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その日は特に陽射しが強かった。ジグリットは午前中、ジューヌの部屋で彼と、彼の姉リネアと共に、勉強をしていた。教師はマネスラーという三十後半のいけ好かない男で、彼は王の側近ギィエラと同じウァッリス公国出身者だった。学士院で様々な学問を修めたというその教師は、助手の二十歳の青年オイサと交代で子供達の勉強を看ていた。オイサがタスティン王子の勉強を看ている間は、マネスラーがリネアとジューヌ、そして新たに加わったジグリットを看なければならないことになっていた。教科によって彼らは入れ替わり、今日はマネスラーの歴史原論の日だった。
ジグリットはこのマネスラーが苦手で、どちらかというと、天文学に精通している気の良いオイサが好きだった。彼は平民育ちで、ジグリットにも分け隔てなく接したが、マネスラーは貴族の生まれで、育ちによって人は区別されるべきと考えていたからだ。
「――このように、およそ七千年前に古代文明オグドアスが崩壊してから、人々は五千年もの間、空白の時代を過ごしたわけであります。我々バルダ大陸の民は、諸所に分散しており、主、バスカニオンが二千年前、人々を一所に集めるまで、文明が再び生まれることはできなかったのです」
マネスラーはそこで、懸命に教書の文字を追っていたジューヌを細長い木の棒で指した。
「ジューヌ様、バスカニオンが降臨した地名をお答えください」
ジューヌは突然の質問に、困惑げに眸を上げて、意味もなく辺りを見回した。ジグリットは自分用の小さな黒板に何度も同じ文字を書き連ねながら、どうせジューヌは答えられないと思った。彼はジグリットよりたくさんの文字を知っていたが、間違えてマネスラーに怒られるのが怖くて、滅多に発言しなかった。
「では、リネア様」
問われてリネアは気だるげに答えた。
「フランチェサイズ」
マネスラーは二人の忌々しい子供に、苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。彼の機嫌の良い時があるなら、それはこの世から子供がすべて消え去った時だけだろう、とジグリットは思っていた。
「その通りです。現在、アルケナシュ公国にあるフランチェサイズ大聖堂は、教会によりバスカニオン降臨の地として認定されています」
ジグリットはジューヌとリネアとは違う教書を前にしていた。もっと簡単で、五歳や六歳の子供が習う読み書きの練習に日々、明け暮れていたのだ。しかし、耳ではほぼ毎日、マネスラーやオイサの話す歴史原論、帝王学、天文学、数式理論、人文地理学、芸術学など、多岐に渡る学問を真剣に聞き入っていた。ジグリットにとって、それらはどれも新鮮で興味深く、また魅力に溢れていたのだ。
「では、古代文明に話を戻しましょう。現在、ウァッリス公国を中心に埋没しているとされる、オグドアスの遺産が三種あります。ジューヌ様、それらをすべて答えてください」
しかし、またしてもジューヌは教書を何度も捲った末、答えを見つけられず、押し黙ってしまった。マネスラーは元から不快を顕わにしていた顔をさらに歪ませて、リネアに質問しようとした。
「それでは――」
そこで昼を告げる鐘が鳴り、マネスラーの言葉は途切れた。
「今日はここまでとしましょう」
ジューヌが「やったぁ」と嬉しそうに立ち上がる。リネアも続いて教書を閉じた。しかし、ジグリットはまだ黒板に文字を書き写していた。
「ジグリット、見せなさい」とマネスラーが大きな机の端に座っていたジグリットに近寄ってきて、低い声色で手を差し出した。ジグリットはようやく白墨を持つ手を止めた。
黒板には、今日彼が覚えなければならない五十の言葉が何度も重なるようにして綴ってあった。マネスラーはそれらをまじまじと眺め、ジグリットに教書を閉じさせると、暗記したことを確かめるために、黒板を消してそれらを一つ一つ読み上げ、再度書かせた。
ジグリットは五十の文字を澱みなく書いた。そして、その終わりに三つの習っていないはずの単語を並べた。
[魔道具・碑金属・歪力石]
「・・・・・・ジグリット、これは何です?」とマネスラーは冷ややかに問いかけた。「誰がこんなものを書けと言いました」
