覆い被さり、すぐに何かが自分の上にずしりと乗り上がった。
悲鳴を上げようとしたリネアの口に、熱い手が押しつけられた。躰を動かして見た相手は黒い影のままだったが、その影の形からジグリットだとわかったので、リネアの恐怖は瞬時に消えた。彼女は眸だけ見開いて、彼を睨みつけた。