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エスタークへ立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。懐かしいと思う感情など、疾うに失っている。消えた貧民窟の跡地には、タザリア王が建てた孤児院が巨大な王の墓のように白く高く築かれていた。細い路地の向かいは、相も変わらず遊里で働く女や、仕事のない浮浪者の溜まり場のように汚い建物だったので、それは異様に輝いて見えた。
ナターシはその三階建ての孤児院の前で、ただ立っていた。タザリア王国がゲルシュタインに変わったとしても、エスターク自体には、何の変化も見られないようだった。絞首大通りに並ぶ商店は、行き交う人々に安っぽい品物を売り、昼間の西広場の飲み屋街は噴水以外、静まり返っていた。彼女が去ったときから、それは一日ほどしか時間を進めていないように見えた。
唯一変わった街の外れにある西の障壁沿いの長屋だけが、孤児院とそれを取り囲む広い焦げた空地になっていた。ナターシは孤児院の規則正しく並んだ窓の一つから、数人の子供達が騒ぎながら走り回る音を聞いた。彼女は胸が苦しくなり、そこから歩き出した。
「いまさら」と彼女は誰にともなく低く吐き捨て、向かいの焦げ跡の残る汚れた建物の間を抜けようと、俯いたまま足早に歩いた。細い小路に入ると、昼間だというのに、そこは暗く淀んでいた。鼻にツンと刺激臭がきて、眸をやると左手の建物の裏に一人の老人らしきかたまりが転がっていた。
昔ながらによく見た光景だ。ナターシはその屍体を無関心に過ぎ去ろうとした。しかし、屍体の方はごろりと向きを変え、横になったまま彼女を見た。それは言った。
「おや、ナターシじゃないか」老人はまだ生きていて、顔中を覆った灰色と白の入り混じった鬚がもぞもぞと動いた。
ナターシはその老人に見覚えがあった。彼女が幼い頃から、この界隈でよく見かけた顔だ。老人は彼女が物心ついた頃からすでに老人で、さらにそのときもこの辺りをうろついていた。彼は浮浪者で、今でもそうらしかった。ナターシは彼を無視してその場を通り過ぎた。
しかし声は背後から彼女を呼び止めた。
「良い服を着てるじゃないか。少しだけ恵んでくれないか。どんどん寒くなって来るからなあ。あの火事で浮浪児にはいっぱしの家が建ったが、おれ達にはさっぱりだ。どうせあの女も火を点けるなら、こっちにしてくれればよかったものを」
ナターシはアンブロシアーナと別れ、ジグリットの行方もわからず、あてもないままエスタークまで来てしまったが、ふと火を放った女のことを思い出した。彼女は振り返った。
「爺さん、火を点けた女を見たの?」
老人は湿った黒い地面に横になったままだったが、それでも欠けた穴だらけの赤茶けた歯を見せて、にやっと笑った。
「ああ、見たさ。見たともさ。女が煤けた外衣を羽織って、さっさとここから逃げ去るのをな。それから女がどこへ行ったかも、知ってる。おれはそこんとこは抜け目がないのよ。昔も今もな」
ナターシが戻ると、老人はようやくのろのろと躰を起こした。どこか具合が悪いのか、老人は時間をかけて起き上がると、何度か咳をして痰を吐き出した。
「女の名前を知ってるの?」ナターシは訊ねた。
ジグリットがどこにいるかは、その女が知っている。そうナターシは考えていた。もし知らなかったとしても、女が実行犯であることはわかっている。報いを。女に報いを。ナターシの意味ありげな微笑に、老人は興味深そうに眸を眇めた。
「名前は知らないが、調べるのは簡単だ。女の行った場所を知ってるからな」
ナターシは背嚢から革袋を出し、中の銀貨を三枚取り出し、老人の足元に投げた。
「言って。女はどこに?」
老人は答える前に、慌てて銀貨に手を伸ばし、ナターシが取り返そうとしているかのごとく、素早く自分の汚れた長衣に仕舞った。その動きはさっきまで具合の悪そうにしていた老人とは別人のようだった。
「『銀の蝋燭亭』だよ」と老人は言った。「あの晩、女は『銀の蝋燭亭』の客だったのさ。東の旅亭に泊まってるからには、良いとこのお嬢さんだろう。旅亭には名前を書く帳面があるからな。その日の宿泊客を探せば、女が誰かわかるだろう」
ナターシは老人に感謝の意味を込めて、さらに二枚の銀貨を投げてやった。老人がそれを拾い顔を上げる頃には、彼女は小路の奥に掻き消えていた。