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リネアが食事をしている間も、ジグリットが退席することは許されなかった。どちらにしろ、ジグリットが自分の力で歩くことはまだ不可能だった。
ジグリットはアウラの苛立ちにも、リネアの莫迦げた親切心にも、まるで興味がなかった。ただ自分の首にある長い鉄鎖を、それから部屋の窓という窓に嵌められた鉄格子を、ぼんやり眺めていた。そのどれもが過剰だった。籠の中の鳥でさえ、ここまではされていないだろう。逃げることを考えるには、まだ早かった。左足の炎症を防ぐためにも、薬は必要だし、とても遠くまで行く体力はない。
だが、左足が落ち着くまででも、この生活を我慢できるか、ジグリットには自信がなかった。最早一刻も早く逃げ出せるものなら、逃げ出したい。
透けるような薄絹の寝巻きを纏ったリネアの背後に、さっきまで寝ていた寝室があった。そして鉄鎖は長い銀の蛇のように、そこから出てきて、ジグリットの首に繋がっていた。寝台の天蓋の支柱、そこに嵌められている鍵付きの鉄輪が、ジグリットの自由を奪っていた。鍵の在り処はわかっている。それはジグリットの眸の届くところにあった。リネアの首にかかっている細い金の鎖に通され、それは嫌味なほど光り輝いていた。
いつでも手に取れる場所にありながら、そうできないことをわからせようとでもしているかのようだ。ジグリットは感情の欠片もない眸をそこから離した。
朝食の後、リネアは午前中に行われる国政会議のため、身支度に慌しく部屋を歩き回っていたが、ジグリットは居間の窓側に置かれた椅子に腰かけていた。
アウラに鏡台の前で、髪を整えてもらっていたリネアが言った。
「大人しくなったはいいけど、あれじゃあまるで人形ね」
ジグリットの様子は、侍女も理解していた。彼は一人でいるとき、本物の人形にしか見えなかった。表情も無く、身動きもせず、時折瞬きをするのを見ない限り、生きていることすら疑われた。侍女は黒曜石のついた髪止めをリネアに着けながら、歯切れの悪い調子で言った。
「今からでも陛下に引き渡された方がよろしいのではありませんか?」
鏡の中のリネアが微笑った。「いいのよ。ちょうど毒味役が欲しかったことだし。それとも、おまえはわたしを裏切ってでも、このことを陛下に告げるのかしら?」
「・・・・・・いえ」あまりの恐ろしさにアウラは震え上がりそうになった。アリッキーノは、今まで黙っていたことを許さないだろう。そしてリネアは、もっと非道いことを彼女に課すに違いない。
アウラは努めて硬い表情をしたまま、片手に持った櫛で鏡の中のゲルシュタイン妃の髪を左右対称にすることに専念しようとした。しかしなかなか難しかった。
侍女はジグリットとリネアが同室で生活し始めたことに、深い懸念を抱いていた。むしろその憂慮が遅すぎたとも感じていた。なぜリネアが、これほど執拗にジグリットを生かそうとしているのか。退屈凌ぎの玩具だと、信じるにはこれはあまりにもやりすぎだった。考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなったのだ。
――リネア様はジグリットに特別な感情を抱かれている。
気づくのがもっと早ければ、ジグリットの存在を消すこともできたのだろうが、こうなっては遅すぎた。ジグリットをここから叩き出すことはできる。しかし、同時に自分も彼女の信頼を失い、ここから去るはめになるのだ。リネアの侍女でいるためには、沈黙こそがこの事態への最大の対処だった。
顔をしかめているアウラに、気にも止めずリネアが微笑みながら言った。
「それにこれはこれで、可愛らしくていいじゃない。わたし、これぐらいの大きな人形を手に入れようかと思っていたところだもの」
それがジグリットを側に置くための詭弁であっても、アウラにできることは何一つなかった。彼女は歪んだ口元を上げ、無理やり微笑み返した。リネアの髪は定規で測ったように、きっちりと左右対称になっていた。
出かける用意を整えると、リネアは窓際に行き、虚ろに外を眺めているジグリットに声をかけた。
