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タザリア王国物語  作者: スズキヒサシ
影の王子
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第三章 黒闇天の影踏み 1

第三章 黒闇天の影踏み


          1


 噂が広がるのはエスタークも王宮も同じで、ジグリットが孤児であり、炎帝(えんてい)騎士団のグーヴァー騎士長の(くら)を盗もうとした盗人だという話は、瞬く間に王宮中の人という人、兵士という兵士すべてが知るところとなった。

 ジグリットはそれに付いて訊ねられても何も答えなかった。肯定も否定もしない彼の態度は、当の本人であるグーヴァー騎士長の否定的な態度と相まって、徐々に消えていき、紫暁月(はる)から蛍藍月(なつ)へと移る間に、人々の口に上らなくなっていた。

 そのおよそひと月の間に、ジグリットは王宮での慣習や無意味な風習に慣れていった。エスタークの孤児の仲間と離れて暮らすことは、彼にとって辛いことだった。王宮は見知らぬ者の集まりであり、王の家族はほとんどが彼に対して冷ややかだった。

 特に王妃は、ジグリットを見かけても空気のように無視した。彼女がそうするのは何もジグリットに限ったことではなかった。王妃は、第二夫人ラシーヌの息子であり、タザリア王の庶子であるタスティン・タザリア王子に対しても同様の態度を取っていた。

 タスティン王子は、ジグリットより五つ年上の十五歳で、すでに王のようにがっしりした立派な体格をしていた。彼は母親譲りの褐色の肌で、見た目にも筋肉質で(たくま)しかった。そして剣戟(けんげき)を含んだあらゆる武術に関して、彼は腕が立った。

 タスティンは自分が庶子であるが故に、タザリア家の一員であるとは思っていないようだった。だからジグリットには優しく、見かけると何かと声をかけてくれた。彼はよくアイギオン城の南側の窓辺からアンバー湖を見つめていた。彼の母親、第二夫人ラシーヌは王宮に住まいを持たず、アンバー湖の南、ディタース川と交わる湖岸に館を持って暮らしていた。しかし、アンバー湖の全長はテュランノス山脈づたいに細長く、最大12リーグ(およそ57キロ)もあり、その館がチョザの高台にあるアイギオン城から見えることは一度としてなかった。

 ジグリットは王宮へ着いてから三日目、ようやく風邪が全快し、声が出せるようになっていた。しかしひと月が経った今も、彼の口から言葉が出ることはなかった。ジグリットは意識的に話そうとはしなくなっていた。

 ジグリットがチョザの王宮へやって来て数日後、王女リネアが侍女を連れて、彼の居室を訪れた。彼女は開口一番に宴席で王が告げた「ジグリットを家族として育てる」と言った事について、それは父が城で働くすべての者に対してそう思っているのであり、ジグリットを特別視しているわけではないことを、尊大な態度で言い放った。

 そして信じ難いことに、彼女はジグリットを彼にしては広い、またリネアにしたら豚の寝床でしかない寝台(ベッド)に突き飛ばした。ジグリットは王女がそんなことをするとは夢にも思っていなかったので、何の対処もできなかった。彼はなすがままで、リネアが自分の腹の上に跨ってもただ茫然と眸を見開いていた。

 リネアはジグリットの頭上から冷淡な微笑を浮かべて言った。

「声が出ないって、どんな気分なのかしら? 惨め? それとも――」と彼女は石膏のような白い指先でジグリットの喉に爪を突き立てた。「恐ろしい?」

 ジグリットは喉に刺さった鋭い爪の痛みに顔を歪ませた。それを見てリネアはさらに喜悦に眸を細くした。彼女が楽しんでいることにジグリットは恐怖を感じた。

「ねぇ、恐ろしいでしょう? 悲鳴を上げてみれば?」

 リネアはジグリットに質問したが、彼の答えを欲してはいなかった。ただその表情の苦しむ様が彼女には愉快だったのだ。ジグリットはその時、すでに風邪が治り、声が出るようになっていたが、絶対に(うめ)き声すら漏らすまいと心に決めた。こんなことをされて易々(やすやす)と悲鳴を上げたら、それこそ彼女の予期した通りになってしまう。

 リネアはジグリットの喉に親指の爪を血が滲むほど食い込ませた後、それ以上の楽しみを得られないと知ると、ようやく手を離した。

「あら、本当に声が出ないのね。こうすれば、怖くて泣き出すかと思ったけど」

 ジグリットは無言でリネアを睨み上げた。それが彼ができる精一杯の抵抗だったが、リネアはふふっと軽く笑ってあしらった。

「勘違いしないことね。所詮、(ドブ)で産まれた孤児は孤児。おまえはジューヌの身代わりにいつでも、その生命(いのち)を投げ出すネズミに過ぎないのよ」

 リネアはジグリットの上から退くと、長い髪を鬱陶しそうに首を振って後ろへ払った。ジグリットはその背後で、二人の様子を見守っていた少し年上の侍女が両手を握り締め、青褪めているのを見た。彼女の眸はジグリットを気の毒に思っているようだったが、それと同時に彼を助けるつもりもないように見えた。

 リネアはジグリットに警告しに来たのだった。二人が部屋を出て行くと、ジグリットはひりひり痛む喉を押さえて、姿見の前に立ち、リネアとは死んでも口を利いてやるものかと心の底から思った。

 そしてそのままひと月が過ぎ、最初はリネアに対する、ささやかな反抗心からそうしていたに過ぎないが、ジグリットはすぐにそれが王宮では利になることだと気付いた。

 王宮は恐ろしい腐敗の声に満ち満ちていた。そして、一部の口の軽い分別のない輩は、往々にして愚かで、差別的だった。ジグリットは彼らを観察し、その隙間から様々な話を耳に入れることができた。告げ口しない、無害の少年。それが侍従を含め、王宮内で働く人々の彼に対する評価になっていた。


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