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アンブロシアーナは屋根付き馬車の幌を塞ぐと、外の冷たい風を入れないようにした。馬車の中は薄暗くなったが、彼女は構わず、寝ているナターシの側に戻ると寝顔を見下ろした。
二人はグイサラーを出発したばかりだった。なんとかアプロン峠の頂上にあるグイサラーの街に辿り着いたものの、数年前のウァッリスとタザリアとの戦闘で、街はいまだ数多くの廃屋が残された状態だった。まともな旅亭もなく、途方に暮れていたところに出会った旅芸人の一座が、ナターシに気づいて声をかけてくれなかったら、今頃、二人して山頂の街で凍死していたことだろう。
チョザへ向かうという旅の一座は、ナターシを見るなり近づいて来ると、南風舞踏座の舞台をフランチェサイズで観たと言って、山を降りるなら馬車に乗ればいいと誘ってくれたのだ。アンブロシアーナとナターシは、その好意に甘え、グイサラーには一泊もせず、屋根付き馬車に乗って、すぐに西南側のタザリア方面へ下山しているところだった。
彼らの馬車には芸で使うのだろう鶏や犬、猫の籠が重ねて乗せられていたのだが、二人はその隙間になんとか入っていた。多少、臭いはきつかったが、万年雪の積もった山道を疲労した馬で行くよりはずっと楽なはずだ。
峠道を行く間、ろくに休みも取らなかった二人は、馬車に乗るなり眠ってしまったが、どうやら先にアンブロシアーナの方が目覚めたらしかった。ナターシの健康的な褐色の肌が、寒さに青白くなっているのを見ながら、彼女は隣りに座り膝を抱えた。そうしないと狭くて足が鶏の籠に突っ込んでしまうのだ。ナターシは器用に躰を縮こませて眠っている。
ナターシはいま、いつもは着けている右半面の石膏の仮面を外していた。寝ているときだけ外すことにしているからだ。彼女の赤黒い爛れた火傷の痕を、アンブロシアーナは悲しく見つめた。ナターシの頬には涙の筋が残っていた。泣きながら眠っていたようだった。アンブロシアーナは自分の外衣を彼女にそっと掛け直し、小さく歌い始めた。
あなたって誰?
鏡の中に問いかける
うつろな眸をして 窓の外
誰かの影を探してる
あなたって誰?
雨の切れ間にささやくの
虹のかけらは 消えてった
誰かの声を聞きたくて
あなたはどこ?
霧咲く森で走ってく
秘密の扉にご用心
誰かの嘘を信じてる
白い帳に隠されて
赤い眸をして泣いていた
黄色い鳥に出会ったら
あなたの誰かがやって来る
あなたの誰かがやって来る
アンブロシアーナは歌いながら、ナターシが自分の話を聞いていたときのことを思い出していた。ジグリットの名を初めて告げたときの、彼女の顔を。怒りと畏怖の入り混じった顔。
――ナターシはジグリットを知っている。
訊ねたことはなかったが、それには確信があった。突然現れた魔道具使いと思しき人物の話だけで、ナターシがチョザまで同行してくれたとは考え難かったからだ。
――ジグリットはタザリアのエスタークという街の出身だと言っていたけど、ナターシもそうだとしたら、二人は幼い頃の知り合いということになる。
――そうでないなら、ジグリットがフランチェサイズへ来た頃、ナターシと街で出会ったということも考えられるけど・・・・・・。
彼女がフランチェサイズへ越して来たのは、ジグリットが去った後だったはずだ。アンブロシアーナは眉を寄せ、二人がどんな関係なのかを考えてみたが、正直それを知るのが怖かった。
ふと気づくと、ナターシの眸が開いていて、アンブロシアーナを見上げていた。彼女は消え入りそうな小さな声で訊ねた。
「その・・・・・・歌は・・・?」
寝ぼけているのかナターシの眸は虚ろだ。アンブロシアーナは微笑んだ。
「起こしてしまったのね、ごめんなさい」
「いいの。それより・・・歌が聴こえたわ」眸を擦りながらナターシは、狭い隙間で背中をなんとか伸ばした。「あなたの歌?」
「ええ」とアンブロシアーナは頷いた。
「即興の才能もあるのね。少女神を辞めても、食いっぱぐれることはないってわけか」
ナターシの冗談にも、アンブロシアーナはいつもより控えめに笑った。
「そうね、こんな歌でもいいなら」
ナターシはアンブロシアーナの杞憂に気づかず言った。「大丈夫よ。南風舞踏座で歌ってみる? 一躍人気者になれるわよ」そしてほんの少し低い頭をアンブロシアーナの肩に凭せかけた。「暗いわ。外は夜? それとも昼だけど曇っているの?」訊ねながらナターシの眸が閉じ、アンブロシアーナが答える前に彼女は再び、寝息を立て始めた。
彼女の重みを感じながら、アンブロシアーナは小さく答えた。
「外は昼よ。太陽は厚い雲が隠しているの」
ガタガタと馬車の荷台は上下左右に揺れていた。時折、石に乗り上げて激しく揺れ、二人は眠りを邪魔されたが、それでも峠を過ぎるまで眠り続けていた。すでに季節は白帝月に入り、険しいテュランノス山脈の隘路は、降雪に白く消し去られ始めていた。