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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
獣面の暗殺者
155/287

          3


 昼の舞台が始まる一時間前にナターシは劇場に着いていた。いつもは遅刻ぎりぎりの彼女が、そんなに早く出勤していることなど、そうないことだ。バルメトラは帳簿(ちょうぼ)を広げたまま、しかめ(つら)で彼女を睨みつけた。

「本気なのかい?」長い話を聞き終えた女座長は、(くわ)えた巻き煙草(たばこ)を手にして訊ねる。

「そうだって言ってるでしょ」

 ナターシはバルメトラに背を向けるようにして机に腰かけていた。その声からは、苛立(いらだ)った様子が(うかが)える。放っておけば、今すぐにでもナターシは部屋を飛び出して、彼女の生きる目的とやらを()げに――つまりは復讐(ふくしゅう)を果たしに――行くだろう。

 バルメトラはナターシの性格をよく理解していた。彼女は普段は大人しく、舞踏座の下の子の面倒(めんどう)もよく見る気立ての優しい子だ。ただし、それは眸の前に敵の影がちらついていないときだけなのだ。一旦(いったん)、彼女の前に目的をぶら下げると、赤い布に突進する牛と同じように、ナターシは誰にも止められなくなる。もちろんバルメトラにもだ。

 一階の手狭(てぜま)な事務所の奥にある座長室には、昼前のこの時間には二人しかいなかった。部屋の窓は開け放たれ、通りを行く物売りの声だけがかすかに聞こえている。ナターシがこの時間帯を(ねら)って、話をしに来たのは確実だった。

 ――これは狂気と紙一重だわ。

 バルメトラはそう思いながら、ナターシの少女らしい細い首筋から続くしなやかな背中を眸にした。彼女の性格は、この大都市フランチェサイズの数多(あまた)あった舞踏座において、自らを花形(トップスター)に仕立てあげた。元より才能があったことは確かだろう。だがそれを上回る血の(にじ)むような努力は、ナターシだったからこそ成し得たのだ。彼女の負けん気の強さと、激情すれば止められない危険な性格を、バルメトラは畏怖(いふ)羨望(せんぼう)の両方でいつも見てきた。そしてナターシは、いまやこの南風舞踏座(エウロス)にとって、なくてはならない存在になっている。

 ――それでも彼女を止めることはできない。

 ナターシは、ここに了承を取りに来たわけではない。単なる報告に来たのだ。彼女のすべての価値において、何にも(まさ)る事態がやって来たために。バルメトラはいつかこの問題が起こるだろうと予期していた。だが、その予想よりも、(はる)かに早くその時は訪れたのだ。女座長は大きく溜め息をついた。

「止めても無駄なんだろうね」

「そうよ」毅然(きぜん)とした声が返ってきた。

 もし彼女を止めようとするなら、よく()がれた剣が必要だろう。そしてその行為は互いに命賭けになるのだ。そうバルメトラは確信していた。

「だったら、あたしは何も言うことはないよ。あんたがいつか、家族とその顔の返礼をしに、ジグリットを捜しに行くんだって聞いてたからね」

 初めてナターシは振り返り、机に座ったまま、バルメトラの化粧の濃い目鼻立ちのはっきりした顔を見返した。

「わかってくれるとは思ってないわ。むしろ誰にもわかりっこない。それでもあたしは行かなきゃ。そのために――」

「生き残ったんだろう。わかってるさ」ナターシの声を(さえぎ)ることしか、バルメトラにはできなかった。

「ええ」(うなず)きながらナターシは机から飛び降りた。そして今までの怒気にも取れる神経質な態度を(ひそ)めて、バルメトラににっこりと笑みを浮かべた。「すぐに戻るわ。チョザまで行って帰るだけよ」

 その道程の長さをバルメトラは覚えていた。往復するなら少なくともひと月、もしかするとそれ以上かかる。そんなに長い間、ナターシがいないとなると、舞踏座としても代役というより次の花形役者を立てなくてはならない。

「帰って来たって、あんたの場所はもうないかもしれないよ」

 最後通告のつもりで口にしたバルメトラに、ナターシは眸を丸くして、それから自信たっぷりに笑った。

「あたしより上手く踊れる子がいるならね」

 バルメトラは返答できなかった。たとえそうなったとしても、ナターシが帰って来れば、誰であろうとすぐにその座を明け渡すことになるだろう。ナターシは決して、他人に負けたまま引き下がりはしないのだから。失望を隠すように、バルメトラは次の巻き煙草に火を()け言った。

