3-2
アンブロシアーナはナターシが狂っているのか、正常なのか、推し量れなかった。彼女の眸は理性と狂気の間の曖昧な光を宿していた。そこにさっき走り去ったゲルシュタインの兵士が、二人の仲間を連れ、並木道の向こう側から走って来るのが見えた。
「ナターシ、あの人達に捕まるわ」
「大丈夫よ。従兄弟が死んだかどうか確かめるだけよ。なぜ捕まるの?」
彼女の反論に、ナターシが正常であることがわかり、アンブロシアーナはほんの少し安堵した。
「従兄弟のお墓でも誰のでも、掘り起こしたりしたら捕まるわ。死者を冒涜する行為だって、あの兵士も言っていたでしょう」
「確かめるだけよ」
「そんな話しが通じると思うの?」
ナターシは振り返り、アンブロシアーナに土の塊を投げつけ怒鳴った。
「邪魔するなら、どっか行ってよ! あんたの目的は果たしたんでしょ!! 今度はあたしの番よ。好きにさせてよ!!」
アンブロシアーナは後ずさった。そしてナターシが三人の男に捕らえられ、墓から引き摺り出されるのを見ていた。
「確かめるだけなのが、そんなにいけないのッ!? 触んな、クソ野郎!!」大声で喚き散らしながら暴れるナターシを、二人の兵士達が両腕を掴んで引き摺って行く。
「おい、そこの女」と残っていたゲルシュタイン兵の一人に声をかけられ、アンブロシアーナはいまだ怯えたまま眸を向けた。「そこの墓を元に戻しておけ。それから南側の一番大きな城に来い。お嬢様はそこに連れて行くからな」皮肉るように男は「お嬢様」と言うとき嘲笑した。
それでもアンブロシアーナは黙って頷いた。男は連れて行かれるナターシの罵声を追って、小走りに並木の通りに入って行った。しばしアンブロシアーナはその欅並木を見つめていた。ナターシがどうなるかは、そう心配しなくても大丈夫だろう。彼らもそれほど暇ではないはずだ。アンブロシアーナを愕然とさせているのは、その心配ではなく、ひたすら今見たナターシの狂乱とその行動だった。
やはりナターシとジグリットは知り合いだったのだ。しかもナターシにとって、彼が仲間の命を奪った仇であることは、信じ難いことだった。
――ジグリットはエスタークの話をしてくれたことがあったけど、家族である孤児達のことを憎んでいるようには見えなかった。ナターシの思い違いじゃないんだろうか。
しかしその考えは、アンブロシアーナを困惑させるだけだった。アンブロシアーナにとってのジグリットは、短い期間に知り合い、すぐに別れた友人だ。もし彼が嘘をついていたとしても、それを見抜くことは難しかっただろう。
――ジグリットがそんな人じゃないなんて言えるほど、あたしは彼を知っているわけじゃない。むしろ知らないことの方が多いんだわ。
アンブロシアーナは中途半端に掘り出された墓穴を見つめた。
――ナターシがジグリットを憎まずにはいられないから、ああ言ったのだとしても、あたしもジグリットには死んでいて欲しくない。それにきっと、ジグリットは仲間を裏切るようなことはしなかったはず。
そのときには、アンブロシアーナは墓穴の縁に立ち、しゃがみ込んでいた。
――確かめる方法はある。主がまだあたしを見放していないのなら。
正方形に黒ずんだ土の上に彼女はうつ伏せに倒れた。土の匂いがツンと鼻についた。それに冷たく冷え切った土の感触は、羊毛の上着にまで染み込んできた。しかしアンブロシアーナは眸を閉じ、心を鎮めた。
最初の言葉が唇を動かすまで、彼女は死んだように横たわっていた。長い時間がかかった。それだけでも、主の力の恩恵が残り少ないことが計り知れたが、長い我慢の末、アンブロシアーナの唇は歌うように動き始めた。
「マギレセア・バスカニオス・タヒ(わたしは主の教えに従い)、アララニセア・ワニ(民衆のために働き)、ヴァスカサッサランドリア・テンペニレア・ゾナフイヤ(その知性と理性で真理の深淵に近づく者)」
頭の中が白く輝きを放っているような、澄んだ温かい感覚に包まれていた。
「カヒートマン・チリアオプニア・シュタット(軽々しく口を開かず沈黙を守り)」
唇から流れ出る吐息すら、自分のものではないように思えていた。
「バスカニリア・ラムザット・ギギ(その生命を惜しむことなく主に尽くす者)」
すでに彼女は人間の姿形をなんとか留めているだけの精神体だった。アンブロシアーナは汚い石造の建物の一室にうつ伏せに倒れていた。そこはよく知っている空間だった。繋ぎ目となっている場所だ。まだそこが終着点ではなかった。彼女は再び立ち上がり、扉すらない正方形の白い石の匣の中で、心を落ち着かせようとした。最後の言葉が唇を離れた瞬間、何が起こるか知っているため、精神体の彼女は不安を抑えるのに長い時を要した。しかし時間には限りがあり、アンブロシアーナは胸の前で主に祈るよう中指と親指で三角形を形成した。