「それじゃあジグリット、わたくしは国政会議に行ってくるから、良い子で待っているのよ」
「・・・・・・」
リネアはぼんやりしているジグリットの髪に、優しく指を絡ませた。それからいきなり髪を引っ張り、ジグリットの何も映していない錆色の眸が一瞬だが痛みに揺らぐのを見て、くすくす笑った。
「正午には戻ってくるわ」そっと耳打ちし、小さな子供にするように額に口づけると、彼女は侍女を連れて部屋から出て行った。
侍女のアウラが扉に鍵をかける音が外から聞こえた。ジグリットはその間、ほんの僅かな瞬きだけで視線すら動かさずに、銅像のようにじっとしていた。彼女達の足音が遠ざかり、聞こえなくなっても、ジグリットは指先一つ動かさなかった。
窓の外は白く朝の陽光に満ちていた。眩しくてジグリットは眸を細めた。血の城の赤茶けた壁とは裏腹に、そこから見える庭の一部は手入れされた芝と、乾燥に強い棗椰子が爽やかな青さを放っていた。
砂漠地帯の気温は時間較差が大きい。血の城自体は、この国にあるという至宝の魔道具のおかげで温度が一定に保たれているが、外は違うのだ。それを示すように、藁で編んだ広い鍔付き帽をかぶった庭番達が、額の汗を拭きながら歩き回っていた。
――それでも彼らは自由だ。
ジグリットは自分の躰を見下ろした。半袖の上衣から出た腕は、以前より痩せて骨が浮いていた。そして首から下がった鉄の鎖により、暗い寝室から離れられなかった。最悪なことはまだあった。左足は膝から下がなくなっていた。リネアに対する怒りが込み上げ、思わず呼吸が荒くなった。しかしその怒りは涙と同じくらい激しいあまりに持続せず、すぐに過ぎ去り、冷静になったと同時に絶望が襲ってきた。
――ここから出て、どこへ行くんだ。
――もうタザリアに帰ることはできないのに。
懐かしいアイギオン城やソレシ城が脳裏に浮かんだ。チョザの街はどうなっているのか。何より冬将の騎士、ファン・ダルタや城のみんなのことが心配だった。グーヴァーがどうなったかだけが、わかっていることだった。あの暗い色の眸と、廊下に広がっていく真っ赤な彼の血溜まり。それだけだった。
リネアに訊ねても、彼女は何も答えてはくれない。もちろん、アウラに話しかけるような無駄なことはしなかった。
アウラが包帯を替える医師を連れて戻って来るまで、まだ時間がある。ジグリットは窓の桟に手をつき、片足で立ち上がった。そして静かな部屋を見渡した。
できるだけ壁伝いに歩き、残りを片足飛びで進むと、ジグリットは大きな飾り棚に凭れた。どの引き出しに、何が入っているかは把握している。上段の鍵付きの引き出しでさえ、ジグリットは中身を知っていた。リネアの護身用の鞘の白い短剣が入っているのだ。部屋の中で鎖が届く場所なら、どの鍵でも開けられた。ただ一つ、寝室の自分を繋ぐ首輪の鉄鎖以外は――。
ジグリットは毎日、そこにまだ短剣があることを確かめていた。それはこの部屋で自分が手にできる唯一の武器だったからだ。それからさらに片足で飛びながら、部屋を横断して寝室に戻った。
自分の寝台ではなく、リネアの寝台に近づくと、綿を詰めた厚い敷布団の下に手を突っ込んだ。そして鉄製のニフィート半(およそ76.2センチ)ほどの棒を取り出し、左右を持って曲げてみた。直径一インチ(2.54センチ)あるかないかといった細い棒だったが、それは微塵も撓らなかった。さらに右手に持って、それを使って歩いてみる。最初はいつものように、すぐに転んでしまった。しかし諦めずにまた立ち上がり、ジグリットは部屋をうろうろと歩き回った。
考える時間だけは飽きるほどあった。それに部屋を捜索する時間もだ。支えにする棒は窓の鉄格子の一番下の部分を折ったものだ。部屋の窓すべてを調べて、取りやすそうなものを選んだが、やはり自力では無理だったので、そのときばかりは胸に埋め込まれている魔道具、ニグレットフランマを使った。おかげで三日ほど高熱に見舞われたが、リネアもアウラも医者ですら気づかなかったのだから上手くやった方だろう。
ジグリットは右手で棒を、左手で自分の首の鎖を絡まないよう持ち上げて、数十分、休憩を挟みながらも歩く練習を続けた。やがて疲れて椅子にかけようとしたとき、窓の格子に何かが当たる大きな音がした。




