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それがただの鳥なら、多分放っておいただろう。だがそれは、鎧戸が開いていたとはいえ、鉄格子を潜って入って来た。
最初、ジグリットはそれが茶色い鳥か、もしくはそれに類するような小動物に見えた。もちろん飼われている動物とは考えもしなかった。野生の取るに足らない、迷っただけの小動物か何かだと思ったのだ。
しかし、その茶色い手のひら大の猿は、部屋中をぽんぽんと跳ね回ると、片付けられた食卓の上に飛び上がり、ついで中央の花瓶を邪魔なものだと言うように下に叩き落として止まった。
「・・・な、なんで猿が・・・・・・」
ジグリットの驚いた表情を、不思議そうに猿も見返した。そして小さくキキッと鳴いた。頭の前部分の毛が白く、それが前髪のように見えた。手と足の先は黒く小さい。
困惑しているジグリットの前で、猿は自分の長い尾を掴んで立ち上がると、奇妙によたよたと歩いた。それからつんのめるように転び、再び立ち上がると、尾を掴んで歩いた。それが何を表しているのか、気づいてジグリットは驚いた。
「ぼくの真似をしているのか!?」
猿はその場で飛び跳ねた。
「参ったな・・・・・・。おまえ一体、何なんだ?」
そのとき扉の向こうで、廊下をこちらへ向かってくる足音が聴こえてきた。重なる足音は二人分だ。アウラが医師を連れて戻ってきたのだ。
「おい猿、勝手に出てってくれ。ぼくはこれを隠さないと」ジグリットは自分を支えている棒を指差した。「アウラに見つかったら、スープにされるぞ」脅すように言って、ジグリットは猿がしていたのとそっくりに、よたよたと寝室へ歩き出した。これでも精一杯急いでいるのだが、アウラが扉を開ける方が早いかもしれない。猿の世話までしていられなかった。
棒をリネアの敷布団の下に隠した直後に、アウラが居間の鍵を開けて入って来た。
「あら、椅子に座っていたはずなんだけど」彼女が言うのが聞こえた。猿に驚いた様子はない。どうやら大人しく窓から出て行ったのだろう。
ジグリットは自分の寝台に片足で飛んでいき、素早く敷布の上に転がった。アウラが医師を連れて寝室へ入って来る。そのときになって、ジグリットは自分が失敗したことに気づいた。
――猿がこんな所にいるわけないじゃないか。
――あの猿は誰かが連れて来たものだ。
医師に包帯を替えてもらいながら、ジグリットは明日、リネアとアウラがいない時間帯に手紙を書くことにした。もう一度、猿が来てくれる望みは薄かったが、できることは何でもしておくにこしたことはない。この機会を逃せば、永久にリネアと一緒かもしれないのだ。
猿が誰かに飼われているなら、手紙を受け取って、ここから助け出してくれるかもしれない。希望というほど期待はできなかったが、初めてジグリットはこの血の城の中で明るい気分になった。
翌日、リネアとアウラが出かけた後、ジグリットはすぐに助けを求める手紙を書き始めた。必要な道具はすべて部屋にあった。熱心に筆を揮っていると、昨日と同じ窓から、カタカタと物音が聞こえてきた。顔を上げたジグリットは、鉄格子の間から猿が入って来ようとしているのを見て、昨日と同じくらい驚いた。手紙を書いてはいたが、ほとんど諦めていたからだ。
「おまえ、また来たのか」
猿は跳ねながら近づいて来ると、少し手前で立ち止まって、ジグリットを見上げた。ジグリットも筆を置き、動かずに猿を見返した。その猿は、今日は首に黄色い紐を巻いていた。その中心に小さな作り物の花が付いている。
「やはり誰かに飼われているんだな」
ジグリットはそう言ってから、自分も同じようなものだと気づいて、首の鎖に触れた。猿はまだじっとジグリットを見ている。構わずジグリットは手紙を書き続け、終わるとそれを小さく親指大に折り畳んだ。
猿はまだそこにいて、興味深そうにこっちを見つめている。椅子からそっと立ち上がると、猿は落ち着けていた腰を上げたが、去ろうとはしなかった。