「クサパリフィア・ノマバ(楽園は身の内に)、ギオディスミア・シャリーバ(冥府は闇に満ちる)」
アンブロシアーナの意識体は眩暈を起こした。気持ちが悪くなり、急激な嘔吐感に苛まれた。それから躰中が素早く流れる風の一部に触れていると感じるまで、眸を閉じていた。
時間を早回しにしている中に通常の時間の人間を置いたときと同じ現象が、彼女を中心に起こっていた。時空がところどころ捩れて、肉眼で線条の軋みが見えるほどだ。周りで動いているのは一種類の生き物だったが、それも同じくらい恐ろしく速く動いていた。眸で捉えるのがやっとの速さだ。
半透明の淡紅色の生物。見た目は蜘蛛に似ていて、足は八本だったが、長い触肢のせいで十本にも見えた。奇妙なほど統制された動きで、巨大化した二本の鋏角を振り上げながら、辺りを走り回っている。一匹が体長一ヤールか、もっとあるだろう。それは主が見捨てた生物、ヒヨケムシと呼ばれる種だった。
ヒヨケムシはどの個体もアンブロシアーナに興味を示さなかった。それどころか、彼女が見えてすらいない様子で、ぶつかりそうなほど真横を走り抜けたり、真ん前で立ち止まり仲間の個体と触肢を擦り合わせて合図を取り合ってさえいた。
アンブロシアーナはヒヨケムシの一群から眸を上げ、奥に場違いな天蓋付きの寝台が置いてあるのを見た。それから自分の帰る場所を忘れないために、振り返って巨大な両開きの扉を眸にした。ヒヨケムシは一匹も扉には近づいていなかった。蟲達は冥府から外には出られないように、主に制約を課せられているのだ。そして両開きの扉の左右のどちらにも、細長い五本指をした小さな手形が残されていた。
――戦姫アンブロシアーナの手形。
自分の名前の由来となった女性を思うと、少し勇気が出てきた。
冥府に入ったのは、一度だけだった。それも随分、昔のことだ。何度も行ってきた儀式の内の、たった一度きり。誕生祭で年に一度使う神の力で、少女神は死者の世界に赴く。白帝月と紫暁月の間の数えない日に行うというのは、教会が勝手に決めたことだ。アンブロシアーナは、力はいつでも使えることを子供の頃から知っていた。そして、その力が自分の生命を危うくするということもよくわかっていた。
――気をつけないと、冥府には屍鬼がいる。
それは過去の少女神がそう文書に書き残していたからで、アンブロシアーナ自身は出くわしたことはなかった。それでも戦姫アンブロシアーナは屍鬼に喰い殺されたと伝えられている。恐ろしい場所であることに違いはない。
教会が設定した誕生祭での儀式は、接触する死者を聖人に限っている。彼らはかつての聖黎人であり、主に楽園へ入ることを許された善なる者達である。そう信じられてその遺骸は、教会の様々な場所にある聖堂や大聖堂に安置されている。だから少女神が冥府へ足を踏み入れることは本当に稀なことなのだ。
アンブロシアーナは楽園の穏やかで芳しい空気、ずっと留まっていたいと思わせる安らかな喜びの地を思い出すと、冥府の景色に喉の奥が張り付くような嫌な気分になった。
――楽園にはこれほど激しい風は吹いていない。
その風は生温かく、青白い色をしていた。実体のないアンブロシアーナの躰すら流し去ろうとするかのように、突風は辺り一面に吹き続けていた。実体に似せた自分の精神体を尾のように引きながら、アンブロシアーナは奥の寝台へと歩き出した。そこには黒い影があり、少年はこちらに背を向けたまま、静かに書物を開いていた。
それは確かにジグリットだった。アンブロシアーナは、自分を元気づけるため、心の中で口ずさんだ。この旅の間、何度も歌ったように。
誰も一人じゃ恐くて歩けない
だって本当は いつでもここは初めて歩く場所
時の流れが変えてしまった 未来のバルダ
真昼の月が不完全な姿で 太陽を追うの
だって二人は自由 檻の中で泣いたりしない
これは裏切りと死 あの方が見てる
わたしが我儘な夢を見るたび 渇いていくように
天からわたしを責めればいい
そして切望と死 あなたに告げる
わたしがあなたを想うたび 強くなっていくように
あなたの心に刻んで欲しい
どうなっても 嘘にしたくないから
最後にわたしに笑ってください
一度大きく息を継いで、「ジグリット」とアンブロシアーナは少年を呼んだ。その声は大きくはなかったが、鮮明で澄んでいた。はっきりとそれは少年に届き、彼は振りかえった。錆色の眸をして、静かな眼差しで彼はアンブロシアーナを見つめた。