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ジグリットが目覚めても、今度は側にリネアはいなかった。ジグリットは殴られた頭を擦りながら、寝台ではなく、冷たい床の上で起き上がった。
「くそっ!」ジグリットは床に向かって自分の愚かな失態を吐き捨てた。
忌々しい足枷がまた嵌められ、荒縄で両足が繋がれていた。今度はそれだけでなく、手首にも同じような枷がつけられていた。芋虫のように這いずって、ジグリットは寝台に行き、その箱の角で荒縄を擦った。無駄なことは最初から知っていた。前の荒縄も同じように切ろうと試みたのだが、縄には細い鋼の線条が混ぜてあって切れなかったのだ。
どうして失敗したのか、考えるまでもなかった。確かに自分が莫迦莫迦しいことをしたという自覚があった。ゲルシュタインの血の城がどんな所なのか、知りもしないで、安易に逃げられると考えていた自分に腹が立った。
ゲルシュタイン帝国は軍事国家だ。他国に碑金属を決して渡さず、自国で使い切っているほどに、彼らは武装している。そんな国に魔道具使いが一人もいないなんてことは有り得ないことだ。魔道具使いは、敵の位置を探ることができる。そういう魔道具があるからだ。ジグリットは、だから少女はあそこにいたのだと思っていた。
白金の髪の少女、あの子はアリッキーノの妹だ。それは確信だった。白い肌に髪の色、眸の色は違ったが、それでも蛇の血族に違いない。しかもあの不気味な蜥蜴の人形・・・・・・。
ジグリットは教書で、魔道具使いが最初に与えられる試練について読んだことがあった。人形を自在に動かすことができる。まるで魂ある物のように。
あの蜥蜴がそうだとジグリットは思っていた。アリッキーノの妹のノナが、魔道具使いの一人なら、これほどアリッキーノにとって心強いことはないだろう。
――だからアリッキーノは妹だけ殺さなかったのか。
兄弟や父王を殺した男が、妹にだけ情けをかけるとは思えない。有益だから生かしているのだ。
「魔道具使いを欺いて、ここから逃げ出すことなんてできるのか・・・・・・」
ジグリットは手枷の荒縄を擦り続けながら、絶望に呑まれないよう、懸命に方法を探っていた。
そんな独房に、リネアがやって来たのは、彼が逃亡を実行しようとしてから三日目のことだった。すぐにリネアがやって来て、また自分を詰るのだろうと思っていたジグリットは、三日間一人でいられたことを感謝していたが、それもその日までだった。
「今日は特別にお客様がいるのよ」リネアは入るなりそう言った。
しかし彼女の後からは誰も入ってこない。ジグリットは薄暗い独房に慣れた眸で、扉を見つめた。
「あなたが騒ぎ立てないように、最初に話をしたいの」
彼女は寝台に腰かけているジグリットに近づき、怯えたように彼が寝台に両足を乗せると微笑んだ。リネアは狭い木箱でしかない寝台に上がり、ジグリットの横に座った。そしてジグリットの肩に優しく手を置いた。
「大丈夫よ、ジグリット。でもあなたには自分がどれほどのことをしたのか、身を以て理解してもらうしかないの。辛い選択だわ。わたくしもアリッキーノに言ったのよ。そこまですることないって」
ジグリットは段々、嫌な予感がしてきて、自分の手枷をじっと見つめた。
「アリッキーノは、あなたを殺せって」
やっぱり、とジグリットは溜め息を漏らした。今まで生かしていたこと自体、おかしかったのだ。
「あなたが疵つけた従兵ラドニクは、アリッキーノのお気に入りなのよ。アリッキーノは憤慨しているわ。あなたを殺して、屍体を広間で晒し者にしたいのね」
ジグリットは独房にいても死んでいるのと同じことだと、ずっと考えていた。しかし今は、違った。本当にこれから殺されるかもしれないと思うと、恐ろしくて躰が震えた。リネアはその肩をまだ撫でていた。
「大丈夫って言ったでしょう、ジグリット」
彼女の猫撫で声は、ジグリットにとって、逆の効果でしかなかった。ジグリットはさらに悪寒に誘われ、リネアの手を払い除けたかった。しかし手枷のせいで、それは無理だった。
「アリッキーノはね、あなたを殺せって言ったけど、わたしはそうしたくないの」
