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同年、蛍藍月。リネアがタザリアを去ってから、ジグリットはタザリアの国政を見直し、過剰な税の廃止や、下層民、中でも貧民窟に暮らす人々の生活を改善しようと、一日のほとんどを謁見室で書類を手に過ごしていた。
炎帝騎士団の騎士長グーヴァーは彼にずっと付き添い、前王時代からのやり方や、コツを伝授するのに躍起になっていた。なぜなら、ジグリットはまだ新米の王であり、突然即位したようなものだったので、彼は知らないことが多すぎた。伝統や慣例を重んじた他国とのやり取りも、騎士長が補っていた。
しかしジグリットは急速に王宮内の改革を推し進めていた。不必要な人員の削減から、使途不明金の根絶などやることはありすぎるほどあった。
冬将の騎士ファン・ダルタは、騎士長のグーヴァーがほとんど不在状況の騎士団を、しっかりと統率していた。現在二十名の騎士団は、内乱で減った人数をさらに増員した、いずれも精鋭揃いで、彼らを選んだのも冬将の騎士だった。
ただ、新生騎士団のように勢いに乗っている者だけではなく、逆に意欲をなくした者達もいた。それが近衛隊だった。彼らは近衛隊長のフツが、以前はクレイトスの片腕のように扱われていたのに対し、今ではただの王宮警護の一派に思われていると、憤慨していた。しかも仲間の数人が、王女を王位に就かせようと画策したため、フツに除隊させられたことも知っていた。
だが、本を正せば、それもフツがクレイトスの生前に、ジューヌ王子をジグリットだと言い張ったことから端を発した根深い問題で、彼らの主張では、いまだに王が近衛隊を敬遠しているのはそのせいだと言うのだった。
ジグリットはこの問題に、特にこだわっていなかった。時が来れば治まるだろうと思っていたのだ。だが、日増しにその声は其処彼処で大きくなっていた。
暑さの盛りが近づいたある昼間、謁見室にいたジグリットの許にフツがやって来た。それまでジグリットは、フツを敬遠しているつもりもなければ、近衛隊を軽視しているつもりもなかった。
フツは相変わらず暗緑色の制服をだらしなく襟を広げて着たまま、玉座の前に跪いた。
「陛下、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
ジグリットはウァッリスの厳しい関税の計算書に眸を通していたが、すべてマネスラーに渡して近衛隊長の方を向いた。
「いいよ、何?」
フツは珍しく、言い淀んだように表情を曇らせ、だが決意して言った。
「陛下、突然のことで申し訳ございませんが、お暇を取らせていただきたいのです」
ジグリットは眸を瞠り、左手にいるグーヴァーを見た。騎士長はぐっと眉間に皺を寄せ、怒ったような顔つきになった。ジグリットは続いて、右手にいるマネスラーを見た。しかしマネスラーは興味がなさそうに書類から顔を上げもしなかった。
「ええっと、それは一体どういうこと? 辞めたいってことだよね?」
「そうです」はっきりと答えたフツに、ジグリットは困惑げに眸を瞬かせた。
「理由を聞かせてくれないか?」
そのとき、ジグリットは広間の扉の脇に立っている二人の衛兵が、興味津々でこちらを窺っているのに気づいた。
「そうだな、マネスラーと君達は出て行ってくれ」
マネスラーは一応、耳は聞こえているのか、それでも書類を見つめたまま、ぶつぶつと計算式を口にしながら広間を出て行った。続いて二人の兵も未練げに出て行き、両開きの扉をぴったりと閉めた。
残っているのはジグリットとグーヴァー、それにフツだけになった。
「さぁ、これで気負わずに話せるだろう」ジグリットが言うと、フツは礼儀を放棄して立ち上がった。
「あんたにとっちゃ、その方がいいだろうぜ」フツは冷ややかな笑みを浮かべていた。
「フツ、陛下の御前だぞ」グーヴァーが窘める。
「おれは今も、こいつがジューヌ様だと思っていない。自分の正統な君主だと思っていない相手に、礼儀云々は意味がないだろう。なぁ、ジグリット」
ジグリットはフツの言動に平静を装おうとしたが、すでに青褪めていた。
「おまえ、まだそんなことを言っているのか!?」
グーヴァーはただ驚いていたが、フツは彼を無視してジグリットに言った。
「おれが近衛隊を辞めさせてくれと頼んでいるのは、あいつらがそうして欲しいと打診してきたからだ」
「・・・・・・近衛隊の隊員達が、君に辞めて欲しいと言ったのか!?」
フツが「ああ」と肯定したので、ジグリットは余計に混乱した。
