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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
獣面の暗殺者
153/287

第一章 それぞれの暗影


 すべてを知ったと思うのは容易(たやす)く、理解しようとしないことは(おろ)かだ。

 彼女のほんの側面(そくめん)を見ただけで、真実の(かお)を知ることはできない。

 むしろ、その側面こそが私達を(おとしい)れる、または(あざむ)くための詭計(きけい)かもしれない。

                      ジグリット・バルディフ 『回顧録』より



第一章 それぞれの暗影

第二章 暗夜を走る青い獣

第三章 冥府への暗誦

第四章 暗闇を抜ける値段

第五章 暗赤色の夜明け

第六章 追跡、そして暗愁の獣

第七章 惣暗つつくらに潜むもの





第一章 それぞれの暗影


          1


 聖階暦(せいかいれき)二〇二二年。黄昏月(たそがれづき)の初旬、彼女は広い室内に置かれた寝台(ベッド)に横たわっていた。浅い眠りは、彼女の五感を(そこな)うことなく維持(いじ)していた。暖かくも寒くもない静謐(せいひつ)で、耳鳴りのしそうな夜だった。

 アンブロシアーナは眠ったふりをするのを()め、眸を開き、天蓋(てんがい)の囲いの細い(はり)とそれを覆う(やわ)らかな白絹をじっと見つめた。部屋は暗かったが、物の輪郭(りんかく)ははっきりと(とら)えられた。彼女は起き上がり、微かに冷えた夜気が躰だけでなく、頭の中をも覚醒(かくせい)させたことに気付いた。

 ――まだ夜明けには、ほど遠いわ。

 なぜこんな時間に起きてしまったのか、(いぶか)しがりながらアンブロシアーナは天蓋から垂れた薄い乳白色の絹の向こうへ眸を()らした。部屋の扉脇(とびらわき)に置いてある時刻を表わす魔道具がぼんやりと赤く光っている。下部だけが(わず)かに光っているのは、まだ日付が変わったばかりだということを示していた。

 彼女は寝台の上で背中を丸め、両腕で(ひざ)(かか)えた。落ち着いているはずの空気が、今日に限ってやけに不安を(あお)る。

 ――もしかして・・・・・・。

 自分に大きな変化が(おとず)れたのかと、アンブロシアーナは手のひらを食い入るように見た。しかしそんなことをしても、自分がそうなったのかどうかはわからないに決まっている。次の誕生祭(フェステドバード)まで、自分の力が失われたかどうかは、彼女自身にもわからないのだ。

 ――力を失ったときから一年未満に、少女神(コレツェオス)はこの世を去る。

 ――主は少女神を楽園へと導く。

 ――歴代の少女神達にそうしたように、あたしのことも楽園へと(いざな)って下さる。

 そうは思っても、彼女の不安は消えるどころか増すばかりだった。彼女は死を(おも)った。これまで何度も考えたように。それが底なしの湖に沈んで行くような、躰中に(まと)わりつく冷たさを(もたら)すものでも、考えるのを止めることは絶対にできなかった。

 残された時間は僅かだろう。それなのに、自分はこれまで何をしたのか。そしてこれから何ができるのか。誰も教えてはくれない。主さえも、死について答えてはくれない。

 ――それでもあたしは疑ってはいけないんだわ。

 アンブロシアーナは主の御言葉どおり、死んだ後は楽園へ行けると信じる他なかった。しかしそれでもそこへ至るために、今の世界から締め出されることに違いはない。それはこの世界の存在としては消滅に等しかった。

 アンブロシアーナという名前を与えられ、主に従い人々のために生きても、それは個人としての自分ではなく、少女神の一人でしかない。少女神はほぼ十年ごとに世代交代される。自分が少女神である間、以前の少女神について聞くことはほとんどなかった。人々は新しい少女神を変わらず(うやま)い続けるだろう。いつでもそこにいるのは形であり、個人ではないのだ。

 ――主はあたしに栄誉ある仕事をお与えになった。

 ――でも・・・・・・。

 膝を抱えた躰をさらに(ちぢ)こませて、彼女はうなだれた。黄金色(ブロンド)の髪が、(まゆ)のように全身を覆い隠す。

 ――本当は何もない。

 ――この世界であたしの人生には何もない。

 ――生きていなかったのと同じ。

 ――誰かを愛することも、誰かに必要とされることも、ほんのささやかな未来を夢見ることさえ許されない。

 アンブロシアーナは草原の父や母を想った。幼い頃に別れたきりだったが、それでも家族の記憶は鮮明(せんめい)だった。彼女は彼らのように生きるだけでよかった。夫と愛し愛されて子供に囲まれて生き、やがて土に(かえ)る。それだけでよかった。だが、それは(かな)わぬ夢だった。

 ――主はあたしに人ならざる力をお与えになり、人々を救うために選ばれた。

 ――だからこれはあたしがいけないんだわ。

 ――これ以上を望むあたしが、悪い人間なんだわ。

 ――主はあたしを信じてお選びになったのに、あたしは主の意志に反している。

 アンブロシアーナの脳裏に、五歳のときに去った草原の風景が再び(よぎ)る。前代の少女神が亡くなって数日経ったあの日、レイモーン王国のパスハリッツァ草原は珍しく霧雨(きりさめ)が降っていた。彼女は移動用円蓋天幕(ホロ)片隅(かたすみ)でうずくまっていた。

