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紫暁月59日。ジグリットはゲルシュタイン帝国のアリッキーノ一世王と、タザリア王国王女リネアとの婚礼の儀に臨んだ。ジグリットは王宮の礼拝堂の中で、少女神の像を前に紫の外衣を纏い、タザリア王として祝辞を述べた。しかし胸の内は複雑だった。自分の心に渦巻く感情に、彼は苛立った。ジグリットはリネアに対する今までの嫌悪感以上に、アリッキーノの底知れない不気味さを畏怖していた。
純白の衣装に身を包んだ王女と、黒の軍服を着たゲルシュタイン王は、互いに派手に着飾るのが嫌だったらしく、それは同じ仕立屋が見繕ったかのように、ぴったりと調和していた。白金の髪と薄墨色の眸をしたアリッキーノが黒を着ると、より一層、彼自身の白さが目立ち、リネアよりもアリッキーノの方が穢れない神の御使いのようだった。
二人は前日に申し合わせた通り、寸分の狂いもなく儀式を執り行った。リネアの錆色の髪は小冠についた様々な宝石よりも、琥珀色に鮮やかに輝き、隣りのゲルシュタイン皇帝と並ぶと、出席者は二人の美しさに思わず溜め息を漏らすほどだった。
式が終わり、夕陽に照らされた礼拝堂を出たリネアとアリッキーノは、誰よりも早くアイギオン城へ戻った。彼らは二人きりだった。
「今日の君の美しい姿を、妹に見せられないのは残念だな」
王宮に来たときから与えられている、アリッキーノの居室に入ると彼が言った。そこは続き部屋で、奥の扉の先に寝所があった。リネアはそちらを見ずに、純白の衣装の裾を持ち上げ、手近な椅子に腰かけた。
「そう言えば妹が一人、生き残っていたのよね」
彼女の大胆な嫌味に、アリッキーノは声を上げて笑った。
「ハッ、なるほど。おれのお姫様は、本当におれが兄弟達を殺したと思っているらしい」
「違うの? とてもそうは思えないけど」
アリッキーノも長椅子の一つに腰かけた。彼は首を締めていた白い帯を外して、笑うのを止めた。冷淡な蛇の眸になり、彼はリネアを見据えた。
「質問なら、答えよう。おれは愛妻にまだ嫌われたくはないからな。だが代わりに一つ、質問させてくれ」
「何かしら?」リネアも錆色の輝きを増すほどの炎を宿して、男を見返した。
「なぜおれと結婚した?」
「あなたが美形だからよ」
アリッキーノは眉一つ動かさなかった。
「あなたこそ、なぜわたしと結婚したの?」今度はリネアが訊く番だった。
「タザリアが肥沃な土地だからだ」
それは確かに真実を突いているようにも思えたが、リネアは騙されなかった。それは答えになっていなかった。
「タザリアを自分のものにするつもりってことかしら?」
アリッキーノは立ち上がり、部屋の隅に置いてあった蓋つきの陶器の箱を手に取った。
「今のところ、その気はない。おれが襲いたい国は、まだ幾つも残っている」彼は言って、蓋を取った。
リネアが見ている前で、アリッキーノは箱からドローンの躰を鷲掴んで引き出した。その鎖蛇は、女よりも淫らに躰をくねらせて、男の手で愛撫されるのを待っていた。アリッキーノは一度だけそれに応え、蛇の頭を撫でた後、ドローンをリネアの方へ放り投げた。
蛇はリネアの手の届く位置に落ちた。彼女は動かなかった。確かに毒蛇は恐ろしかったが、アリッキーノが初日に妻を殺すとは思えなかったからだ。しかもここはタザリアだ。
ドローンは首を持ち上げ、その場で初めて見る女を検分している。それはリネアには一時間にも二時間にも思えるほど長い時間だった。実際には数分も、蛇はその場にいなかっただろう。ドローンは興味を失ったように、のろのろと躰を左右に振りながら、アリッキーノの方へ戻って行った。
「怖くないのか?」男がおもしろそうに訊ねた。
「怖かったわ」
「それにしては、叫びもしなかった」
リネアは恐れが退くと、怒気で腸が煮え繰り返りそうになっていた。彼女は険しい眸つきで、アリッキーノを睨んだ。
「一度だけ言っておいてあげる」彼女は立ち上がり、アリッキーノが蛇を箱に戻して、また部屋の隅に置くと近づいた。そして男を見上げて殴りつけるような眼差しのまま言った。「炎は蛇を恐れない。あなたが兄弟を殺しても、父王を殺しても、わたしを殺すことは絶対にできないわよ。わたしは黒き炎の血を持つ女。おまえごとき蛇に、炎を消すことはできない」