リネアの言葉にジグリットが彼女をまっすぐ見返したのは、これが初めてだった。不思議そうなジグリットの錆色の眸に見据えられ、リネアは胸が微かに痛んだ。なぜかわからないその痛みに彼女は嫌悪を感じ、ジグリットから手を離すと腹立たしげに立ち上がった。
「いい、ジグリット。あなたはこれから二度と逃げないように、足を切られるのよ」リネアは一気に言い放った。「切った足は、アリッキーノに渡すわ。罰を与えた証拠としてね。そこまですれば、あの男もきっとあなたを生かしておくことを許してくれるわ」
振り返ったリネアは、ジグリットがまだ真摯な眼差しを自分に向けたままなのを知った。
「聞いているの!?」
「・・・聞いてるよ」
「だったら何か言ったらどうなの!?」
ジグリットはなぜ彼女が怒ったのかわからなかったが、とにかく訊かれた通りに答えた。
「足を切るって、本気なのか?」
「冗談でこんなこと言うわけないでしょう!」
「だったら、断る。そんなこと、ぼくに訊く必要ないだろう。結局、君がしたいようにするだけなんだ」
「先に教えてあげてるんじゃない」
「知りたくなかったね」
リネアはカッとなって、ジグリットの頬を引っ叩いた。小気味良い音がして、ジグリットはようやくリネアから顔を逸らした。彼女は怒り心頭といった様子で、大股で扉へ歩いて行くと、すぐに医師と侍女に入ってくるよう促した。
ジグリットは一言だけ、彼女に言った。
「それが譲歩だとか、優しさだと思ってるなら、それは君の間違いだ。ぼくをチョザへ帰してくれ。それがタザリアの王女たる君のすべきことだ。たとえぼくが本物のジューヌでないとしても、今のタザリアにぼくは必要なはずだ」
リネアは答えなかった。背を向けたまま、ジグリットの言葉を聞いていた。タザリアにジグリットが必要なように、彼女にも彼が必要だった。閉じ込めて、逃げないように足を切断するほどに。その想いの名前を、リネアは考えなかった。それが恐ろしい答えになることを、すでに彼女は気づいていた。しかしそれすら、気づいていないふりをした。
「了承は取ったわ。彼の足を切ってちょうだい」リネアは医師に言った。それは苦しみに満ちた声だった。
医師が寄ってきたとき、ジグリットはかつてチョザの王宮で、無理やり魔道具を躰に埋め込まれたことを思い出した。自分の躰なのに、なぜ他人の思惑通りにならなければならないのか。
医師はジグリットが抵抗することを予期していたのだろう。ジグリットが手枷のついた腕を振り回して、遠ざけようとすると、鞄から黒い革の鞭を取り出して、彼の顔を叩いた。そして鞭の先を掴もうとするジグリットを何度も叩き、ジグリットの気力が萎えるまで、それを続けた。
だが、易々とジグリットも諦めるわけにいかなかった。ジグリットはぐったりと倒れ伏したふりをして、医師が近寄ると、手枷で中年の男の額を思い切り殴った。額が切れ、血が溢れ出した。
医師の手伝いに入っていた侍女が悲鳴を上げ、アウラとリネアが野蛮な二人の戦いを独房の隅から茫然と見ていた。
しかしジグリットにそれを気にしている余裕はなかった。扉へ逃げようとしたジグリットを、医師が眸に流れてきた血を拭いながら、捕まえて長い針のついた注射器を肩に刺し込んだ。それでもジグリットは抵抗した。それも懸命に。
しかし徐々に麻酔の効果で、力が抜け、ジグリットは床に倒れた。
本当は抵抗に意味などなかった。すでに手も足も枷に繋がれている。それに、今度逃げ出したところを、兵士に見つかったら、さすがのアリッキーノも自分を公開処刑にするだろう。それに比べたら・・・・・・死ぬことに比べたら、足なんか安いものだ。
しかしそれと覚悟は別問題だった。あまりの悔しさと、自分を待つ恐怖にジグリットは呻いた。
医師によって麻酔を施されたジグリットに、リネアが近づき、そっと囁いた。
「あなたが手にしている命も時間も、わたしが与えたものだということを忘れないでちょうだい」
ジグリットは夢うつつにそれを聞いた。
「あなたは私の温情によって生かされているのよ」
起きていようとする意志が砕け、どんどん眠りに引き摺り込まれて行く。やがてジグリットは、完全に躰の自由と意識を奪われた。