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ジグリットが逃げ出そうとしたことは、血の城を騒がし、ラドニクが怪我をしたことも含めて、アリッキーノの大変な怒りを買った。
リネアが普段なら人のせいにするところを、わざわざ自分の失態まで口にして、彼を宥めようとしたが、火に油を注ぐようなものだった。
アリッキーノの命令は簡潔だった。
「いますぐ、ジューヌ・タザリアを殺せ」
リネアはそれに首を縦に振るわけにはいかなかった。なぜなら、あんなにおもしろい玩具は、そうそうないだろうからだ。それ以上にジグリットを殺したくない理由を、彼女は考えようとしなかった。
ジグリットを殺さなければ、アリッキーノの怒りは解けないだろうし、ジグリットを殺せば、自分がおもしろくない。血の城のような退屈な場所で、ジグリットを失うのは、彼女の本意ではなかった。
リネアはジグリットを見つけた義理の妹、ノナの居室にいた。ノナがゲルシュタインの魔道具使いツザーの愛弟子として、優秀な魔道具使いの素質を持っていることを、彼女は知っていた。もちろん、ノナのどこをも見通すことができる視跡の力についても知っていた。
「ノナ、わたくしの願いを聞いてくれない?」
リネアが作り笑いで問いかけると、その殊勝な態度は、ノナをご機嫌にさせた。兄を奪ったいけ好かない女だと思っていたが、ノナは義姉が夫である兄よりも、ジグリットに執着していることをすでに知っていた。なぜなら、彼女はどこでも見ることができるのだ。独房の中でさえも。
「いいわよ、おねえさま。なぁに?」
「あのね、わたくしやっぱり弟を死なせたくないの」
「しってるわ」
「だから、皇帝陛下に口添えしてくれないかしら? もう二度と弟が迷惑をかけないようにするからって。今回の罰もきちんと与えるからって」
「おにいさまに、あたしからそういってほしいってこと?」
「ええ。ダメ?」
ノナはドゥエちゃんと相談することにして、その蜥蜴の人形とぼそぼそ話し合った。そしてしばらくして不安そうなリネアに笑いかけた。
「いいわ。おにいさまにくちぞえしてあげる」
彼女は兄のアリッキーノとリネアが、いまだに取ってつけたような夫婦であることを喜んでいた。だからノナにしても、ジグリットを殺してしまうことには反対だったのだ。ジグリットを殺してしまえば、リネアの次の執着相手が兄になるかもしれない。それだけは許せなかった。
「ねえ、ノナ」リネアは義妹に微笑みながら言った。「どんな罰を与えればいいかしら? もしあなたの大事な物が、勝手に逃げ出そうとしたら、どうする?」
ノナは不気味な八本足の蜥蜴の一番後ろの左足を、手持ち無沙汰に齧っていた。そしてリネアに向かって子供らしい無邪気な笑みを浮かべて、人形を口から離すと、その足を引き千切った。
「こうするわ。あしがなかったら、どこにもいけないもの」
彼女は人間の足は人形とは違い、二度と生えてこないのよ、と言おうとした。しかしそこで躊躇った。それが一体なんだと言うのだろう。ジグリットの足が二度と生えてこなくても、自分には何の問題もない。むしろ、それ以外に彼の強固な意志を削ぐ方法は見当たらないように思えた。
リネアはノナの居室を出た後も、ずっとジグリットのことを考えていた。彼が逃げようとするとは、彼女は思っていなかった。ここはゲルシュタインの宮殿の中だ。いわば敵国の領土の真っ只中なのだ。本気で逃げ出せると思っていたのだろうか。それとも、ずっとあの独房にいたせいで、頭がおかしくなったのかもしれない。現に彼はずっと元気がなかった。正常な判断ができなくなっていたのだろう。
リネアはすでに何度も通った通廊をアウラと共に戻っていた。侍女はジグリットが逃亡しようとして以来、アリッキーノが乗り移ったかのように「いますぐにあの孤児を殺してしまった方がいい」と繰り返し忠告していた。
リネアは思いついたことを彼女に言うのが躊躇われた。きっと侍女は激しく反対するだろう。それは想像に難くなかった。
案の定、自室に戻ってアウラに、ジグリットをどうするかを話すと、彼女は熱り立った。
「リネア様、正気なのですか!? ジグリットを生かしておくなんて・・・・・・わたしは陛下の仰る通りにすべきだと思います」興奮気味にアウラが言う。
リネアは小煩い侍女を睨んだ。
「黙りなさい、アウラ。わたくしはもう決めたのよ。ノナとも話はついています」
「ノナ様はまだ子供です。陛下の命に背くことがどういうことなのか、理解されていないのです。それに罰を与えたぐらいで、あの孤児が改心するとは到底思えません。わたしは賛成しかねます」
リネアは侍女と言い争うつもりはなかった。
「おまえが賛成しようとしまいと、わたくしに何の問題があるの?」彼女は冷淡に言った。「おまえがこれからすることに、どうしても我慢ならないのなら、ここから立ち去るがいいわ。侍女の代わりは幾らでもいるのよ、アウラ」そこでリネアは皮肉った笑みを浮かべた。「おまえが一番、そのことを知っていると思っていたけど」
アウラは反論しようと握り締めていた拳を、すぐに解いた。口を閉じ、彼女はうなだれた。
「はい、リネア様。申し訳ございません」
アウラは他人を蹴落としてまで、ようやくリネア付きの侍女になったのだ。その地位をこんなところで捨てるわけにはいかなかった。それに、所詮はもう随分昔から、リネアの共犯者なのだ。
「わかってくれると思っていたわ、アウラ。さあ、急いで医師の準備を。ジグリットがまた逃げ出そうなんて考える前に、彼の足を奪ってしまいましょう」リネアは、にっこりと微笑した。それはあまりにも晴れやかな笑顔だった。