 両親と祖父母、それに従兄弟(いとこ)叔父叔母(おじおば)まで集まっていた。彼らは一様に興奮し、元より赤い頬をさらに朱に染めて客人をもてなしていた。家族五人が暮らす小さな天幕(テント)は、人いきれによって蒸し暑く、黒と白、それに淡黄色の筋が入った長衣(ローブ)を着た五人の司祭が羊の乳から作った発酵(はっこう)酒をちびちびと飲んでいた。

 司祭達は代わる代わるアンブロシアーナに話しかけた。彼らは何度も同じ話を聞きたがり、五歳のアンブロシアーナが繰り返すのに疲れてしまうと、今度は兄がそれを繰り返すのだった。まだ赤ん坊の妹は慣れない空気にずっと(おび)えて泣いていた。妹の顔は酔っ払ったように真っ赤で、最後には(かす)れた泣き声になっていた。誰も妹をあやそうとしなかった。それどころではない様子で、彼らの興奮はいつまで経っても覚めることがなかった。

 アンブロシアーナは自分が主に選ばれたことを、その場にいて唯一理解していなかった。彼女はその能力が、特異なものだと気付いてさえいなかった。両親が(ほこ)らしげに彼女の名前を呼ぶことに不安を感じていた。兄が自慢(じまん)げに同じ話を繰り返すことに、従兄弟達が羨望(せんぼう)眼差(まなざ)しを向けることに、そして何よりそこにいる司祭達が鋭い眸で自分を観察することに、(おそ)れを抱いていた。

 覚えている言葉は少ない。記憶にあるのは顔だけだ。

「・・・・・・代目の少女神を・・・襲名(しゅうめい)・・・」「・・・・・・大聖堂で・・・・・・ければならない」「聖黎人(せいれいじん)・・・様が・・・・・・でお待ちだ」

 次の日、いまだ戸惑(とまど)っているアンブロシアーナを父が馬に乗せた。草原の(はし)まで父と兄が一緒だった。だがそこから彼女だけが司祭の馬に乗せられ、そして二度と戻れなかった。

 ――黄色と緑の草の原。風の逆巻く大地。あたしの家族。

 十年が過ぎていた。それでも彼女の胸を()めるのは、彼女の生きた場所は、そこだけだった。五歳の子供に何がわかっただろう。何もわかるわけがない。

 ――今も変わらず、あたしは何もわかっていない。主に一番近い存在だと言われても、主の御心(みこころ)まではわからない。

 ――主はあたしを選んだことを後悔(こうかい)なさっているはず・・・・・・。

 ――あたしは主の望んだ人間にはなれなかった。

 アンブロシアーナはその考えに身震いした。あるはずのない風が天蓋の布を揺らして膨らんでいた。彼女は眸を上げ、寝台の足先のずっと向こう側、ふわふわと動いている絹を通して誰かが立っているのを眸にした。

 初めて彼女は、ぎょっとして身を(すく)ませた。

「・・・誰なのッ!?」

 (あわ)てて寝台を降りようと、室内履きに足を伸ばした直後、その黒い影が口を()いた。

「静かにおし」人間のものとは思えないほど、低く(しわが)れた声だった。

 影はアンブロシアーナに声を出させる機会を与えず、徐々に近づきながら言った。

「おまえはもうじき力を失うだろう」

 まるで(のろ)いの詠唱(えいしょう)のようにアンブロシアーナには聞こえた。彼女は感じたことのない恐怖に襲われ息を詰めた。声を上げたくても指先すら動かない。それはますます近づいてくると、寝台から降りようとしていた彼女の前で立ち止まった。薄い布一枚を(へだ)てて、黒い影が眸の前に立っている。

「いいかい、神の子よ」

 小柄(こがら)な影が言ったとき、生温かい吐息(といき)が布を通してアンブロシアーナの頬に触れた。彼女の心臓はそのときすでに、破裂(はれつ)しそうな勢いで打っていた。二人を隔てているものは布きれ一枚だけだ。子供のように小さな影は、一種化け物じみていた。頭巾(フード)なのか髪なのかはっきりしない(とが)った頭部に、首のない丸い両肩。両手がある部分は刺々(とげとげ)しい(ひだ)と、垂れ下がった(ひも)のようなものに覆われている。顔は他の部分よりもさらに念入りに、一度も光の差したことのない洞穴(ほらあな)のように、真っ黒く()(つぶ)されていた。

 影は怯えているアンブロシアーナに告げた。

「おまえは主に選ばれし女だが、それと共に月の娘を産まなければならない。なぜなら・・・・・・」そこでそれは言葉を止め首を奇妙に動かし、何か逡巡(しゅんじゅん)するような素振(そぶ)りを見せた。だがすぐに決意したように言った。「そう・・・なぜなら、決まっているからさ。あたしゃ決めたのさ」