それはマネスラーがジューヌにした最後の質問の答えだった。ジグリットはマネスラーの白い痩せこけた頬を見上げた。マネスラーの顔は、極限にまで眉が寄せられ、ジグリットを睨む眸には蔑んだような感情が浮かんでいた。だが、ジグリットは眸を逸らさず、彼と見つめ合った。
――もっと色々な事が知りたい。ぼくもジューヌ王子やリネア王女と同じ授業が受けたい。
ジグリットは随分前からそう思っていた。読み書きの練習は、その過程で否が応にも付いてくるとジグリットは感じていた。教書に載っている子供向けの文章はくだらなく、つまらなかった。意味のない色の羅列や、野菜の名前なんかに興味はない。その意味を込めた眸に、マネスラーは黒板の文字を乱雑に消すことで返した。
「ジグリット、言われたことをこなせば良いのです。あなたはまだ語彙も少なく、簡単な文字さえ知らないでしょう」
ジグリットは反論したかったが、彼はさせなかった。マネスラーは黒板をジグリットの前に置くと、自分の本を手にさっさと部屋を出て行った。その際、一度振り返り、王子と王女に挨拶する。
「それではリネア様、ジューヌ様、明日は数式理論ですから、宿題は忘れずに」
しかしマネスラーは、ジグリットにだけは声を掛けなかった。一礼して彼が出て行くと、ジグリットはがっかりして溜め息を漏らした。このままでは、後一年は読み書きの練習しかさせてもらえないかもしれない。
落胆していると、まだ部屋にいたリネアが横目でちらりとジグリットを見つめ、近寄って来た。ジグリットは嫌な予感がしたが、そういう素振りを見せず、ただ教書と黒板を重ねて手に持ち、立ち上がった。
「ねぇ、黒板に何を書いたの?」リネアが静かな笑みを浮かべて訊ねた。
答えず、手振りで返事をしようともしないでいると、リネアはジグリットの持っていた黒板に手をかけた。
「訊いているのよ、答えなさい」と今度は少し強い口調で言う。そしてジグリットの黒板を奪い取ると、無理やりチョークを箱から取り出し手に持たせた。「さぁ、書いてよ」
ジグリットがリネアから眸を逸らし、部屋の続きになっている寝所を見ると、ジューヌがいつものように寝台の上からこちらを窺っていたが、眸が合うと彼はすぐに顔を逸らした。
ジグリットはチョークを動かし、マネスラーの質問の答えを書いた。
[魔道具・碑金属・歪力石]
それを見たリネアは、一瞬驚いた表情をしたが、すぐに強い視線でジグリットを睨みつけた。
「もしかして、マネスラー先生に取り入ろうとでも思ってるの?」
今度はジグリットが驚く番だった。急いで首を横に振る。しかしリネアは許さなかった。
「それとも、ジューヌより自分の方が賢いとでも言うつもりだった? ちょっとあの子が答えられない質問に答えたからって、先生はわたくし達の先生であって、ジグリット、おまえの先生なんかじゃないのよ。お情けで読み書きを教えてもらっているだけだということを、忘れたわけじゃないでしょう!」
ジグリットはただうなだれて、リネアの怒りが収まるのを待とうとした。それが一番良い解決法だということを、ここひと月の間の経験で知っていたからだ。彼女が自分に怒りをぶつける理由なら、幾つも考えつく。貧民窟の孤児だから、グーヴァーの鞍を盗もうとした盗人だから、いきなりタザリア王に家族同然だと発言され優遇されているから。しかし、リネアの怒りはもっと別の所にあるように思えた。まるで、そう・・・・・・鬱憤を晴らすための玩具にされているような感じがジグリットにはしていた。彼女が時折、怒りながらもその口元に不気味な笑みを浮かべることがあるのに、ジグリットは気付いていた。
「何か言ったらどうなの?」
リネアは反応のないジグリットに余計に腹立たしさが増したのか、指先で肩を小突いた。ジグリットの躰が後ろに揺れる。その拍子に、持っていた箱が絨毯に落ちてチョークが散らばった。
拾い上げようと屈んだジグリットに、リネアが朽葉色の室内履きでチョークを踏みつける。
――ニ本しかないチョークなのに。
ジグリットはその場に屈んだまま、懇願するように彼女を見上げた。
「言いたいことがあるなら、口で言いなさいよ」
リネアが妖しい薄笑いを浮かべている。ジグリットはきゅっと口を閉じて、彼女が足を退けてくれるのを待った。
