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チョザがゲルシュタインの統制下に置かれてから、どれだけの時が流れたのか、ジグリットは知らなかった。彼はまだ独房にいた。白帝月の帝都ナウゼン・バグラーは、昼間は暖かかったが、夜間になると霜が降りるほど寒かった。唯一取り替えてもらった寝台の藁も、すでにしっとりと湿気を含み、ジグリットは松明さえない独房で、扉の下部から漏れてくる廊下の明かりで一日を計っていた。
一方、謁見の間では、ゲルシュタイン皇帝、アリッキーノが新たな領土の指揮権を部下に与え、民衆にゲルシュタインを受け容れるよう推し進めていた。タザリアの肥沃な大地と湖、それに働き者の民衆にアリッキーノは満足していた。だから許していたのだ。リネアの我儘を。
「一体、いつになったら、リネア様はタザリア王の処刑に同意して下さるんでしょう」
ラドニクがそれを口にするのは、すでに何度目かだった。アリッキーノは不満そうな従兵に笑いかけた。
「いいじゃないか。アレの暇潰しの玩具になっているようだからな」
しかしラドニクは顔をしかめたままだった。
「幾ら姉と弟の間柄とはいえ、タザリア王はタザリア王ですよ。まだ生きていることが民衆に知られたら、暴動でも起きかねません」
アリッキーノは玉座の肘掛けに腕を置き、頬杖をついた。
「ジューヌ・タザリアがどんな人物なのか、おまえも知っているだろう」彼は皮肉めいた笑みで言った。「弱者がおれの弊害になることはない。所詮は毒にも薬にもならん存在だ。しばらく放っておけ」
アリッキーノの自信に満ちた態度に、ラドニクも渋々頷いた。もちろんラドニクも知っていた。わが主君なら殺そうと思えば、いつでも誰でもすぐに殺すことができるのだ。敵が敵だとわかってからでも、それは遅くはなかった。
実際、ジグリットとアリッキーノは同じ血の城に暮らしていた。ナウゼン・バグラーの宮殿は、チョザの王宮とは違い、複数の城から成るものではなかった。血の城は一つで宮殿そのものなのだ。巨大で複雑に入り組んだ一つの城。そこには皇帝の座所もあれば、端女の宿舎も、武器庫も、もちろん監獄もあった。
ゲルシュタインの代々の皇帝にとって、監獄に閉じ込められた敵は、本当の脅威ではなかったのだ。彼らの脅威は常に身近にあって当然だからだ。現に、アリッキーノの兄弟も父王も身近な者に殺された。鎖蛇の血族は、そうした中で作られたのだった。その皇帝であるアリッキーノが、独房にいるジグリットを恐れることはまずなかった。
そんなこととは露知らず、ジグリットは独房の中で、他人の心配ばかりしていた。チョザがゲルシュタインに統合されたというのなら、そこにいた人々がどうなったのか、ジグリットは気がかりで堪らなかった。
グーヴァーのように、みんなが殺されてしまったかもしれないと思うと、ジグリットの胸は抉られたように痛んだ。幾日もを、そんなことを思い悩んで過ごしているうちに、ジグリットはそれが自分のせいだと思い込むようになり、塞ぎ込み、リネアが独房を訪れても、まともに相手すらできなくなっていた。
リネアはほぼ毎日、ジグリットの許を訪れていた。彼女は元気のなくなってきたジグリットを、わざと詰ったり、血気づかせようとしたりしたが、何の意味もなかった。
そんなある日、リネアは臭い藁の寝台の上で、膝を抱えて座り込んでいるジグリットに耐え兼ねて声をかけた。
「ねぇ、ジグリット。最近、大人しすぎてつまらないわ。もっとキャンキャン吼えたり、芸をして見せてくれなくては、生かしている意味がないでしょう」
ジグリットは顔も上げずに低く答えた。
「だったら、殺せばいいだろ」
「嫌よ、そんなの。おまえが死にたいなら、絶対に殺さないわ」ふふっとリネアは微笑した。
彼女はどうすれば彼の気を惹くことができるか考えていた。そして言った。
「遊戯をしましょう。おまえが勝ったら、一時間だけその足枷を外してあげる」
ジグリットはいまだに嵌められたままの、木製の枷を見下ろした。それは確かに魅惑的な申し出だった。枷と荒縄のおかげで、ジグリットは両足が繋がれ、幅が五インチ(およそ12.7センチ)ほどしか開かなかったのだ。腕は自由だったが、何度試しても、枷も縄も解くことができなかった。
ジグリットはようやく頭を上げ、リネアの不遜な笑みを見返した。
「いいよ、どんな遊戯?」
彼女は機嫌よく答えた。
「わたくしが蛇の子を身篭っているかどうか、当ててみて」
ジグリットは驚いて、眸を瞠った。
「さあ、当ててみてよ」リネアが寝台に近づいてきた。
ジグリットは後ずさり、冷たい漆喰壁に背を押しつけた。