 それを聞いて、ようやくアンブロシアーナはそれが年老いた女性であることに気付いた。化け物に性別などないはずだ。これは人間だ。

「そうさ、やつらが何を決めたかあたしゃ知っているからさ」老婆(ろうば)は自分の言葉に激情したように吐き捨てた。「思い通りになんかなるもんか!」

 しかしアンブロシアーナには、まったく理解できないことばかりだった。

「月だよ。金の月こそがふさわしい。そのために殺させてたまるもんかい」

 まるでその老婆は彼女と会話する気もなく、自分勝手に(わめ)いているだけのようだ。

「で、出て行きなさい!」やっとアンブロシアーナは叫んだ。「言う通りにしないと、今すぐ人を呼ぶわよ」

 初めて声が止み、室内が静まった。老婆が出て行くものと思っていたアンブロシアーナは、不気味な手がこちらへ動き出し、寝台を囲う天蓋布(てんがいふ)を掴むのを眸にした。さらに(しげ)みを分けるように布が開かれると、彼女は大声で叫ぼうと咄嗟(とっさ)に息を吸い込んだ。

「ジャサス、いい子だからお聞き」老婆が優しく言いながら、彼女の口にごわごわにかさついた冷たい手のひらをぐいと押しつけた。

「いい子だから、ジャサス」と老婆は落ち(くぼ)んだ眸で彼女を見下ろし、再度言った。

 アンブロシアーナはその人物を見返した。黒い頭巾を(かぶ)った年老いた女だった。黒い穴のようだった場所に、皺深(しわぶか)い顔と印象的な(みどり)色の眸があった。そこに浮かんでいるのは、理性ある者の表情だ。攻撃的な様子はない。抵抗せずにいると、すぐにその手が離され、アンブロシアーナは震えながら小声で(たず)ねた。

「・・・なぜその名前を」

「いいからお聞き。おまえは(かしこ)い子だ。死んではいけないよ。力を失っても、おまえは絶望してはいけないよ」

 老婆の言葉に意味があるとしても、アンブロシアーナには理解できなかった。そういう者のことを彼女は知っていた。

「何を知っているの? あなた・・・・・・魔道具使い(マグトゥール)ね!」

 それに老婆は答えず、初めて眸を(そむ)けた。

「何を見たの? どうしてここに・・・・・・」

 アンブロシアーナは魔道具使いの中には、未来を予測する力を持つ者がいることを知っていた。しかしそれは魔道具の強烈な反動と共にある。この老婆がそうであることは、間違いない。過度な力を主は認めない。たとえそれが主が存在する以前の文明が(もたら)したものでも。

協会(ギルド)の差し金なの?」

 魔道具使い協会からの使者かと問うた彼女に、老婆は眉を逆立てた。

「あんなやつらと一緒にしないどくれ。いいかい、ジャサス、おまえは運命(さだめ)の通りに動かなくちゃならない。じゃなきゃ彼は死ぬだろう。そしておまえも・・・・・・死ぬだろう」

「・・・意味がわからないわ。彼って誰?」

 訊ねながらも、アンブロシアーナは答えを期待してはいなかった。

 ――この魔道具使いは、思考の破壊が始まっている。

 こうなった魔道具使いの行く先は、すでに決まっている。アンブロシアーナは主がこの老婆を冥府(めいふ)()とすことを、ふと考えた。そしてそれが過ぎた力を持った代償(だいしょう)として、当然なのかどうかと。しかしその考えを振り払い、老婆の声に意識を向けた。

「彼女と行くんだよ、ナターシと」とその魔道具使いは言った。

「ナターシ!?」突如(とつじょ)出てきた名前にアンブロシアーナは訊き返した。しかし老婆は無視した。

「迷ってはいけない。行って確かめるんだ。それがおまえの運命だからね」

 老婆が一歩後ずさり、続いて二歩、さらに数歩と離れて行くと、やがてその形は辺りの(やみ)(まぎ)れた。天蓋から垂れた布が揺れるのを止めて、部屋はまた徐々に静穏な、いつも彼女が見ている広いだけの少女神の寝室へと戻って行った。

 アンブロシアーナは身じろぎもせず数分の間、部屋の一番暗い闇の部分を見つめ続けた。そして自分自身、長い時間を感じてから(つぶや)いた。

「預言者の沈黙にこそ、真実が(ひそ)む」教典(きょうてん)の一節を口にすると、彼女は震えながら大きく深呼吸した。ふと思いついたその言葉は、良くない兆候(ちょうこう)(はら)んでいた。

 魔道具使いがいた気配は消えていたが、彼女の心臓はまだ激しく打っていた。そしてその場に座ったまま、考えていた。そうするよりなかった。なぜなら、時間はもう残り少ないのだから。アンブロシアーナにも、そしてジャサスにも。

 教典の続きにはこう続くのだ。

「沈黙は時を止め、ゆえにわたしを亡き者とする」

 部屋の(すみ)で何かが()み合ったような、カチリという音が響いた。眸を向けたアンブロシアーナは、時を刻む魔道具の明かりがまた一段上がったのを見た。 


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