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リネアは本当に久しぶりに、身の危険を感じずに朝を迎えた。かつて彼女が王女だった頃に使用していた寝台の寝心地は、いつまでもそこに伏せていたいほどだったが、侍女のアウラが部屋に入ってきたときには、リネアはすでに起き上がっていた。
「リネア様、決行の日時をフツが確認したいと言っています」
朝から聞かされる話ではなかった。リネアは機嫌が悪くなり、アウラに枕を投げつけた。
「無粋な男ね。郷里へ戻って、あの砂漠の熱風から開放されても、情緒一つ感じないのだから」
アウラは当たらずに落ちた羽毛の入った枕を拾い上げ、冷えた朝の空気が開いたままの窓から入っているのに気づいた。
「なんてこと! リネア様、窓をお閉めにならなかったのですか!?」
リネアは破顔した。「いいじゃない。この躰に染み込む冷気こそ、わたくし達が帰ってきた証なのよ」そして両腕を広げ、躰中に冷たい空気を吸い込もうとした。
「風邪を引かれてしまいます」
アウラはリネアがベトゥラ連邦共和国のシェイド出身だったエスナ王妃の娘であることを思い出していた。エスナ王妃も身を切るような寒さを好んだのだ。
リネアは気にも止めずに寝台を抜け出て椅子に腰かけ、アウラに長い錆色の髪をまとめさせた。その間、彼女は考えていた。どうすれば少し時間が稼げるかを。しかし良い案は生まれなかった。フツは事を急がせるだろう。
――でもあの男がいなければ、この計画すら実行できなかったかもしれない。
リネアにとって、これは前もって考えていた計画の最初の部分に過ぎなかった。アリッキーノが、その全貌を知らずに、タザリアへ送り出してくれたことは、喜ぶべきことだった。だからこそ、急ぎ過ぎて失敗するようなことがあってはならないのだ。
――もし失敗すれば、二度とタザリアの地を踏めないばかりか・・・・・・。
ジグリットの顔が浮かんだ。リネアは頭を振り、それを掻き消した。アウラが頭のてっぺんで結ぼうとしていた髪がそのせいで解け、また最初からまとめなければならず、彼女の溜め息が背後で聞こえた。
――失敗なんて有り得ない。そのために精鋭部隊をアリッキーノが寄越したのだもの。
リネアが連れて来た騎士はたった五人だったが、フツを含めて全員がアリッキーノの腹心だった。それに侍従の中にも、幾人か兵士が混じっていた。
リネアは開いたままの窓の外を、尾の黒い懸巣が鳴きながら飛んで行くのを見やった。そして覚悟を決めて言った。
「今夜よ。そうフツに伝えて」
アウラがリネアの錆色の髪をまとめ終わり、櫛を片付けながら「はい」と平淡に返事した。
――ジグリットはできるだけ早くわたしをゲルシュタインに帰そうとするに決まっている。その前に事を成さなければ。
夜でなくとも、上手くいく自信があったが、念には念を入れるべきだ。
アウラが部屋を出て行くと、リネアは窓に近づき、さっきの懸巣を探した。しかし見えたのは鳥ではなく、紅葉した楓の木と、中庭で剣戟の稽古をしているジグリットと冬将の騎士の姿だった。
彼女は堪えきれずに、薄笑いを浮かべた。明日の朝の光景は、こうではない。もう二度と見られない景色だと思うと、リネアの胸にも僅かだが寂しさが過った。
寂寞とした真夜中だった。淡黄色の下弦の月が、そこだけぽっかりと穴が開いたように暗闇を穿っていた。その他は暗黒の影が王宮を覆い尽くしている。しかし、そう見えただけかもしれない。彼女には、今から何が起きるかわかっているからだ。
リネアはソレシ城の階段をアウラと共に足音を忍ばせて降りていた。前方にはゲルシュタインの騎士が一人、二人を先導するように歩いている。
残りの四人の騎士がどこにいるのか、リネアは把握していた。アイギオン城だ。先ほど窓からアイギオン城を覗いていたときには、ジグリットの居室にまだ明かりが点いていた。すでに月は傾いている。ジグリットの働きぶりには感心するが、リネアはそれが彼の命運にさほども影響しないことを知っていた。すでに彼の運は尽きているも同然なのだ。
ソレシ城を出たリネアの前には、屋根付き馬車が用意されていた。馬車を曳く四頭は、すべて駿馬だった。彼女は馬車に乗り込む前に、弩弓の矢が風を切る音を聞いた。それから、誰かの悲痛な呻き声も。
南西の城壁だろう。巡視路に立っている衛兵の姿は見えなかった。暗いからではなく、本当に誰もいなかった。その巡視路に倒れているだろう兵達のことを、彼女は考えようとしなかった。命の価値にさえ、興味がなかった。
「リネア様、先にチョザを出て、曠野で待機しましょう」騎士は四頭立ての馬車の御者をすべく、御者台に上っていた。
アウラが亜麻布に包まれた大荷物を持って、リネアを急き立てるように先に馬車に乗せた。続いて彼女も乗ってくる。
本当はリネアも、残って事が行われるのを見届けたかった。しかしそのために、命を危険に晒すつもりは毛頭なかった。
馬車は走り出した。門の落とし格子は上がっていた。門を潜る直前、巻揚機の横に倒れている門兵二人をリネアは見た。屍体は松明の橙色の光の下にあったが、鎧に覆われているせいで、血は見えなかった。
彼女は馬車の中に向き直り、外を見るのを止めた。チョザの街へ向かって、馬は坂を降り始めていた。




