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数日が過ぎていった。二人は日増しに疲労が増していたが、文句は一つも出なかった。アンブロシアーナは家族やジグリットに会える喜びに溢れていたし、ナターシはというと、彼女もまた疲れの感覚を鈍らせるだけの高揚を常に感じていた。ジグリットに近づいているのだと思うと、ナターシは逸る気持ちを抑えるので精一杯だった。アンブロシアーナがいなければ、馬を酷使して昼夜関わらず走り続けたいぐらいだったのだ。
やがて黄昏月の半ばを過ぎた頃には、丈の短い草が一面に生い茂る草原地帯へと二人は踏み込んでいた。アルケナシュ領とはいえ、国境など気にもとめない草原の遊牧民達が出入りするゼダの街が近いことを、アンブロシアーナは眸にせずとも感じ取っていた。寒冷の支度を始めた茶色い草の波が風に揺れ、そこかしこでざわめていた。そこはアンブロシアーナにとって、楽園ともいえる場所だった。彼女は自分が過去の世界に紛れ込んだ人のように思えてならなかった。それほどこの草原は、彼女が去ったときから、何一つ変わることがなかった。今はただ馬上で乾いた風に吹かれていることが、アンブロシアーナにとって自分が本当は誰なのかを物語っていた。
アンブロシアーナは知っていた。自分が少女神であっても、本当はただの草原の娘で、寂しくて怖くて叫びたいほど悲しい人間でしかないことを。力を与えられたからといって、名前を捨てたからといって、感情まで捨てられはしないことを。追ってくる死に怯え、家族や少ない友人に忘れられることを恐れ、これから先を思って眸を輝かせている同じ年頃の少女達を羨んでいることを。
彼女は波打つ草の丘陵に向かいながら、遊牧民達の古い歌を歌い始めた。
青い風よ 命に吹きすさぶ風よ
おまえの鼓動を感じるぞ
青い風よ 命に吹き込む風よ
おまえの吐息を感じるぞ
耳を立てて 爪を研ぎ
青い獣がやってくる
牙を剥き出し 吼えながら
青い獣がやってくる
娘達よ 踊れ 舞い踊れ
男達よ 叫べ 踏み鳴らせ
青い風が連れてくる
夜明けの峰を飛び越えて
青い獣がやってくる
草の大地を蹴りながら
風に任せて 獣は探す
餌食になる前に 踊れ 舞い踊れ
遊牧民達にとって、青い風は凶兆であり、死を運んでくる青い獣は死そのものだ。アンブロシアーナはいつから青い獣は自分を探しているのだろうかと考えていた。彼女は大聖堂にいて、ささやかな風すら感じなかった。だが今は、身震いするほど風の意志を感じていた。馬の蹄の音を掻き消す勢いで風は唸っていた。草は薙ぎ倒され、彼女の短い斑になった黒い髪は根元から跳ね上がり、眸を開けていることすら力を要した。この大地には、青い風を隔てるものは何一つないのだ、と彼女は思った。それでもまだ青い獣に見つかるわけにはいかなかった。
追って来ていたナターシは、アンブロシアーナの歌を途切れ途切れに耳にしていた。仮面に吹きつける草原の風に向き合うナターシにも、その歌は恐ろしいほどに意味を持っていた。青い獣、ナターシはそれが自分なのだと確信していた。ジグリットにとっての青い獣、それが自分の本来の姿なのだ。二人は心の中で歌い続けた。青い獣の歌を、青い風の中で。
辿り着いたゼダの街は規模としては小さく、この時期は閑散としていた。草原の玄関口にある街にも関わらず、その街では大した取引が行われていなかった。黄昏月の間は遊牧民は草原に散っている。彼らは白帝月になるまで街に寄ることはないのだ。そのため、白帝月になれば逆にゼダも、そしてレイモーン王国の首都であるイムーヌも、刈り取った羊毛や売り買いされる山羊などで人が溢れるのだが、それはまだ先のことだった。
ナターシは一人、騎乗したまま街の中を進んでいた。同じように通り過ぎるだけの行商人とすれ違いながら、彼女は目当ての場所へ急いでいた。アンブロシアーナは追手を躱すため、街の外で待っている。
二人が警戒していた通り、ナターシは街に入って数分もしない内に、狂信者の姿を発見した。二人の狂信者はそれとわかる外衣を着て、辺りを隈なく見て回っているようだったが、ナターシを眸にすると近づいて来た。
「おい、おまえ!」体格の良い狂信者の一人がナターシを指差した。