「何も言うことはなさそうね」
その瞬間、パキパキッと弾けるような音がして、ジグリットは愕然とした。チョークが無ければ、今日はもう読み書きの練習ができない。それどころか、他の人との会話にも支障が出る。ジグリットは文字を覚え初めてから、黒板を持ち歩いて他の人と会話するようになっていたのだ。それに、チョークがなければ、明日の授業はどうすればいいのだろう。
リネアが足を上げると、そこには割れて砕けてしまったチョークの残骸だけが残っていた。
「あら、ごめんなさいね。そこにそんな物が転がってるなんて、知らなかったものだから」
リネアの言葉をジグリットはもう聞いていなかった。砕けたチョークの残骸の中から、少しでも大きい物を探し出す。
――まだ使えるかもしれない。
小指の先ほどのチョークを拾うと、リネアがその手を叩いた。
「ちょっと、そんな物捨てなさいよ! 卑しいわね!」
チョークが遠くへ飛んで行く。そこに、部屋の扉口から声がかかった。
「リネア様、ジューヌ様」
「お食事の用意が整いましたよ」
ジューヌ付きの侍女のヤーヤと、リネア付きの侍女のテマジが立っていた。最近、ジグリットに付いていた侍従のウェインは別の仕事を任されるようになり、実質ジグリットは一人で自分のことをしなければならなくなっていた。だが、その方が気楽でいいのも本当だった。
「そう、すぐに行きます」とリネアが何事もなかったかのような顔をして言う。寝室からジューヌも駆けて来て、ヤーヤの腰に抱きついた。
「ぼく今日はお部屋で食べたい」
「ダメですよ。一階の昼食室でいただいた後は、午後の授業ですからね」
ヤーヤとジューヌは仲良さげに話しながら出て行った。それに続いてリネアも上機嫌で出て行く。侍女のテマジだけがリネアと交代に部屋に入ってきて、リネアの授業に使った黒板や教書を取りに来た。
ジグリットは飛んで行った小さなチョークの破片を拾い集めていた。遠くへ飛んだチョークの欠片を手に取ろうとすると、隣りからがさがさに荒れた手が伸び、ジグリットより先にそれを掴んだ。そしてジグリットの持っていたチョークの箱にコトンと入れられる。
ジグリットがようやく立ち上がると、テマジが心配そうな表情で言った。
「大丈夫?」
ジグリットはかすかに微笑して頷いた。
「そう・・・・・・リネア様も、どうしてこんな事なさるのか」
テマジは絨毯に散ったチョークの破片を鳶色の瞳で見つめた。
「新しいチョーク、後でこっそり持って来てあげる」
「ありがとう」とジグリットは、無音で唇を動かした。
テマジはにっこり微笑むと、リネアの教書と黒板を胸に抱いて、部屋を出て行った。ジグリットは、リネア付きの侍女であるテマジが親切にしてくれることが、最近は何よりも嬉しかった。
彼女はリネアがいる時は、ジグリットに話しかけないように努めていたが、二人でいる時や、周りにいるのが侍女や侍従だけの時は、声をかけてくれた。十六歳のテマジは、スランジというアンバー湖より南の街の没落貴族の出で、リネア付きの侍女になった事は家族中の誇りなのだと言っていた。
しかし、ジグリットは、リネアと四六時中一緒にいるぐらいなら、貧民窟にいた方がマシだと思っていた。リネアはここの所、ジグリットだけではなく、テマジにも酷い仕打ちをするようになっていたからだ。彼女の手が荒れているのも、そのせいだった。リネアは侍女三人分にあたるような量の仕事を彼女に与えていた。テマジがチョークを持って来てくれるのは有り難かったが、それがリネアに見つかれば、彼女がどれだけ怒られるだろうと思うと、ジグリットは気が気じゃなかった。
授業を受けさせてもらえる事はこの上ない喜びだったが、どうせなら、タスティンと一緒の授業を受けさせてくれればよかったのに、とジグリットは何度目になるかわからないことを思った。しかし、ジグリットがジューヌの影武者として育てられているなら、ジューヌと常に一緒にいなければ意味がないことも知っていた。そしてリネアはほとんど常に、自分の弟に付き添っていた。自分にできることは、耐えることだけだと思うと、ジグリットは明日の授業も、それからずっと先のことも憂鬱にならざるを得なかった。