「この手紙を頼みたいんだ」
ジグリットはそう言って、絨毯に四つん這いになり、猿に片手を差し出した。今度は猿はぴょんと大きく後ずさった。
「頼むよ、逃げないでくれ。おまえの飼い主にこれを渡してくれるだけでいいんだ」
しかし猿はジグリットが近づこうとすると、また大きく後ろへ跳ねた。
「大して期待はしてない。きっとおまえの飼い主だって、こんなことに関わりたくはないだろう。わかってるけど、おまえにしか頼めない」
不恰好に片足と二本の腕でずるずると這いずりながら近づく。猿はまた後ろへ逃げた。やっぱり駄目か、とジグリットが諦めて、その場に腰を落としたとき、猿は初めて前方へ跳ねた。そしてジグリットの頭に大きく跳躍すると、その場で髪を掴んで楽しげに鳴いた。
「お、おい・・・やめろ!」頭の上の猿を捕まえようとすると、猿はまた跳ねて手の届かない場所へ逃げる。「おまえ、ぼくをからかってるのか?」
怒ったジグリットに、猿は可愛らしい仕草で首をひょこひょこと振った。
「信じられないやつだ。ほら、ちょっとこっちへ来い」
思わず笑いが込み上げてきて、ジグリットがクックッと喉を鳴らすと、猿は逃げるのを止め、今度は歩いて近づいて来た。そして大人しくジグリットに頭を触れさせた。小さな頭部は毛並みが艶やかで、よく手入れされていた。ジグリットは一インチ四方に折った手紙を猿の首の紐に挟み込んだ。
「あまり期待はしていないと言ったが、あれは嘘だ」ジグリットは人に慣れた様子の猿に言った。理解はしてくれなくてもよかった。ただ普通に話せる相手は、血の城に来て初めてだったのだ。「前に医者を懐柔して、なんとか助けてもらおうとしたんだが、無理だったんだ。リネアにバレて、代わりにコレだ」
首の鎖を指差すと、猿は鉄鎖を小さな手でぺたぺたと触った。そして怒ったように、キキッと鳴いた。
「おまえにもわかるか? これは自由を奪うものだ。おまえは飼い主がいるくせに、勝手にうろつけて、本当に羨ましいよ」
ジグリットが大きく溜め息をついた瞬間、吐息で白い前髪がふわりと持ち上がって、猿は驚いた様子で後ろへ飛び退った。
「悪い悪い、ほらおいで、怖くないよ」ジグリットがもう一度、近くへ呼ぼうとしたが、猿は聞かずに飛び跳ねながら、窓の桟に乗り上げ、そのまま格子を潜って行ってしまった。
猿は翌日もその翌々日も現れなかったので、ジグリットは部屋で歩く練習をする気力も湧かなかった。しかし三日後、アウラとリネアがいないことを見越したように、猿が窓から入って来ると、その落胆はあとかたもなく消えた。
その日の猿は、黄色い首紐に羊皮紙の手紙を括りつけられ、窓際の椅子にかけていたジグリットの膝に勢いよく飛び乗った。しかし、そこは左足の膝近くだったので、ジグリットは激痛に猿を手で叩き払ってしまった。猿は抗議の鳴き声を上げた。
「すまない、でもおまえ・・・わざわざ左に乗らなくてもいいだろ!」ジグリットは痛みに息を詰まらせながら、部屋の絨毯にうまく着地して、こっちを見つめている猿に言った。そして両手のひらにすっぽり納まるほど小さな猿に、もう一度近くへ来て、手紙を取らしてくれと頼んだ。
猿はすぐに近づいて来た。今度は理解したように右足に乗ると、大人しく首の手紙を外させる。その間、ずっとジグリットの指の動きを注視していた。
「おまえは本当に賢いな」ジグリットは笑った。手紙を解くと猿は膝から飛び降り、ジグリットがそれを読んでいる間、部屋の扉の前に行き座り込んだ。
ジグリットも羊皮紙の文面を見るなり、立ち上がった。そして猿と同じようにぴょんぴょんと跳ねながら部屋を横切ると、扉に手をついた。
羊皮紙にはこう記してあった。『彼女に従え』しかしそう書いてあっただけで、裏返しても、他には何も書かれていなかった。
ジグリットは足元の猿を見下ろした。「おまえが“彼女”なのか? それでおまえはどうやって、この手紙の主を呼ぶんだ?」
