3-2
血の城は広く、雑然とした場所だった。初めて来訪した者が、望んだ部屋に辿り着いたことはないとさえ言われていた。しかし生まれながらに血の城の王族に仕えていたラドニクにとって、城の迷路のように入り組んだ通路は眸を閉じていても歩けるほど知り尽くした場所だった。
アリッキーノの使いで、別の従兵に重要な文書を届けた帰り、ラドニクは廊下の曲がり角に信じ難いほど薄汚れた格好の少年がいるのを見た。少年は赤い壁にへばりついて、先の通路を覗き込んでいる。いかにも怪しい。
ラドニクは滑るような動作で音も立てずに、まだこちらに気づいていない少年の背後に近づいた。そして彼の汚い上衣を眉を寄せながらも鷲掴んだ。
「うわっ! 誰だ!?」
少年が振り返ると、ラドニクはその錆色の眸と髪をじっと見つめた。
「君こそ誰だ、こんな所で何をしている?」言いながらも、ラドニクはその少年をどこかで見た覚えがあった。しかしなかなか思い出せない。「おまえ、兵士じゃないだろう。勝手に城に入り込んだのか?」
「い、いや・・・・・・ぼくは・・・・・・」
ラドニクはその汚い上衣を掴んだままでいた。思い出せない限り、離すわけにもいかない。
「ちょっと迷ってしまっただけなんだ。ちょうどよかった、出口はどこなのかな? 教えてくれないか?」
従兵を前にしても、物怖じ一つしない少年に、ラドニクは怪訝な顔つきになった。
「ゲルシュタインの者じゃないな」
その途端、少年の眸が琥珀色に光った。ラドニクはさっと上衣を離して、少年から離れた。間を置かずに自分の居た場所に、短刀の切っ先が行き過ぎる。
「どこの国の密偵か知らないが、もう少しマシな格好で来るべきだな」ラドニクは怒気を顕わにして言った。そして腰の剣を掴んだ。
「密偵じゃない。迷っただけだと言っているだろう。邪魔しないでくれ」短刀を掴んだまま少年が返す。
その顔にラドニクは、ようやく記憶が甦った。
「おまえ、タザリアの王だな」
ジグリットは答えない。ただ睨み返すだけだ。
ラドニクは剣の柄から手を離した。
――だとしたら、ここで彼を殺すわけにはいかない。
短刀を構えたまま、ジグリットが訊ねた。
「なぜ剣を抜かない?」
「おまえを殺す許可をアリッキーノ様に戴いていない。もしおまえを殺せば、アリッキーノ様はお怒りになるだろう。それに、リネア様もだ。それはわたしの望むところではない」
ラドニクは素手でジグリットを捕まえるしかなかった。
ジグリットは短刀を持ったまま、ラドニクを退かせようと、斬りかかった。ラドニクは器用にその手を掴もうとする。しかしジグリットはすぐに腕を引き、また素早く斬りつけた。避け切れず、ラドニクの上衣に刃が掠る。
「頼むから退いてくれ。出て行きたいだけなんだ!」ジグリットが怒鳴った。
「おまえを逃がしたら、わたしはアリッキーノ様の信頼を裏切ることになる」
二人は睨み合い、ジグリットは誰か他の兵が来る前にと、すぐに次の攻撃を仕掛けた。ラドニクがジグリットの短刀を持った腕を掴みにくるとわかっていて、わざと掴みやすい位置に突き出した。
ラドニクがジグリットの腕を取る。ラドニクはそれと同時に、彼の腕をへし折るつもりでいた。しかしジグリットの方が一瞬、速かった。彼は一歩前に進み出て、ラドニクの鳩尾に逆の拳を抉るように叩き込んだ。
「う゛あっ・・・」
ラドニクがよろめいたところを、ジグリットは倒れないように彼の爪先を自分の右足で踏みつけておいて、左膝で再び鳩尾を突き上げた。
「・・・がはッ」
詰まった息を吐き出すように喘いで、ラドニクは倒れた。
ジグリットは誰もいないか、左右を確かめ、落ちた短刀を拾い上げると、また走り出した。
――困ったことになった。こいつはすぐに目覚めるだろう。
――すぐに追っ手が来る。
彼を殺すという手もあったが、そうはしたくなかった。見る限り自分とそう歳も違わないただの兵士だ。それに彼の褐色の肌は、男女の違いこそあったが、ジグリットに懐かしいエスタークの少女ナターシを思い出させた。
