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歓待の挨拶もそこそこに、王族と付き従う騎士達は、アイギオン城へ入った。すでに給仕頭が一階の大広間に饗宴の用意を進めている。ジグリットは自分より少し長身のアリッキーノと用意された席に並んで座った。リネアは少し離れて、一段低い場所に座っている。
「長旅でお疲れでしょう。まずは喉の渇きを潤して下さい」
ジグリットが葡萄酒の杯を満たして、アリッキーノに渡すと、彼は薄い灰色の眸で微笑んだ。
「忝い。砂漠から来たとはいえ、水がなければ生きられないのは、人間誰しも同じでしてね」
ジグリットはアリッキーノのにこやかな笑みに、なぜか背筋が冷たくなった。本物の毒蛇と対峙しているような錯覚がして、ジグリットは眸を瞬かせてゲルシュタインの王を見つめた。しかしアリッキーノはもう一度、にっこりと微笑しただけだった。
ジグリットは気を取り直して彼に言った。
「王宮からもアンバー湖が望めるように、タザリアは水の豊富な土地です。ゲルシュタインとタザリアは文化の違いと同じように、持っている資源も違う。わたし達は手を取り合うことによって、さらなる発展を遂げるでしょう」
アリッキーノは賛同するように、杯を口に当てて傾けた。そして一気に飲み干すと、血のように赤い葡萄酒を喉まで滴らせながら答えた。
「その通り。われわれは補い合える。そのためにわたし達はやって来た」
広間にはすでに、入りきらないほどの騎士や兵士が溢れていた。席の見つからない者は通廊にまで座り込み、ジグリットの目算だけでも五百人はいた。その間を縫って料理を運ぶ給仕達は額を汗で光らせ、あちらこちらで麦酒や葡萄酒が足りないと叫ぶ兵の声が上がっていた。
ジグリットは警戒心を顕わにして側に立っていた冬将の騎士を呼び、彼に和睦のための証書を取ってもらうと、アリッキーノに差し出した。
「これがタザリアとゲルシュタインの国交樹立の証明書です」
「もちろん署名しよう」アリッキーノは受け取り微笑んだ。「それから、わたしの姫君とはいつ話しをさせてもらえるのかな?」
ジグリットはぎょっとして、リネアの方を見た。彼女は宴会の始まる前の広間を、退屈そうに眺めていた。それは思わず見惚れそうになるほど美しい横顔だった。すっと通った鼻梁は白く、薄化粧された頬は桃色に、淡紅色の唇は閉じた蕾のように華やいでいた。リネアをそんな風に思ったことがなかったジグリットは、自分の眸がどうかしたのかと小さく頭を振った。そしてアリッキーノに言った。
「もちろん、あなたが話したいときに、彼女に声をかけて下さい」そのとき、ジグリットの心に一瞬、意地悪な感情が芽生えた。彼は余計なことも口にした。「ですが、リネアはちょっと気分屋なところがありますから、お気をつけた方がいいですよ」
アリッキーノは破顔した。「女性はみんなそういうものです。むしろそういうところが可愛いと、わたしは思っているんですよ」それは余裕の笑みだった。
広間の料理が揃い、準備が整うと、ジグリットはアリッキーノと共に立ち上がり、宴の始まりの杯を上げた。ジグリットが思った以上に、その細身の男はよく喋り、よく食べた。静かな眼差しに、時折不気味な翳りのようなものが走ったが、ジグリットは気づかないふりをした。鎖蛇がどういう蛇なのか、よく知らないうちに判断すべきではないと思ったからだ。だが、話せば話すほど、この男が父親と兄弟を殺したのだと本気で思えるようになっていた。
アリッキーノは物静かで頭の切れる男だった。そして驚くほどよく微笑む。穏和な外見に一ヶ所だけ落とし穴があるとすれば、それは眸だった。男の眸は、微笑んでも微笑むことができない肉食獣の眸をしていた。一瞬先には、喰い付かれそうな鋭さが宿っていた。
ジグリットが少し席を外した後、戻ってみると、隣りにいたはずのアリッキーノがいなくなっていた。周りを窺うと、彼はリネアの横に座って歓談していた。二人の会話は騒ぐ兵士の声で聞こえなかった。
リネアはアリッキーノの杯に、侍女のように葡萄酒を何度も注いでいた。彼女は酔っていなかったが、酔っていたとしても態度は同じだっただろう。
「わたくしの嫌いな男を教えてあげる。自信家な男と、役に立たない男よ」
アリッキーノは水のように葡萄酒を飲んだ。彼もまた酔っていなかった。
「なら、わたしはそのどちらにも当てはまらない。わたしなら君のために何でも手に入れる力があるし、その実、自分が君のその美しさの前に劣っていると感じているのだから」
アリッキーノはリネアの錆色の眸が険しく歪むのを、上機嫌で見つめていた。
リネアは怒ったように言った。「もう一つ付け加えるのを忘れていたわ。わたしは口の上手い男も嫌いなの」