「それで、アルゴの隊商の日程だけど、チョザまで行くほど遠方への隊を組むのは年に数回だったはずだよ。次がいつになるかはわからないし、どうしたいんだい?」

 ナターシはわかっていると言いたげに頷いた。

「チョザへ行く前に寄るところがあるんだ。だから、ケーパインへ行く隊商があれば、それに途中まで同行させてもらえればいいんだけど」

 ケーパインはアルケナシュ公国領で、南東に位置する港湾(こうわん)都市だ。

「そこまででいいのかい?」驚くように言って、バルメトラは小柄な十四歳の娘の顔に何の不満もないことを知った。「だったら十日も経たないうちに次の隊が出るはずだよ。ケーパインへはしょっしゅう行き来があるようだからね。アルゴに頼んでおくよ」

「お願いするわ。用意はすぐにできるし、彼女も多分、すでに用意してあるんじゃないかと思う」

 ナターシの連れだという少女ジャサスについても、バルメトラはよく知らなかった。いつの間に劇場の外で友人を作ったのかも聞いていなかった。ただ舞踏座の女の子達から聞いた話では、良家のお嬢さんらしい。だがそれなら、なぜその良家のお嬢さんが、チョザへ行こうとしているのか。そしてその少女はナターシが何をしに行くのか、知っているのか。色々な事が頭を(よぎ)ったが、バルメトラはそれをすべて胸に仕舞い込んだ。

 ――この件に関しては、口を挟まないこと。

 それがナターシとの約束だったからだ。フランチェサイズへ旅立つ前、エスタークでナターシは言った。「いずれあたしは帰ってきて、目的を遂げるわ」と。復讐など何の意味もないと説得したバルメトラに、彼女は怒りに燃えた眸を向け、腹の底から叫んだ。

「あんたにはわからないッ! 邪魔するなら、誰であろうと退かせる。力ずくでも」

 バルメトラは彼女の憎しみの深さを自分にはどうにもできないと知ったのだ。それから二人の間でその話をするのは、暗黙のうちで禁止されていた。今まで。

 そして今、彼女は行くと言った。それはもう止められないということだった。

「アルゴに訊いて、次の隊がいつかわかったら、すぐに(しら)せるよ」

 バルメトラがろくに吸ってもいない巻き煙草を灰皿に押しつけ言うと、ナターシは素早い動作で机に乗り上げバルメトラの頬に軽く口づけた。

「ありがとう、バルメトラ。恩に着るわ」

 そして彼女は部屋を出て行った。扉が独りでに閉まったとき、ようやくバルメトラは瞬きをして、暗い眸をしてうなだれた。

「残酷な主よ」バルメトラはぎこちなく両手を組んだ。「あんたはあたしがあの子を娘にしたいなんて言ったから、こんな事を(たくら)んだのかい? だとしても、どこにいたってあの子はあたしの娘同然なんだ。復讐なんかどうだっていい。あんたが本当に天にいるんなら、せめて一度でいいからあの子を守ってやってよ」

 主の存在など信じたことのないバルメトラにとって、それは初めての祈りだった。ただ祈らずにはいられなかった。ナターシが無事に戻るというのなら、バルメトラはかつて自分を見捨てた主にだって(ひざまず)けるだろう。

 バルメトラが祈るのを止めたとき、再び扉が開いて、今度は夫が入って来た。舞踏座の後援者(パトロン)でもある貿易商のアルゴは、ナターシの話を伝えると顔色を(くも)らせた。

「隊商は四日後にケーパインへ出立する予定だ。ナターシと友人一人ぐらいどうってことはないが・・・・・・」そこで男は心配そうに妻の手を取った。「それで彼女に子供のことは?」

「話せなかったわ。話せば、もう二度とあの子が戻って来ない気がして・・・・・・」

 アルゴは悲嘆(ひたん)に暮れている妻の気持ちを思うと、どんな(なぐさ)めの言葉も無意味だと知っていたが、言わずにはいられなかった。

「すぐに戻ってくるさ。そうしたらナターシにこう言うんだ。君の弟妹(きょうだい)だよって。ナターシに名前をつけてもらってもいい」

 バルメトラは真っ赤に塗った唇を震わせ、ナターシが自分の子供を抱き上げている様を想像した。それはつい昨日までなら、すぐにでも(かな)いそうな夢だと思えたが、今は遠く(きり)に包まれたようだった。

「あの子ならきっと素敵な名前をつけてくれるわ」とバルメトラは嗚咽(おえつ)混じりに(ささや)いた。


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