ジグリットは長い通郎の入り組んだ城の中を、警戒しながら進んで行った。道は複雑で幾重にも分かれた曲がり角についたかと思うと、廊下の途中にふいに階段が現れたりした。おかげで、階段を降りた直後、予期しない方角から声が上がり、ジグリットが眸を向けると巡回中の兵士二人が自分を指差し、何か喚いていた。
慌ててジグリットは逆方向へ走り出す。曲がり角を二度曲がると、籠を抱えた侍女とすれ違った。赤毛の女性は逃げてきたジグリットを見るなり、甲高い悲鳴を上げた。こうなるともうジグリットもどこへ逃げればいいのかわからなくなり、混乱したまま人気のない場所を求めてどんどん奥へ入って行くしかなかった。
追ってくる兵士の足音は最初は背後に二人だったが、すぐに四人ほどになり、あっという間に、どの通郎からも騒ぎ声が聞こえるようになっていた。
天井の低い暗い廊下に出たとき、ジグリットは陰鬱な雰囲気を感じて、道を間違えたことに気づいた。だが、戻ることはできなかった。背後からは兵士の追ってくる足音がしていた。せっかく逃げ出せたのに、こんな所で捕まりたくはない。
一本道の廊下をひたすら進んで行くと、行き止まりに辿りついて、ジグリットは眸の前に上に伸びる階段と、その下に小さく縁取られた正方形の扉を見つけた。腰を曲げて通らなければならないほど小さく作られた扉は、常用されていないのか、錆びた錠が一つだけついている。
ジグリットは扉の外に何があるのか、どうなっているのか、まったく知らなかった。ただ逡巡している時間などなかった。背後から複数の足音が迫っていた。持っていた短刀の柄で、錠を叩き壊す。それは呆気ないほど脆く、足元へ転がった。
扉を開けた瞬間、外の凄まじいほどの陽光に眸が眩んで、ジグリットは後ずさった。眸で見えるものは白く煙った光の洪水で、他には何も見えなかった。暗い洞窟のような部屋に閉じ込められていた期間を思い、ジグリットの胸に言いようのない悔しさが込み上げた。それと同時に喜びも。
――これで自由だ!
――チョザに戻れるんだ。
まだしっかりとは機能していない眸を瞬かせながら、扉の外へと足を踏み出す。柔らかい草地を裸足の裏で感じた。そして流れる微量の風は乾いて心地良く、空から降り注ぐ太陽の熱が白い頬をちくちく刺した。
馴れてきた眸をうっすらと開き、ジグリットは辺りを見渡した。どうやらここは宮殿の裏手らしく、鬱蒼と茂った鮮やかな緑の葉を持つ木々がずっと先まで続いていた。隠れるには最適だ。走り出したジグリットの後ろから、ようやく追いついた兵士達が騒ぐ声が聞こえた。
一度だけ振り返ると、彼らは扉の内側に突っ立ったまま、こっちに向かって必死に手を振っている。何を言っているのか聞き取れないほど遠くまで来ていたジグリットは、不穏な雰囲気を感じたが、立ち止まらずに、木々の間に分け入った。
――なぜ追って来ないんだ・・・・・・。
疑問に思った瞬間、ジグリットの左肩に何かがどさっと落ちてきた。驚いて肩を見たジグリットは、恐怖に眸を瞠った。黒くて長い紐のようなものが乗っていたのだ。
「うわッ!!」慌てて払い除ける。
しかし落ちた鎖蛇はその場でゆっくり頭をもたげると、不気味なシュッという音を立てて、ジグリットを威嚇した。真っ赤な眸をした、全長が二十インチ(50.8センチ)はある蛇だ。同時にすぐ真後ろで何かが複数、這いずる音が聞こえてくる。ジグリットは蛇から眸を離したくはなかったが、後ろに何がいるのか確認せずにはいられなかった。
振り返ったジグリットの眸に、少なくとも五匹、もしくはそれ以上の鎖蛇がぞろぞろと地面を這いずりながら、こちらへ向かって来るのが見えた。
さっきまでの開放感など、吹き飛んでいた。握った短刀がぶるぶる震えている。鎖蛇は猛毒を持つ蛇だ。しかもこれだけの数に噛まれたら、まず間違いなく死が待ち受けている。