彼女の孤高の精神は、アリッキーノを心地良くした。嘘偽りなく、彼は彼女に好意を抱いていた。二年前、二人はフランチェサイズで初めて会った。リネアはタザリア王の代理として、アリッキーノも父王の代理として、バスカニオン教の繁栄の儀のためにアルケナシュ公国を訪れていた。外交政策の一環で、彼らの協議に大きな意味はなかったが、アリッキーノはリネアの理知的で誇り高い、その超然とした様に惹かれた。ただし、それが恋愛感情だとは思っていなかった。女だてらに、なかなか鋭い思量の持ち主だと感心したのだ。そして愚かな女よりは、知性のある女の方が、自分の横にいるのに邪魔ではないだろうと考えていた。それだけのことだった。
広間での饗宴が空が白む頃に終わりを迎えると、アリッキーノはアイギオン城のニ階の一室へ、リネアはソレシ城へ、そしてジグリットも自分の居室へと戻って行った。
ジグリットが居室に戻ると、すでに騎士長のグーヴァーと冬将の騎士が王を待っていた。
「うまくいったと思うか?」
ジグリットが重い外衣から開放され、靴を脱ぎ捨てながら訊ねると、グーヴァーが渋い顔で唸った。
「どうでしょうね。わたしは、うまくいくべきか、いかない方がいいのか、もうわかりませんが」グーヴァーは今でも、蛇は信頼できないと心底思っているようだ。
「それでも、今回はうまくいっていただかないと困るでしょう」冬将の騎士が、ジグリットの放り出した靴を拾い、部屋の隅に置いた。「どんな話をしたのか、詳細に聞かせていただけますね、陛下」
ジグリットは頷いた。「わかっている。会話の内容はすべて覚えているさ」
おかげで宴会だというのに、ジグリットはほとんど酒を口にしなかった。酔っ払うと頭がぼうっとして使い物にならなくなるからだ。
「ヤツが何をいい、何を言わなかったのか。そして言ったことのどれほどが嘘偽りであったのかを、わたし達は見極めねばなりません」騎士が再び言った。
騎士長は部下の言葉に深く同意し、二人の騎士は話を聞こうとジグリットを金襴張りの長椅子に座らせた。彼らの一日は始まったばかりだった。
その頃、リネアもアウラと部屋で今夜のことを嘆いていた。彼女は髪留めを外して、首を振り、錆色の髪を流しながら、アウラがすべての装飾品と衣服を脱がすのを突っ立って待っていた。
「アイツの何が嫌って、とにかく眸がイヤ! あの爬虫類特有のいやらしい眸も、白髪だか、銀色だかはっきりしない髪の色もイヤ! 馴れ馴れしい口調も、偉ぶった態度もイヤ! たまに老人と話しているみたいな気にさせる老成しきったところもイヤ! あの男が側にいると、虫唾が走るわ」
一気に言い放ったリネアに、アウラは眸を瞬いた。
「ですがリネア様、婚姻の件はリネア様が承諾なさったことですよ」
「わかってるわよ、そんなこと!」
だったら、アリッキーノとの婚姻の話など受けなければ良かったのに、とアウラは思った。もちろん口にはしなかったが。
「今宵はさぞお疲れになられたでしょう。朝はゆっくりなされますか?」
アウラの心遣いに、リネアは溜め息を漏らした。
「いいえ。いつもの時間でいいわ。あの蛇が王宮にいる間、よく眠れるわけがないもの」
「・・・・・・わかりました。何かありましたら、お呼び下さい」
アウラは一礼して、リネアが着ていたものすべてを手に、寝所を出て行った。リネアはそれを見届けて、豪奢な花蓋のついた寝台に腰かけた。
彼女の表情は暗く、しばらくしてそっと立ち上がると、リネアは窓へ近づいて、アイギオン城のまだ煌々と灯った明かりを見つめた。ジグリットの居室がある辺りは、すべて明かりが点いていた。彼はまだ起きているのだ。
――わたしは蛇と結婚する。
彼女はぶるっと躰を震わせた。
――でもこれでいいんだわ。こうするしか方法はないんですもの。
――ゲルシュタインなんかに、タザリアを渡すわけにはいかない。
それは正統なタザリアの王女としての気持ちだった。だが、リネアは自分がそれほどまでに、祖国を愛しているのかわからなかった。そんな風に国を思ったことはなかったからだ。所詮は、一時の治世に過ぎない。時代が変われば、タザリア王家も廃れ、やがては別の勢力が世界を牛耳るだろう。
――それでもわたしが生きている間は、わたしの価値を貶めるわけにはいかない。
――蛇の妻になれば、蛇のものはわたしのもの。わたしの価値が高まるのよ。喜ばしいことだわ。
しかしそう考える自分の心に、かすかに渦巻く黒い陰鬱な想いを彼女は感じていた。それが何を示しているのか彼女にはわからなかった。
――わたしは、一体何を恐れているのだろう。
――蛇の妻にされることを? まさか。わたしは変わらず黒き炎だわ。蛇に炎は消せない。
――だとしたら、タザリアを去ることを?
――それともジグリットと・・・・・・。
考え続けると、恐ろしい答えに行き着きそうで、リネアはそこで思考を止めた。
――いずれわかることだわ。あの偽りの王をどう処分するかも、ゆっくりと決めればいい。
ジグリットをこのままタザリアの王として、自分の弟の身代わりとして置いておくつもりはなかった。だが、まだリネアは考えついていなかった。このときはまだ。