近衛隊の隊員達は、フツを隊長としてずっと昔から慕っている。彼らがそんなことを言うとは思えなかった。
「それは本当なのか?」とグーヴァーも訊ねた。
「残念ながら、本当だ」フツはしれっと答えた。「あいつらは、近衛隊が騎士団と同等、もしくはそれ以上の存在であると自負していた。王宮を警護する者として誇りを持つことは、必要不可欠だ。だが、その誇りがいまや、消え失せんばかりってわけだ」
「なぜだ? 彼らが矜持を失う理由がわからない」ジグリットは首を振った。
フツは嘲るように微笑した。「あんたが騎士団を優遇しているからだろう。お側に騎士長を、そして冬将の騎士とはまるで兄と弟のように親密だ。そんなところを見せつけられて、あいつらが何の不安も抱かないと思っていたのか?」
「そんなつもりはない」ジグリットは言ったものの、完全に否定できない気持ちもあった。
「あいつらにしちゃ、近衛隊が落ちぶれたのは、隊長のおれがジューヌ様にいらぬ嫌疑をかけたせいだって思っても仕方ないだろう」
「それは昔の話だ!」グーヴァーが怒鳴った。
「いいや、昔の話じゃねぇよ。おれはいまだにそう思っているからな。まぁ、あいつらはおれがいなくなりゃ、近衛隊も重視してもらえると思ってんだよ」
ジグリットが考え込むと、フツはそれを妨げるように手を振った。
「なぁ、ジグリット。おれを今のうち放逐しておいた方がいいぜ。どうせおれは、おまえのために命を張ってやろうなんて気はさらさらないからな」
「なんてことを!」グーヴァーがまた怒鳴った。
しかしジグリットは落ち着いた声で彼に言った。
「ダメだ。おまえがいなくなると、困る」
「・・・・・・」フツは初めて真顔で玉座の少年を見た。「それはおれを信用してるからじゃないだろう。おれが強いからだ」
「・・・そうかもしれない」
三人ともが押し黙り、重い空気が流れた。やがてフツが大きな溜め息をついた。
「おれはおれが守りたいと思っている者を守るべきだ。それがおまえじゃないのなら、おれがここにいる意味はない。わかるか?」
「わかるよ」ジグリットは消え入りそうな声で呟いた。
「おまえには、おまえを守る騎士が何人も、それこそ何十人もいる。おれ一人がいなくなったとしても、おまえに大した損害はないだろう。近衛隊の隊長を辞めても、おれはどこでも戦える。こいつがある限りな」彼は腰に下げた長剣を軽く叩いた。
そのまま、フツは広間を出て行った。もう二度と戻ってこないと知り、ジグリットは初めて震えがきた。指先が冷たかった。胸の鼓動が速く、心臓の上が痛んだ。その場所は、魔道具ニグレットフランマを植えられた部分で、ジグリットはそれが稼動するのではないかと畏怖したが、やがて気分が落ち着くと、胸の痛みも遠くなった。
「陛下、このままフツを行かせてよろしいのですか?」グーヴァーが追うように扉へ向かいながら言った。
「いいんだ。行かせてやれ」
ジグリットは玉座に身を投げ出すようにして座ると、眸を閉じ、息を吐き出した。自分が本物なら、彼は味方でいてくれたのだろうと思うと、やるせなかった。クレイトスの死期に感じた思いが甦るようだった。ジグリットではなく、自分が本物のジューヌだったら、これほどの悲しみを他人に強いることも、犠牲を伴うこともなかったのにと。
グーヴァーが戻ってきて、声をかけた。
「ジューヌ様、いくらフツが近衛隊の隊長とはいえ、あのように身勝手なことを言わせるばかりではいけません。王としての威厳を保って下さらなくては」
眸を開き、ジグリットは自分の信用する勇猛な騎士を見上げた。
「言いたいことを言うべきだ」ジグリットは小さく微笑んだ。「グーヴァー、すべての人がぼくに言いたいことが言えるはずだ。ぼくは批判を受けることを恐れたり、腹立たしく思ったりはしない。たとえぼくがこの国の王でも、違う意見を受け容れるべき度量は兼ね備えている。おまえ達が王に対し、口を閉ざすことの方がぼくは恐ろしい。なぜならぼくは、独裁者ではないからだ」
グーヴァーをそれを聞いて、玉座の前に膝をついた。
「申し訳ございません。そのような意味合いで、あやつの言動をお聞きになっていたとは存じませんでした。もっともジューヌ様が独裁者だとは、誰も思いませんが」
「いいんだ。結局、フツを止めることさえできないのだからな。ぼくはまだまだだ」
そしてフツが去ったことは、瞬く間に王宮中の話題となった。ジグリットが彼を退任させたのか、それとも彼自らが去ったのかは、いつまでも謎のままだったが、それでも近衛隊は新しい隊長を立て、なんとか持ち直していた。しかしそれは増え始めた小さな綻びの一つでもあった。