彼女は馬から降りずに、手綱を引いて彼らが寄るのを待った。
「そうだ、おまえだ! ここで何してる!?」
男の偉そうな態度にナターシは冷ややかな眸を向けながら答えた。
「チョザへ帰るのよ。フランチェサイズの伯父さんのところへ行って来たの」
二人の狂信者達は無遠慮に彼女の仮面を見ていたが、やがてもう一人の頬骨の尖った男が言った。
「その仮面はなんだ? 怪しいな。取ってみろ!」
ナターシは一瞬、戸惑ったように首を傾げた。
「早くしろ! それとも取れない理由でもあるのか!?」
この褐色の肌を見れば、少女神でないことはわかるはずなのに、とナターシは腹立たしく思いながら、仮面を取った。
「これでいいの? それで、まだ何か用がある?」
白い仮面を外したナターシの焼け爛れた半面を見た二人は、絶句したまま首を横に振った。
「そう、ならもう行くわよ。あたしも忙しいの、わかったら二度と声かけたりしないで」
狂信者達はナターシが再び仮面を着けるのを黙って見ていたが、彼女は構わずさっさと馬を出した。これで彼らはもうナターシがアンブロシアーナと一緒にいても、そう簡単には声をかけて来ないだろう。喜ぶべきなのはわかっているが、同時にナターシは傷ついてもいた。男達の恐怖の眸は、自分の貌がどれほど醜いのかを語っていた。ナターシは歯軋りした。こんな貌になった原因をこの世から葬り去らない限り、自分に安息はないのだと、ナターシは何百回と考えたように再び心に刻んだ。
――ジグリットを冥府に送り込んでやる。
その思いは彼女に笑みすら浮かばせた。アンブロシアーナの友達だろうと、かつての同朋だろうと、なんの躊躇いもなく、彼を殺せるだけの憎しみがあった。
ナターシは狂信者から離れると、街の外で待っているアンブロシアーナを呼んで来ようかと思ったが、先に用事を済ませることにした。街に幾つもない食料品店でナターシは当座の食料を買い込んでおくつもりだった。アンブロシアーナが持ってきた乾酪や麺麭はすでに底をついている。何本か葡萄酒と牛乳も必要だろう。見つけた食料品店で、十日分もの食料を買ったナターシは、店の年老いた女主人に話しを聞くことができた。
「黄昏月の宿営地?」女は旅の途中にしか見えないナターシが、思いも寄らないことを訊ねるので、思わず睨めつけた。しかしナターシが、アンブロシアーナの両親の名前を出すと、安堵したように頷いた。「ああ、ウラキのところに行くのね」
「うん、あたしの伯母さんの娘が、なんてったっけ、ウラキとサジスのところの息子の嫁さんと知り合いで」
「なんだ、そうだったの。確かに息子さん、最近結婚したばかりなのよね」
「そうそう」
適当に話を合わせていると、彼女は簡単に場所を教えてくれた。遊牧民達は白帝月までにかなりの距離を南下して来るのだが、今はまだオパルス湖の北にいるらしい。
「今年は暖かい方だから、家畜の餌に余裕があるはずよ」と女は言った。そしてナターシの持っていた鞍袋に殻付きの落花生を手のひらいっぱい入れた。
「これは頼んでないわ」ナターシが困惑して袋を突き出す。
「いいのよ、ウラキの一家はその豆が好きなの。持って行ってあげて」
ナターシは納得して、袋の口を絞った。
「オパルス湖に行くには、ノマス川に沿って行けばいいけど、今日ぐらいは宿に泊まれば?」
女の忠告に、ナターシは顔をしかめた。
「そうしたいけど、急ぐの。すぐに出発するわ」
残念そうに女は頷いた。
「それであんた、合図の仕方は知ってるの?」
「合図?」
何のことかわからないと言った顔をしたナターシに、女は初めて怪訝な表情を浮かべた。
「発火矢よ、持って来てないの? 弓矢がないと広い草原でどうやって彼らと合流するのよ」
ナターシはアンブロシアーナが小型の弓矢を持っていたのを思い出し、慌てて頷いた。
「あ、ああ、弓矢ね。持って来てるわ、もちろん」
「なんだ、持ってるんじゃない!」
女に礼を告げ、慌てて店を出たナターシは、ほうっと安堵の息を吐いた。アンブロシアーナに発火矢のことを説明してもらっておけばよかったのだが、お互い気持ちが逸っていたせいだろう。ナターシは重い鞍袋を馬に載せた。食料も買い込んだことだし、と彼女は急いで馬に乗ると、ゼダの街の外へと駆け出して行った。