前方の鎖蛇は真紅の眸をジグリットに向けたまま、頭をゆらゆらと揺らしていた。そして何の前置きもなしに、突如跳ね上がった。
ジグリットが短刀を一閃する。硬い鱗を掠め、衝撃で蛇が横に落ちた。しかしそれぐらいでは蛇も致命傷にはならない。すぐにまた頭を持ち上げ、先ほどのようにゆらゆらと揺れ始める。
背後の蛇達も這いずるのを止めていた。大小の差はあったが、すべて同じ種類の蛇だ。ジグリットはそれらに取り囲まれていた。走って逃げるには、もう遅かった。蛇がどれだけ速く動けるのか知らない以上、背中を向ける気にはなれない。たとえ足でも噛みつかれれば、猛毒はすぐに血管に入り込み、躰を巡るだろう。
蛇達は徐々に近づきつつあった。灰色の躰に黒の鎖模様、そしてぞっとするような赤い眸が、ジグリットを見据えている。一匹が急に頭をくいと上下した。同時にすべての蛇が、ジグリットに向かって跳ね上がろうと頭を上下する。短刀で何匹払い除けられるかわからなかったが、ジグリットは切っ先を構えた。そのときだった。
急にすべての蛇が地面に伏せ、ぴたりと動くのを止めた。ジグリットが不思議に思っていると、木々の間から一人の少女が現れた。まだ十歳かそこらの女の子だ。
しかしジグリットはその髪とその眸で、すぐに彼女が誰かわかった。
「皇女ノナ」
白金の髪と真っ赤な眸。少女は胸に奇妙な蜥蜴の人形を抱いていた。
「あなた、にげてきたんでしょ。ええっと・・・・・・」
そこでなぜかノナは人形の口に耳を寄せ、頷いた。
「あたし、おもしろいからみていたのよ。ずっと。ラドニクをやっつけちゃうんだもの。すごいのね」
ジグリットは首を傾げた。ラドニクというのは、最初に出会った兵士だろうか。だが、ノナはその場にいなかったはずだ。
「でもここはへびのにわだから、あなたはもうつかまっちゃうのよ。あたし、しってるもん」
変な少女だ。ジグリットは気味が悪くなってきて、早くここから離れようと訊ねた。
「外に出たいんだ。出口はどこだ?」
今度はノナが首を傾げた。
「でぐちなんかきいてもむだなのに。いったでしょう。あなたはもうつかまっちゃうのよ。それでね、おにいさまはあなたをつかまえて、ラドニクにひどいことしたから、ごうもんしてころしちゃうの」
そのとき、自分が走ってきた方角から声がした。兵士達がやって来たのだ。
ジグリットは厳めしい顔を作って、ノナに言った。
「君を人質にしたら、ここから逃げ出せるかもしれない」
するとノナは急に、けたけたと笑い出した。それはもう、これ以上ないほどに可笑しいといった様子でだ。
「な、何だよ、人質に取られてもいいのか?」
ノナは蜥蜴の人形をジグリットの方へ突き出した。すると、奇妙なことが起こった。八本足の人形が、ノナが触れてもいないのに、勝手に口を開いたのだ。
「魔道具使いを殺せばどうなるか、その身を以て知りたいか、小僧」
それは恐ろしく低音で、しかも大人の男の声だった。ジグリットは驚愕と恐怖で後ずさった。さっきまで大人しくしていた蛇達が、またジグリットを見つめて気味の悪い鳴き声を上げ始める。
兵士が三人、その音に気づいて駆けてくると、ジグリットの腕を両側から捕らえて、ノナにお辞儀をした。
「ノナ様、申し訳ございません。われわれの不手際でお庭に、このような侵入者を入れてしまいまして・・・・・・」
兵士は全員、異様な臭いをまとっていた。それが蛇避けの香りだとジグリットは知らず、ものすごい激臭に顔をしかめていた。
「ほら、おまえも謝れッ!」
「無礼者がッ!!」
ジグリットは二人の兵士に思い切り頭を叩かれ、それでも黙ってノナを見ていた。彼女の細く白い腕に抱かれた蜥蜴は、今は口を閉じ、何事もなかったかのようにじっとしていた。しかしジグリットは、兵士達が蜥蜴に背を向けた途端、それがにやっと薄気味悪く笑うのを眸にした。逃げ道が断たれ、愕然とする思いと共に、ジグリットは自分が捕らえられた血の城と、そこに住まう者に対する畏怖を改めて感じていた。