「何言ってるんだ!?」
「あら、わたしは蛇の女になったのよ。知らないわけじゃないでしょう。皇帝の妻だもの。その可能性はあるわ」
彼女は湿った藁に片膝を乗せてきた。ジグリットはさらに下がろうとしたが、それ以上は下がれなかった。ジグリットの背中は、壁に沿って上下に動いただけだった。それはまさしく、毒蛇の眼前にいるような気分だった。
「蛇がわたしに何をしたのか、考えてみたことある?」
ジグリットの唇が震えているのを、リネアは間近で見て取った。そして楽しげにふふっと笑った。
「怖いの? 蛇がわたしに何をしたのか、考えるのが怖いのかしら? それとも、わたしが怖いのかしら?」
ジグリットはこの状況に恐怖を感じていた。彼女が一体何を言っているのか、意味がわからない。何を言わせたいのか、何を望んでいるのか、わかるはずもなかった。
リネアの左手がジグリットの顔の真横の壁に叩きつけるように置かれた。ジグリットは、彼女に噛み殺されるのではないかと思ったが、リネアはもう片方の手で彼の腕を掴み、自分の絹の腰布に押し当てた。それは彼女の腹部だった。
「当ててみて」触れそうなほど顔を寄せて、リネアがにやりと笑って言った。
「わ、わからない・・・・・・。もうやめてくれ」
「二者択一でしょう。簡単だわ。どっち?」
リネアはリネアで、ジグリットが引き攣った顔で自分を見つめているのが、可笑しくて堪らなかった。そしてそれをいい気味だと思っていた。
ジグリットは首を振った。
「ち、違う、身篭ってない!」
どちらでもよかった。早く彼女から解放されたくて、ジグリットはそう叫んだ。
リネアはくすくす笑っていたが、ようやく彼の腕を離して、寝台から降りた。ジグリットは漆喰の壁に背中をつけたまま、ずるずるとへたり込んだ。
「当たりよ。ゲルシュタインって変わった国だわ。というより、あの男が変なんでしょうけど。自分の妻ですら信用できないんですもの」
それはジグリットの耳に入っていなかった。それほどジグリットはリネアの態度が怖かったのだ。リネアは寝台でぐったりとうなだれているジグリットに近づいて、腰布の帯に隠していた短刀を取り出し、彼の足枷の荒縄を切った。
「これでいいでしょう。約束は果たしたわ」
リネアはおもしろいものを見れたことに満足して、独房を立ち去ろうとジグリットに背を向けた。そのときだった。ジグリットは俊敏に寝台の上に立ち上がり、リネアの首に後ろから手を回した。
「・・・クッ・・・・・・」リネアが苦しげな声を漏らした。
ジグリットは容赦しなかった。それは殺意のように、彼の心にずっと以前から、どす黒く染み込んだ憎しみだった。頭の奥が怒りで燃え上がり、全身の力を込めて首を掴んでいた。しかしリネアの力が抜け、彼女がだらりと崩折れた瞬間、ジグリットは正常な意識を取り戻し、慌てて手を離した。
リネアはぱたりと床に倒れた。
「リネア・・・・・・!」
ジグリットは彼女を殺すつもりなどなかった。それは一瞬、湧き上がった怒りの発露に過ぎなかった。
「リネア、大丈夫か?」
肩を掴んで起こそうとしたが、彼女は小さく睫毛を震わせただけだった。
――生きている。よかった・・・・・・。
それと同時に、ジグリットはこの機会が何を齎すのかを知り、急いでリネアの腰から短刀を奪い取り、扉へ向かった。
――逃げるんだ、ここから・・・・・・そしてチョザへ戻るんだ。
ジグリットはいつもリネアがしているように、合図となっている拍子を思い出しながら扉を叩いた。それは正しい合図だった。内側へと扉が開き始める。ジグリットは明るい松明の光に眸を細めながら、アウラの顔が覗いたと同時に、彼女の首に短刀を押しつけた。
「声を出すな」囁くような声にも関わらず、アウラは驚愕で眸を見開き、唖然とした表情で急いで首を上下した。「鍵を寄越せ」
アウラから独房の鍵を受け取ると、ジグリットはアウラも室内へ引き摺り入れた。
「リネア様っ!!」
倒れているリネアを見て、アウラがうろたえながら駆け寄った。
ジグリットは二人を置いて独房を出た。廊下には誰もいない。両側を見渡したジグリットは、急いで独房の鍵を閉めた。
――これでしばらくは、二人とも出てこれない。
ジグリットは鍵を廊下の窓から外へ向かって投げ捨てた。窓の外は宮殿の中庭のようだった。砂漠地帯とは思えないほど、豊かに木々が茂っている。鍵はその青々とした葉の中に吸い込まれるように消えていった。
しかしぼうっとそれを眺めているわけにもいかない。ジグリットは廊下を走り出した。
――チョザへ帰るんだ。
それは途方もない遠い道のりだとわかっていても、今のジグリットの心には、それだけしかなかった。その思いだけが、彼を走らせていた。