アリッキーノは彼女を見下ろし、薄笑いを浮かべた。「おれの妃にふさわしい女だ。蛇を恐れる女に価値はない」そしていまだに怒り心頭といった様子のリネアの前に跪いた。「おれはでき得る限り、君に敬意を表しよう。その激昂した姿が、君を一段と美しく輝かせるが、それでも極力、君にそういう顔をさせないように努力しよう。済まなかった、我が姫君。脅かしたことを赦してくれるか?」
アリッキーノがそっとリネアの手を取り、甲にくちづけた。リネアはその冷たい感触に、払い除けたい気分だったが、甘んじて受け容れた。
「いいわ、初日から仲違いしたくはないもの」
それは本心ではなかった。リネアは今すぐに、この薄気味悪い蛇の臭いが染み付いた部屋から出て行って、自分のソレシ城の居室へ駆け込みたかった。
だがすでに、この王宮は彼女の手を離れてしまっていた。リネアはアリッキーノの妻となったのだ。明日になれば、半月かけてゲルシュタインの帝都ナウゼン・バグラーへ旅立たなければならない。
「最初の質問だが」アリッキーノが立ち上がりながら言った。「おれは不必要なものを始末しただけだ。おれにとって、無用なものを」
それが彼の兄弟と父親を指すことは、言われなくてもわかった。リネアは嫌悪を抱きながら、日々この男と過ごすのかと思うと、しばらくは作り笑いの練習をしなければならないと悟った。
窓の鎧戸は閉められ、部屋は薄暗かった。松明の火が壁際に幾つか並んでいたが、それはいつ消えてもおかしくないほど、熾火のように燻っていた。糸杉の円卓の上には、水と果実酒、それに麺麭や乾酪といった軽い食事が一式置いてあった。しかしリネアもアリッキーノも手をつけなかった。
無意識に続き部屋の方を眸にしたリネアに、アリッキーノは彼女の肩を押すようにして、そちらへ連れて行き、扉を開いた。寝所はさらに暗く、中央に置かれた天蓋付きの寝台の脇だけが、ぼうっと明るかった。アリッキーノの手に押されて部屋に入ったリネアは、それが角灯の火だと気づいた。その直後だった。
アリッキーノは強引にリネアの腕を引き寄せ、噛みつくように彼女の唇を奪った。押しつけられた唇は、嗅いだことのない薬の臭いがして、リネアは閉じた眸を開いた。そこには灰色の眸をした白い蛇が自分を喰い殺さんと覗き込んでいた。
「おまえは熱いな」唇を離し、アリッキーノが言った。
「あなたは冷たいわ」
リネアは血の通っていない死者とのくちづけのようだと思った。何の感慨もない、ただの石像との接吻だ。ただそれと違うのは、唇が相手の唾液に濡れたことだった。彼女は肉が削げ落ちるまで、自分の唇を擦りたかったが我慢した。
「おれは蛇だからな」アリッキーノは上衣を脱ぎ捨て、砂漠の民とは思えぬ白い肌を露出した。「悪いがおれはしばらく寝る。少し疲れた。一緒に寝たいなら寝てもいいが、おれが夢うつつにおまえを殺すかもしれないから、別室にいた方が安全だぞ」
リネアは驚いて問いかけた。「わたしとするんじゃないの?」
それに対する男の言葉は、彼女に吐き気を催させた。
「おれは性交と殺しを同時にするのが好きだ。死んでもいいなら、抱いてやろう」
「・・・結構よ」
「だろうな。どちらにしろ、おれ達にはまだ信頼関係がない。同じ寝台に入るには、信用か死が必要だ。おまえだって、敵と寝るのは怖いだろう」
感謝しろとでも言いたげな傲慢な態度だったが、リネアは答えることができなかった。男が言うように、彼女は怯えていた。アリッキーノが自分を抱くつもりもないのに、寝室へ連れて来たのは、怖がる様を見たかっただけなのだと気付き、リネアはさらに男に対する嫌悪を深めた。
アリッキーノが寝台に上がるのを見ず、リネアは隣りの部屋へと戻った。長椅子にかけると、彼女は悔しいのか情けないのか、そのどちらでもあるのか、とにかく泣きたくなって唇を噛み締めた。彼女は同じアイギオン城のどこかにいる一人の少年のことを思った。
――わたしがどんな目に遭っているのか、ジグリットが知ればいいのに。
――今この瞬間、あの子が微笑んでいるのなら、どんな方法を使っても今日という日を後悔させてやる。
リネアの内に潜む憤怒は、夜になり空が白む朝方まで彼女を眠らせなかった。やがて疲れて長椅子で眠ってしまうと、目覚めたときには昼前で、彼女は寝台に横になっていた。
代わりに自分がいたはずの部屋から、ぼそぼそと何度かアリッキーノの低く冷静な声が聞こえた。帰還の準備を指示しているのだろう。男が自分を寝室に運んだとは、とても思えなかった。彼の従者にさせたのだろう。
リネアはうとうとしながら、鈍った頭で思った。働き者の蛇なら、それはそれで悪くない。気に食わない蛇でも、あの男が手にしているすべてが、今はわたしの手にもあるのだ、と。