彼女はただじっと座っていた。ジグリットは数分の間、息をひそめて何かが起こるのを待った。しかし幾ら経っても何も起こらない。
「本当に、おまえが彼女なのか?」文面を読み違えたのかと、ジグリットが思い始めた頃、扉の向こうで足音が聴こえてきた。アウラやリネア、それに医師とも違う。もっと大股で力強い足音だ。それが近づいて来ると、足元で猿が甲高い声で鳴き始めた。
足音は少し速くなり、そして扉の向こう側で立ち止まった。誰かいることにジグリットは恐れを抱いて、扉から手を離した。支えを失って、片足立ちのジグリットはふらついて尻餅をつく。それを見て、猿がいままでとは違う短い奇声を上げた。
「そこにいるのか、ヴェネジネ」と男の低い声がした。猿はさらに鳴いた。向こう側で男が取っ手をガチャガチャひねると、「クソッ!」と苛立ったように扉を叩いた。「鍵をかけてやがる」
そこで初めてジグリットは口を開いた。向こうにいる男を驚かせないように、手助けしてもらえる機会を逃さないように、慎重にだ。
「あなたの猿ならここにいます」暫くの沈黙があった。猿はもう鳴いておらず、男も黙っていた。ジグリットは男が去る気配がないのを察して続けた。「手紙をくださった方ですか? ぼくは三日前にこの猿に手紙を括りつけた者です。お願いです、ここから出たいんです。助けてもらえませんか? ここに監禁されています。ぼくは血の城から――」
そこで男がジグリットを遮った。「そんないっぺんにがなり立てるなよ。初めて寝台に上がった女じゃあるまいし」
ジグリットは口を閉じた。どんな人物かは知らないが、礼儀を知っている純朴な男ではなさそうだ。
「手始めに、彼女は猿じゃねぇ。ヴェネジネだ。今度、野蛮な獣みたいに呼んだら、即ここから立ち去るからな」
「・・・・・・わかった」了承しながら、ジグリットは足元の猿――もとい、ヴェネジネ――を見た。彼女は絨毯を指で掻き分け、蚤がいないかを丹念に調べているところだった。
「ヴェネジネってのは、処女って意味だ。女だからな。いい名だろう」
ジグリットはなんとも答えられなかった。
「おれはブザンソンだ。おまえは?」
「・・・ぼくはジグリット」本名を名乗ったのは、ジューヌがまだ生きていると、アリッキーノに知られると厄介だと思ったからだ。リネアが言うには、タザリア王はすでに処刑されたことになっているはずだった。
実を言えば、名乗り合っている時間も惜しかった。今、この時もジグリットは怯えていた。
「時間がないから、本題に入ろう。ぼくを血の城から連れ出して欲しい。リネアやアリッキーノに見られないように。恐らくここで働くほとんどの人間がぼくを知らないから、それ自体は難しいことではないはずだ」
男が即座に言い返した。「それは難しいことだぜ」
「そうだとしても、あんたにしか頼めない。ぼくはここに監禁されていて、他の人間に会う機会もないし――」
「一人では逃げられない」とブザンソンが続けた。
ジグリットが焦っている理由をブザンソンは訊ねなかった。恐らく部屋の主が戻って来るかもしれないと怯えていると思ったのだろうが、本当はそうではなかった。ジグリットは血の城に魔道具使いが二人いて、しかもその内の一人が視跡の力を持っていると知っていた。皇女ノナは城の中のどこでも覗き見できるのだ。
リネアが教えてくれなかったら、以前逃げようとしたとき、中庭で皇女に会ったことすら、偶然で片付けていただろう。しかし今は、皇女が監視しているのだと暗にリネアに恐怖を植えつけられていた。逃げるためには、皇女ノナの監視をどうにかしなければならないのだ。
ブザンソンがどういう男かわからないため、ジグリットはそのことを告げるのを躊躇っていた。そんなジグリットの心中を知らず、彼は扉の向こうで力強く言った。
「おれならおまえを、誰にも知られず、血の城から連れ出すことができるぜ」
それは本当に簡単だと思っているような声だった。




